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質問 孫子と弁証法的思考との関係について教えて下さい。  2008.8.16

<質問>

 そもそも「善」と「悪」とは、相互に対立矛盾するものであり分けて考えることはできません。しかし、日本人の場合は、そのお人好し的民族性のゆえか、一般的に、性善説に性悪説の観点を雑えて両面思考を行うのではなく、いきなり、性善説オンリーの一面的思考に陥る傾向が強いようです。

 つまりは、兵法の基本中の基本たる弁証法的思考を自ら放棄し、言わば思考停止の状態に陥ってしまう場合が少なからず見受けられます。

 ここに「論語読みの論語知らず」のごとく、まさに兵法においても「孫子読みの孫子知らず」と謗(そし)られても反論できない一因があります。言い換えれば、書物的知識と現実的対処との乖離(かいり)、言わば「虚」があるにもかかわらず、当人のみがそれに気が付かず、独善的に自己満足している構図であります。
 
 この「虚」を改善し孫子兵法をマスターするためには、先ず、その無意識的悪習とでも言うべき自己の思考パターン(盲点・死角)に気付くこと、その上で、キチンとした兵法的思考の訓練をすることが重要であると思いますが、いかがでしょうか。


<回答>

 言われている「性善説」「性悪説」を弁証法的に止揚するという問題は、例えば、古来、論じられてきた「観念論」「唯物論」という二つの世界観の問題に置き換えて考えることもできます。

 「観念論」は、精神こそ根本的な永遠的な存在であり、物質と呼ばれるものはその産物であるとする立場であり、「唯物論」は、物質こそ根本的な永遠的な存在であって、精神と呼ばれるものは生物の発生以後に初めて現れた存在であるとする立場です。

 確かに、(地球の誕生は45億年前、生命が現れたのが38億年前とする)自然科学的な立場から言えば、物質が精神を作り出したということは否定できません。が、しかし、一方において、そもそも、その物質世界なるものは人間が存在することによって初めて意味を持つのであり、もし、人間が存在しなければ物質世界など意味が無いということも言えるのです。

 角度を変えて見れば、いわゆる「天動説」と「地動説」の関係についても同じようなことが言えます。即ち、自然科学的立場においては、確かに地動説が正しくても、地上に住んでいる人間の観点からすれば、地動説よりも天動説に従った方が生活上、便利であることは論を待ちません。

 言い換えれば、根本としての地動説は弁(わきま)えつつも、現実的には、天動説でことに当たるのということであります。


 あるいはまた、「知識」と「行動」の関係についても然(しか)りであります。即ち、知ることだけでは、行うことの大切さが分からない。行うだけでは、その意味も分からない。知ることと、行うことが一緒になって初めて二つのことが生きてくるということです。

 つまり問題は、どちらが正しいということではなく、いわゆる中庸性の本質を弁(わきま)え、その状況に応じて観念論も唯物論も認めつつ、いかに合理的に判断するかが適切な立場ということになります。

 その意味では、まさに言われるがごとく、対立する両者をヘーゲルの弁証法にいう正・反・合のごとく止揚(矛盾を高次の統一において解決する意)するということであります。

 別言すれば、兵法的思考とは、抗争・葛藤の原理たる戦略的視点を踏まえ、知恵の眼(まなこ)をもって、臨機応変・状況即応していかに適切な判断が下せるか、ということです。

 つまりは、「白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫は良い猫だ」ということであります。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。


 例えば、彼の太平洋戦争において、日本の戦争指導者達は、日本民族の優秀性を象徴する精神が世界に比類なき「大和魂」であると説き、この精神を以てすれば米英の物量など物の数ではないと豪語し、物質軽視の無謀な戦争に突入しました。

 もとより、戦いにおいて精神的要素が重要であることは論を待ちません。しかし、それに偏すればどうなるかということです。アメリカの圧倒的な物量作戦に蹂躙されその信奉する精神主義が粉々に砕け散ったのは歴史の示す通りであります。

 つまりは、精神も大事だが、物質も重要であるということです。この二つをいかに止揚するかが問題なのです。逆に言えば、絶対的に「あれかこれか」と決めてしまうのではなく、臨機応変・状況即応して「あれもこれも」認めるのが兵法的なやり方ということです。


 このような歴史の血の教訓から学ばずして我々は一体、何に学ぶのでしょうか。


 かつて「郵政民営化、是か非か」「改革勢力か抵抗勢力」などと物事を全て敵味方に分けて単純化し、しかも相手の意見は聞かないという愚劣な手法を弄して日本社会を大混乱に陥れた首相がおりました。

 これなどは、まさに民主主義の敵であり、唾棄すべき危険思想と断ぜざるを得ません。いやしくも、政治家たる者、益してや一国の宰相たる者が口にすべき言辞ではありません。

 「郵政民営化、是もあれば非もある」とするのが適切な立場であり、問題は、その対立矛盾をいかに止揚するか、そこに叡智を傾けるのが政治の本質であります。

 それを難しとして敬遠し、個人的趣味のパフォーマンスをもって政争の具に変えてしまうようなことなら始めから政治家などになるな、社会が迷惑する、ということであります。

 極論すれば、「男と女、是か非か」などと問われるが如しであります。普通は「馬鹿か」と言って相手にしません。「郵政民営化、是か非か」などはまさにそれと同次元の愚問であります。


 その本質も弁(わきま)えずにこれを熱烈歓迎して付和雷同する選挙民の軽さは、まさに知性の無い証左と言わざるを得ません。そのような愚問のごときは、冷笑して相手にしないという位の見識は持つべきであります。


 今日、多くの日本国民が苦しんでいる深刻な地域間格差、個人間格差、サラリーマン大増税、老齢者控除の廃止、医療費の負担増等々はまさにそのような選挙民の不見識に起因するものと解すべきであります。


 さて、以上、論じてきた事柄はもとより問題の本質ではありません。何となれば、これらは(知識という意味では)当たり前のことであり普通の知性があれば誰でも理解するところであります。『凡そ、此の五者は、将として聞かざるは莫し』<第一篇 計>とはまさにこのことを曰うものであります。

 問題は、なぜ、現実の修羅場においてそれが適切に実行できないのか、ということです。孫子が『之れを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』<第一篇 計>と論ずる所以(ゆえん)であります。

 孫子を学ぶ意義は、その文言を表面的に理解することではなく、まさにその言外の真意をいかに解するかにあります。その深い孫子の思想を理解して初めて孫子の活用は現実のものとなるのです。

 敢て言えば、抗争・葛藤の原理たる戦略的視点を踏まえ、素直な心・柔軟な思考力をもって事実を直視し、中庸の本質を弁(わきま)えつつ、いかに臨機応変・状況即応するか、そこに兵法の本質があると孫子は曰いたいのであります。

 成功に安住する傲慢不遜な奢(おご)れる心と、自己の希望的観測に支配される死んだ頭と、事実を歪曲する曇った眼をもって自己を擁護するばかりでその虚像を疑わなければ、やがては運にも見放され、必ずや自滅の道を辿(たど)ると曰うのであります。


 孫子が『彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず。』<第三篇 謀攻>と論ずる所以(ゆえん)です。


 孫子の曰う『将の五危』<第八篇 九変>とは、まさにこのことを角度を変えて論ずるものであります。

 つまり、知識は一人前にあるが、その実行に疎(うと)い将は、(何事によらず)敵のカモになると曰うのです。


 孫子の曰う『将の五危』とは、別言すれば、例えば、善と悪、徳と不徳のごとく対立矛盾する二つのものをいかに弁証法的に処理するかという問題を提示するものとも言えます。

 このゆえに孫子は<第八篇 九変>で将の脳力開発を説き、『軍を覆し、将を殺すは、必ず五危を以てす。』と論じているのです。

 孫子を学ぶに際し、いわゆる断章取義は必ずしも適切ではありません。孫子十三篇を一つの有機体としてこれを体系的に学ぶことこそが肝要であります。


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