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質問 「孫子読みの孫子知らず」に陥らないための心得とは  2007.10.11

<質問>

 将たる者・兵法家が最も弁(わきま)えるべき『将の五危』<第八篇 九変>や、『将の六過』<第十篇 地形>というものは、そもそも己の兵法知識やレベルを過信するがゆえに惹起されるものと思います。
 しかし、自信がなければ戦うことはできませんし、自信があったらあったで陥穽に陥り易いし、遅疑逡巡は避けなければならないし、ここは兵法家が最も苦しむところであり、まさにジレンマと言うべきものであります。

 この「孫子読みの孫子知らず」に陥り易い兵法家の盲点、即ち、己の兵法的知識やレベルへの過信というものの背景には、平素、あまり気がつかない重要因子が潜んでおり、それへの配慮を欠く結果として上記の事態が惹起されるものと考えます。その重要因子とは、つまりは「己の器量をいかに磨いて行くか」にあると考えますがいかがでしょうか。


<回答>

 大変に良い質問です。次のようにお答えいたします。

1、(現代的な意味での)兵法家とは何か

 私が思うに、戦国武将の生き様も、現代に生きる我々個々人の生き様も本質的には何ら変わらないと思います。その理由はさておき、武の根源は「勇」でありますから、「勇」を振るって生きている人は、皆、(現代的な意味での)兵法家であると思います。

 ただ、真に難しいのは他人(ひと)に勝つことではなく、己自身、言い換えれば「己の弱さ」に克つ(欲望・誘惑に勝つの意)ことでありますから、真の兵法家たる条件の第一は、克己心に富み、日夜、「己の弱さ」と対決し勝利している人ということが言えます。つまりは、孫子の曰う「己を知る人」であります。

 その意味では、たとえば、政治に無関心な人、飲酒運転などのマナーが守れない人、はたまた、売らんかなのコマーシャリズムや、それらを無責任に煽るマスコミに付和雷同して、(寓話に見える)彼のキリギリスのごとく浮かれている人々、などは確かに似非(えせ)兵法家の尊称を奉るべきかも知れません。

 しかし、それとても究極は本人の決断と行動の結果でありますから、(釈迦の説く因果応報の原理ゆえに)第三者がとやかく言う問題ではありません。どんな言い訳をしようがしまいが、はたまた、己の非を悔い改め、許しを乞おうが乞うまいが、自分の行動の結果は自分が責任を取らざるを得ないのがこの世の厳しい掟でありますから。

 たとえば、彼の「夕張難民」のごとく、そうなってしまってからあたふたしても遅い、というのが孫子兵法の解くところあります。

 この場合「禍を転じて福となす」ひとつの方法は、いわゆる「足による投票」をもって、つまり夕張市外への脱出行動を加速させて日本中の注目を集め、その責任の真の所在を世に問うことだと思います。このことにより、(虎は死して皮を残すがごとく)夕張市民は後世にその名を止(とど)めるということになります。

 この「夕張難民」の問題は、先の太平洋戦争の敗戦のごとく、「誰にも責任がない」などと実(まこと)しやかに伝えられておりますが、(彼の縁起説に拠るまでもなく)原因があるから結果があることは自明の理であります。

 少なくとも、補助金や交付金システムの問題を含めた国や道の責任、巧妙な会計操作で巨額の借金を直隠(ひたかく)しに隠し続けた行政の任に在ったリーダーの責任は重大であります。

 サラ金のコマーシャルですら、「返済額を考えて借りるのは社会人の常識」と訴えております。況(いわ)んや、行政機関たる夕張市議会において返済不可能な不適正規模の巨額借金がなぜ可能となったのか、それを明確にすべしということです。然(しか)らずんば、「日本の市民生活に明日はない」と言わざるを得ません。

 何処の市役所に限らず、行政の任に当たるリーダーは、(一般的には)一応、プロと見なすことができます。その意味では、夕張市の行政に任に当たったリーダーも、少なくともプロの範疇に入ることは疑いの余地がありません。

 然るに、件(くだん)の不始末を現出させたことは、まさに「孫子読みの孫子知らず」の好例であり、その根本には、「己の甘さ・驕り・怠惰」に起因する現状認識の甘さ・情勢判断の誤りがあったということです。

 もとより、このリーダーには、知性も知識も人並み以上にはあったことでしょう。しかし、だからといって、危急存亡の時に、己の一命を賭け、全てを投げ出して適切な決断ができるか否かとは、全くの別物であるということです。否、むしろ、生半可な知性や知識があるゆえに、最も警むべき遅疑逡巡の陥穽に陥ってしまったということであります。つまりは、似非(えせ)リーダーであったということです。

 ここに、「風呂の中で屁をひる」がごとき意味不明にして無力な法律論ではなく、日本国民の明日に資するべく、夕張市民の死生存亡に関わる深刻な事態を招来させた真の原因は何か、(人間社会の常識として)それを問う意義があると考えます。


 徒然なるままに、UFOに関するテレビ番組を見ていたところ、軍事通・論客で知られる現職の防衛大臣が、インタビュアーの質問に次にように答えていました。

質問:もし、日本にUFOが飛来したらどうしますか。

回答:直ちにスクランブルをかけ、国外退去するよう警告します。

質問:それでも従わない場合は。

回答:やむを得ず撃墜するということになるでしょう。ともあれ、そのような場合、いかに対処するかの法整備は必要である、と。


 実に馬鹿々しくてお話にならない内容であり、こんなことを真顔で語る防衛大臣とは一体何のか、日本の国会議員の幼稚さを目の当たりにした思いでした。

 そもそも、仮にUFO飛来があった場合、これは国内の問題ではなく、全地球の人類全体の問題であり、ゆえに、UFOが(スクランブルの効果によって)他所の国に行ったからといって問題が根本的に解決したわけでないことは自明の理です。

 つまり、法律のプロと称する現職防衛大臣が、無意識のうちに、その得意技たる法律的思考の枠に自縄自縛されるゆえに、幼稚園児が聞いても噴出すような対UFO防衛策を真顔で語るのです。

 真の兵法者たるリーダーであれば、夕張市の財政破綻の問題は、一夕張市の問題ではなく、日本全体の問題であると観じ、(仮に)対UFO防衛策の必要があると判断すれば、それは一日本の問題ではなく、地球防衛全体の問題と観ずるのは当然のことです。

 つまりは、そのよう発想に至らないこと自体が既にリーダーの資質に欠けているという証左であります。ゆえに、主権者たる我々はリーダーの真贋を洞察する能力を磨く必要があるのです。
 

 とは言え、醒(さ)めた言い方をすれば、実践的兵法家であるから良いとか、似非(えせ)兵法家であるから悪いとか一概には言えません。勝敗は常に時の運であり、その結果は神のみぞ知るということであります。

 強いて言えば、その勝利の確率を人為的に高めようとするのが個々人たる実践的兵法家の生き様であり、集団のリーダーを選ぶという意味においては、そのような資質をもった人物を見出すべきであります。


2、『将の五危』と『将の六過』は、そのシチュエーションが異なります。

 そもそも人は、それなりの成算、言い換えれば、自信があるから然るべき行動に踏み出すのでありますから、言われているような、自信の有無は論ずる問題ではなく、真に論ずべきは自信の拠って立つ内容ということになります。それを知ることによってその裏が掻けるという理屈になります。

 また、『将の五危』と『将の六過』は重なる部分もありますが、基本的には、そのシチエーションが異なることをご理解ください。前者は「九変の術」、後者は「状況判断」の問題に関連するということであります。

 なぜそうなのかの説明は省きますが、その違いが分かれば孫子の勉強もさらに一段と高まるということであります。


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