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質問 「迷信」について孫子兵法はどのように考えていますか。  2008.4.26

<回答>

一、そもそも「信」、あるいはまた「不信」とは何か。

 万物の霊長たる人間の人間たる所以(ゆえん)は、「考える」こと、「その考えに基づき具体的に行動する」ことにあります。前者は主観で、言わば無形、後者は客観で、言わば有形ということになります。

 その意味で言葉は、人が頭の中で考えている(無形の)内容を(有形として)客観的に把握するものであります。が、しかし、言葉と行動は自ずから異なりますから、その言葉が額面通り実行されたか否かが重要なポイントとなります。

 たとえば、約束をキチンと守れる人は「信」、いつも口約束だけの人は「不信」ということになります。

 この観察がさらに複雑にして高度になれば、孫子に曰うがごとく、『辞(言葉)の強くして備えを益す者は、進むなり。』<第十篇 行軍>ということになります。

 使者が(まさに北朝鮮の外交交渉のごとく)強気一点張りの言葉を弄し、進撃の構えを示すのは(たとえ言葉と行動は一致しているように見えても実は)、まもなく退却せんとする前兆であるということです。

 そもそも漢字の「信」は、「人」と「言(ことば)」が組み合わされて意味が表されている会意文字です。簡単に言えば、いわゆる言行一致は「信」であり、言行不一致は「不信」ということです。

 彼の孔子が「民、信なくんば立たず(人民に信頼がなければ、国家は立ってゆかないの意)」と論じているがごとく、「信」なるものは人間社会にとって極めて重要な徳目であります。

 とは言え、なんでもかんでも闇雲(やみくも)に信じて良いというわけではありません。なぜならば、人の世に氾濫する情報の中には、もとよりインチキであったり、いい加減であったりするものに事欠かないからであり、おのずから、そこにはキチンと取捨選択する理性的判断力が要請されます。

 彼の一遍上人は『信という字は、任(まか)す、と読む』と言われていますが、これはあくまでも宗教世界のことであり、現実問題としては、仮に「信は任すなり」ですべてに対処すれば、思考停止状態、もしくは恍惚の人と見なされて、破滅に淵に追いやられることは論を待ちません。



二、そもそも迷信(迷妄と考えられる信仰)とは何か。

 一般的に言えば、迷信とは「通常の理性的判断から見て不合理と考えられるものを正しいと信じること」であり、「度が過ぎると生活の秩序を破壊することになりがち迷妄と考えられる信仰」ということになります。

 人間は一般的に、「取らぬ狸の皮算用」に代表されるがごとく、将来のしかも不確実な事柄に期待をかけ、自分のとって都合のよいことならその真偽を問わず信じようとする傾向があります。言い換えれば、人間の脳はそれを信ずることによって快感状態を得るというわけであります。

 その意味で、まさに(彼の石川五右衛門ではありませが)世に迷信の種とこれを信ずる人の数は尽きることはなく、むしろ、情報化社会の進展とともに、その傾向は益々強まる気配が濃厚であります。

 当然のことながら、そこにはそれなりの一つの力が形成されているということ、つまり必要性もしくは需要があるということであります。

 言い換えれば、「迷信」とは、通常の理性的判断をを超えたものではあるが、さりとて、熱烈な宗教的信仰心・修行のレベルまでには至らない間に存在するものであり、それを信ずることによって人間なるがゆえの何らかの心の平安(安心・快感)を簡便に得ようとするものということができます。

 迷信(迷妄と考えられる信仰)の内容は、一般的には次のように分類されるようです。


(1)フィクションたる架空の話しを本当にあったことだと信じる。

(2)正しい説かどうか、因果関係があるかどうか、根拠があるかどうかなど、確かめられていないことを事実だと信じる。

(3)上記の逆で、正しくない説、因果関係がない、根拠がないと確かめられているにもかかわらず、そのことを信じる。


 つまり、人間社会には、その装うところの外見や内面はともあれ、実際的には(たとえば振り込め詐欺の被害者のごとく)騙され易い人、あるいは、何かを、誰かを信じて頼りたがっている人などが一定の割合で存在しているということであります。

 それはさておき、問題は迷信という一つの力の存在に対し、どのような立場に立つかということであります。
 


三、社会に形成されている迷信という力の既存性をどう活用するか。


(1)ビジネス(金儲け)として活用する立場。

 まさにこれが言われている『産土神社や檀家になっているお寺などから配布されたり、あるいは販売されたりする来年一年間の運勢や吉凶などが記された「暦」の冊子』ということになります。もとより、初詣や厄払いの祈祷、御札・破魔矢などの関連グッズの販売はこの範疇に入ります。


(2)将来の不安に対する開運・厄除け・幸福祈願などによって安心を得ようとする立場。

 霊験あらたかな神社・仏閣に詣で順調な人生が送れるよう敬虔?な祈りを捧げることによって、何らかの安心、もしくは心の拠りどころを得ようとする、いわゆる善男善女がこれに該当します。

 言われている『前世を見るとか、そこからの開運や運勢を扱うテレビ番組にしてみても、対象者の前世がお姫様とか武将とか良いイメージの社会階層や職種に相当するものばかりで』もこの範疇に入ります。

 まさに人間の脳はこのようなフィクションを信じることによって快感を覚えるような構造になっているということです。

 そのゆえに、まさに質問者さまがご指摘のように『あなたの前世は、山賊であって市中引き回しの上、京の六条河原で生きたまま釜茹でにされてノタウチまわって絶命した罪人ですよ』では困る訳であります。


(3)卜占の卦による易経の立場

 卜占の結果によって得た教訓を謙虚に受け止め、順なる卦に対しては益々、これを助長し、悪しき事態を暗示する卦に対しては心を戒め、そのような事態に陥らぬよう万全の処置を講ずるということになります。

 兵法的な観点から迷信を論ずるということであれば、上記の(1)と(3)が該当いたします。その意味ではまさに質問者さまのご理解の通りであります。

 ともあれ、孫子兵法を学ぶものとして最も留意すべきことは、占い・迷信などと軽蔑し毛嫌いして頭から否定してはなりません。そのような人に限って、たとえばオーム真理教のような大掛かりなフィクションにはコロリと騙されて信じてしまうものであります。

 それよりもむしろ、そのフィクションをフィクションとして弁(わきま)えた上で、素知らぬ顔でこれを楽しみつつ、世の善男善女に与えているその効用を観察して、臨機応変・状況即応してこれを活用することが肝要と考えます。

 因みに、孫子はそのことを<第十二篇 火攻>で論じておりますが、字数の関係で、ここでは割愛いたします。


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