第10回 孫子の言は本当に理解されているのか?2008.8.21
              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍

 近頃、当サイトの記事が他サイトで引用される例が少なからず散見されます。もとより、引用されるということはそれなりの評価を頂いているという証左であり、その意味では喜ばしい限りです。

 しかし、中にはクレジットも入れずに、(他人の書いたものを)さも自分が書いたような顔をしてそっくりそのまま引用(盗用)しているサイトもあります。

 このような行為は、インターネットのマナー上、もとより許されざるべき所業でありますが、それ以前に、一個の人間として、社会人として最も恥ずべき行為であることを真摯に認識し自省すべきであります。


 さて、徒然なるままにネットサーフィンをしていると「拙速の背景」と題したブログ(以下、Aブログと言う)を目にしました。当サイトを引用しているということ以外には特にどうということもない内容ですが、孫子を学ぶ上で重要なヒントと思われる箇所がありましたので、次のごとくに整理して見ました。

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<拙速の背景>

 ゆっくり丁寧よりは雑に素早く。

 この頃、改めてその大切さ、見極めるタイミング、そして決断するタイミングについて考えていた。

 孫子の言葉で「拙速」という言葉をつかった有名なものがあったと思い調べてみると、その裏にある背景が書かれていた。

----------(ここから下記の点線までが当サイトの引用文)

 故兵聞拙速。未睹巧之久也。 -兵は拙速を聞く。未だ巧久を見ざるなり。

 孫子の曰う「拙」は、政治の手段としての戦争の目的である(得るべき)勝利の達成度合いの意です。また「速」とは、その戦争を手段とする政治目的の達成の速やかさを意味しています。

 『拙速』の背景には以下のような孫子の戦争哲学が流れています。

 即ち、戦争は不祥の器であり、凶器である。たとえ止むを得ざる事情により開戦したものといえども、長引くことにより、国力を疲弊させ、国を滅亡させたのでは元も子もない。
 
 ゆえに、戦争によって得るべきものがたとえ不十分(これが拙の意味)であったとしても、本来の政治目的が達成できていれば、それ以上の欲をかかず、速やかに戦争を終結させること(これが速の意味)が賢明である。とりわけ、戦争というものは、あたかも燎原の火の如き性質を持つものゆえに勝利に酔い痴れて調子に乗り欲望の赴くままに振る舞っていると最後はみずからをも焼き尽くしてしまうものである、と。

 つまり『拙速』とは、老子の曰う「足るを知る」あるいは「止(とど)まる知れば殆うからず」と同意と解されます。

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(以下は「Aブログ」の管理人と訪問者のやり取りです)

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 ちわ、いつも「○○さんらしさ」に感心しています。視点が特にラシイと思う。 本来の目的が達成できていれば…、のくだりが、そうやなぁと思うよ。でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね。面白かったので少し調べてみると、当時の中国の置かれる状況もわかって面白かった。要は一国を相手にしすぎると、(疲弊して)他の群雄に足元をすくわれる恐れがあるとのこと。う〜ん、深い…。

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 おっコメントありがとうございます(^^。
 上記の注釈は他のHPから拝借したのですけどね(^^;。

 でも△△さんがいわれている通りで、「本来の目的が達成できれば手段は…」というのは僕の中で常に拘っていたいところです。自分のCapabilityがその手段に届かなくともその手段が最善であるならば、他の力を借りてその手段を選択し得るCapabilityを満たせばいいなど。

 なぜこだわるかというと、それが出来ていないからなのですけどね(^^;。情けないですね。

 孫子、簡単な本を一冊読んだのですが、深いというか、本質的というか。真理はいたってシンプルで合理的であると思います。(戦争がいたるところで起こっているその時代でシンプルな考えを貫けたことは素晴らしいことだと思いますが)

 最近特に色々と俗に言う「人間関係」を考えることが増えてきているので、その中でも頭はシンプルに、心で柔軟に、目的に対してアプローチしていけるよう頑張りたいですね(^^)

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 上記の記事にある、『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の箇所は、孫子を学ぶ上で重要なヒントを提示するものと考えます。一見すると何の変哲もない言葉でありますが、以下に述べる理由によりその意味は非常に深いものがあると言わざるを得ません。



(一)孫子の言葉は本当に理解されているのか?

 例えば『拙速』<第二篇 作戦>は、一般に、手段の「巧拙」及びその「スピード」の意と解され、「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦即決、速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」などと実(まこと)しやかに謂われております。上記「Aブログ」の冒頭にある「ゆっくり丁寧よりは雑に素早く」まさにその意味と解されます。

 が、しかし、古来、政戦略の深遠な哲理を説いて世に名高い孫子が、そもそも、現場の指揮官が臨機応変・状況即応して判断すべきがごとき、手段の「巧拙」及びその「スピード」についてわざわざ兵書に書き残すようなことをするであろうか、という素朴な疑問を抱かざるを得ません。通常の知性をもってすれば、そのようなことは一々書き残すに値する内容ではない、と言わざるを得ません。

 <第二篇 作戦>の『拙速』に関する項を通観すれば自ずから明らかなように、首尾一貫して政戦略レベルの内容を論じているのであって、いわゆる作戦や戦闘レベルの内容を論じているものではありません。

 そのゆえに、孫子の曰う『拙速』とは、(巷間、謂われている内容と異なり)まさに上記「Aブログ」に引用されている私の論のごとくに解するのが適当と言わざるを得ません。

 念のために言えば、『拙速』とは、政治の一手段たる戦争において、『戦いて勝ち攻めて得た』<第十二篇 火攻>一定の軍事的成果に対して、そこに追加される(もしくは追加すべきか否かの)利害・得失・費用対効果の大小を考えるという思考法です。


 その意味で、「Aブログ」の管理人が言う「自分のCapability(能力)がその手段に届かなくともその手段が最善であるならば…」は、『拙速』の解釈としては適当ではないと言うことです。

 『拙速』の「拙」の意味は、Capability(能力)が無いから達成できないのではなく、Capability(能力)はもとよりあるが、その行為を追加するのが適当か否かの判断力を問うものなのです。

 譬えて言えば、寓話「兎と亀の競争」において、兎はゴールに先着するCapability(能力)もあれば、余裕を決め込んで昼寝をするCapability(能力)もあるということなのです。勝負という見地から、いずれを選択するのが得策かという判断力を問うのが孫子の曰う、『拙速』<第二篇 作戦>の真意であります。

 「兎」の場合は、油断によって昼寝を決断し、負けるはずの無い「亀」に敗れたということです。「こんな話しは有り得ねー。俺に限ってそんな馬鹿なことは絶対やらない」と言う人は、未だ、人間の何たるかが良く分かっていない人と言わざるを得ません。現実の世界では、「兎」のごとくに決断して敗れ去る事例に事欠かないのです。

 例えば、このような点を明確に押さえるか否かが、孫子を学ぶ上での重要な分岐点となります。分かっているようで実は分かっていない、いわゆる「一知半解」では現実変革の書たる孫子は体得できないということです。

 その意味で、この『拙速』は、こと軍事に限らず、ものごとに普遍的に適用される原理原則であり、そのゆえにこそ、「兵書」孫子にわざわざ記されていると解すべきなのです。



(二)孫子を活用するためには、(当然のことながら)まず孫子の意味を知る必要がある

 重要なことは、(上記のごとく)孫子に関する謂わば「隔靴掻痒(かっかそうよう・靴を隔てて痒いところを掻く意)」的なピント外れの解釈が世に横行してるというのが現実である以上、孫子は本当に理解されているのか、との疑念を抱かざるを得ないのです。

 ことは『拙速』ひとりに限らず、例えば、『敵を殺す者は怒りなり。』<第二篇 作戦>、いわゆる『風林火山』や『迂直の計』<第七篇 軍争>、はたまた『将の五危』<第八篇 九変>などたちどころにその例を挙げることができます。

 孫子の言葉の本当の意味を知らなければ、論理必然的に、これを活用することはできないのが道理というものです。

 数多(あまた)の人々が孫子に関心を示し、その活用を模索するのでありますが、結局は、中途半端な形で投げ出さざるを得ない第一の理由は、まさにここにあると考えます。



(三)孫子の意味が分かるだけでは不十分、孫子十三篇の体系を知る必要がある

 一般的に、論語など中国古典と称されるものは、その開祖とされる人物が一人で書き上げたものではなく、後世のその学派に属する人々が長い年月を掛けて加筆した、言わば合作の所産と謂われております。今日に伝わる仏教の膨大な経典などとまさにその典型例であります。

 同じ中国古典でも、孫子の場合は孫武という一人の人物が書き上げたものであり、そのゆえに、孫子十三篇には「戦争と国家との関係」に対する簡潔な理論的考察と、いかに対処すべきかの思想が体系(システム)として論じられております。

 従って、孫子を活用するということは、あたかも六法全書を自在に繰るがごとく、各篇の内容を正確に知ることはもとよりのこと、孫子十三篇全体の体系的理解が不可欠な要素となります。この両面が一体となって初めて孫子の活用が自在に行われるということになります。

 孫子は、戦争(つまり戦いという事象)と国家との問題について、その本質を洞察し、実に簡潔に整理し纏(まと)めているものゆえに、これを、例えば「戦いと組織の関係」「戦いと個人の関係」などに極めて容易に置き換えることが可能なのです。孫子が今日もなお、世界で読み継がれている所以(ゆえん)であります。



(四)孫子の意味と体系を知るだけでは不十分、活用するための思考法(情勢判断力や大局眼など)が必要である

 (孫子の原理を何に適用するかはともかくとして)例えば『拙速』の場合で言えば、次のように考えられます。即ち、孫子の曰う言葉の真意は良く分かった。が、しかし、これを現実の場に適用した場合、既に獲得している一定の成果に対して、(その利害・得失・費用対効果の大小を考え)さらなる追加的行動に出るか否かの見極めをどうするか、という問題が浮上します。

 まさにそのことを言うものが先に挙げた『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の言葉であります。ここが適切に理解されていないと、まさに「生兵法は大怪我の基(なまびょうほうは大けがのもと)」はたまた「孫子読みの孫子知らず」となり兼ねません。

 一般的に言えば、「そのためこそ実践を繰り返し経験を積むのだ」との声が聞こえてきそうですが、ただ闇雲(やみくも)に行動すれば良いという問題ではなく、もとより理論だけでも不可であります。そのためには先ず、いわゆる「理論と実践」の関係を的確に理解する必要があるのです。

 角度を変えて言えば、この「理論と実践」の問題には、例えば、物事の全体(大局)をどう見るか、あるいは普遍を知り特殊を知るという思考力、その意味での情勢判断力などの要素がその背景にあるということです。 

 つまり、孫子を活用するということは(孫子の表面的な文言ではなく)その背後にある普遍的思想を活用するということですから、活用するところの現実世界の仕組み・有り様を理解するための思考法を知る必要があると言うことです。

 ある意味では、この思考法を知ることが孫子を学ぶ上において最も重要な要素とも言えます。つまり、上記の『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の言はまさにこの問題を提示しているということなのです。

 残念なことに、「Aブログ」の場合は、着想は良いのですが、その問題を追究し理論を実践しようとしていないため単なる「無駄話し」で終わっているということです。

 然らば、その思考法とは何かと言えば、例えば、易経に代表される中国的な弁証法的思考、その流れを汲む毛沢東の「矛盾論・実践論」的思考、その毛沢東思想を踏まえ、これを日本人向けにアレンジした脳力開発的思考、あるいはまた、西洋における弁証法的思考などが挙げられます。

 逆に言えば、孫子兵法はまさに中国的な弁証法的思考がその根幹に流れているということであります。彼の毛沢東が中国を統一したのはまさにこの弁証法的思考を根底に据えて、孫子を適切に活用したということであります。



(五)孫子を学ぶ者が、最も戒め、強く忌避しなければならない勉強法

 上記の「Aブログ」とは別のサイトに次のような記事を見つけました。

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 いにしえの兵法書を現代の問題に活用した例を教えてほしいです。何か問題が生じた時,「ある兵法書を用いて行動したため,問題を解決できた」というストーリーが希望です。ビジネスの問題だけでなく,どんな些細な問題でも兵法書を用いているならOKですが,必ず「用いた兵法書の名前」と「教えの言葉」を明記しているものをお願いします。

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 上記のやり方は、巷間、孫子の勉強法もしくは活用法と称して、最も多く観察される典型例であります。一見、いかにも尤もらしく耳障り良く聞こえますが、実は、このようなやり方は、角度を変えて言えば、単なる呪文願望に過ぎず、孫子という呪文を唱えればそれで目的が達成されると信じているがごときものであります。

 もとより呪文には力はありませんからそのようなやり方はまさに無意味であり、「百害あって一利なし」の無駄話し、与太話しの類と知るべきであります。

 そもそも孫子は極めて現実的な現状変革の書でありますから、それを学ぶのに、あたかもオカルトや風水・方位・タロット占いの類と同じ次元で考えようとすること自体が矛盾の極みと自覚することが肝要であります。

 単に呪文を唱えるに過ぎない最も安易かつ「人頼り」のやり方で孫子が体得され活用できるのなら、誰も苦労しないということです。しかし、世の中には、このような無知蒙昧な言があたかも真理のごとく大手を振っているのもまた事実と言わざるを得ません。

 一般的に、日本人は、分かってもいないのに分かった振りをするのが得意な民族と謂われております。しかし、孫子の活用は他人のためではなく、まさに自分のためのはずです。分かった振りをしているツケは他人ならぬ自分に跳ね返ってくるということであります。

 そんな当たり前の理屈が分かっていながら、なお、分かった振りが止められないのは、まさに『不精の至りなり。』<第九篇 行軍>であり、自分に対する『不仁の至りなり。』<第十三篇 用間>と言わざるを得ません。日本人の知性・思考力とは一体何なのか、考えさせられる問題であります。


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 第9回 武蔵が「神頼み」を断固拒否した真意とは2008.8.16
              
              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍


一、「仏神は尊し、仏神は頼まず」の意味

 上記の言は、彼の宮本武蔵の自戒の書「独行道」のうちにある一箇条です。武蔵は吉岡一門との決闘の場所、洛東の一乗寺村下り松に趨(おもむ)くべく夜明けに洛中を出ましたが、下り松を眼下にできる小高い丘の上に至った時、近くに八大神社〈八坂神社系〉が鎮座するのを目に止めました。

 目前に迫り来る決闘への重圧から、武蔵は思わずその社前に足を止めました。そして社擅に上り、神に決闘の勝利を祈らんとして鰐口(わにぐち)の紐を取り、まさに打ち鳴らそうとしました。そのとき、襲い来る強い後悔の念とともにその胸裏をよぎった自戒の思いが「仏神は尊し、仏神は頼まず」であります。

 即ち、平素「兵法の道に一生を捧げ、老いて死しても悔いなし」とひたすら心身を鍛錬し己一人をよりどころに勝負の道を歩んできた武蔵にとって、一瞬の心の隙に生じたこの参拝の行為こそ、まさに「困った時の神頼み」以外の何者でもないと悟ったのです。

 武蔵は勝負にかける己が心の至らなさを深く恥じ、慙愧(ざんき)の冷や汗を流して静かに社擅を辞したのです。

 この「仏神は尊し、仏神は頼まず」は、まさに脳力開発でいう「人頼りの姿勢は止めよう」であり、裏返せば「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」に該当するものであります。

 脳力開発の指針は、極めて常識的な当たり前のことを簡潔に言うものでありますから、ともすれば「そんなこと改めて言われなくてもオレはとっくに知ってるよ、バカにするな」と軽視する傾向があるため、つまるところ当人の意識から忘却され勝ちとなります。

 しかし、この指針の意味は極めて深いものがあります。言い換えれば、武蔵はなぜそれほどまでに「仏神は尊し、仏神は頼まず」にこだわったのかということです。


二、勝利の第一歩は敵の有利な条件を消すことにある

(1)洛東一乗寺村の下り松における決闘の概略

 孫子の言に『ゆえに能く兵を用うる者は、手を携うること一人を使うが若くなるは、已むを得ざらしむければなり。』<第十一篇 九地>があります。 今回のテーマはこの言に深く関係するのでありますが、その前に、一乗寺村の下り松における武蔵と吉岡一門との戦いを概略いたします。

 即ち、当主の吉岡清十郎が敗れ、弟の伝七郎をも倒された吉岡一門は、清十郎の子、又七郎を決闘の名義人に立てて面目を保とうとしました。而してその実は、まだ少年の又七郎を守るという名目の門弟数十人が集まり、大勢で武蔵を打ち果たしてしまおうという計略でした。

 これに対する武蔵の戦略は、(伝七郎の時と同じく)また遅れてくるだろうと読んでいる相手の裏をかき、早くから下り松に到着して夜が明けはなれるまで松の陰に身を潜め、やがて吉岡又七郎以下門弟数十人が到着するのを見澄まして、いきなり飛び出して斬って入り集団の機先を制するにありました。

 武蔵はまさにそのねらい通りにことを進めました。即ち、少年とは言えあくまでも大将たる又七郎を真っ先に血祭りに挙げ、さらに数人を斬り殺してその機先を制し、まさに「集団の要」を失って右往左往する吉岡一門を尻目に姿を消したのです。


(2)武蔵が「神頼み」を断固拒否した真意

 通常、個人と多人数(もしくは組織)が戦った場合、もとより多人数が有利であることは論を俟ちません。しかし、これには条件があります。それは、多人数がまさに一糸乱れずあたかも『手を携うること、一人を使うが若くなる』<第十一篇 九地>場合であります。

 この場合、個人の力はまさに「蟷螂の斧」のごとく集団の力に跳ね返されてしまいます。逆に、多人数がいわゆる「烏合の衆」と化し、個人が決死の覚悟の言わば一騎当千の者である場合、衆はバラバラとなり、個が衆に勝つ可能性が出てきます。

 つまり、既に一騎当千の者たる武蔵が衆に負けないためには最低限度、「神頼み」を止めて「死に物狂い」の精神状態になる必要があったのです。なぜならば『勝つ可からざるは己に在る』<第四篇 形>からであります。もし、不可ならば自ら勝つ条件を消す行為との謗りを免れません。

 逆に『勝つ可きは敵に在る』<第四篇 形>ゆえに、相手が烏合の衆と化すことをもとより期待はできませんが、幸運にもこの場合は、「その相救うや、左右の手の如き」死に物狂いの集団ではなく、人頼りの「烏合の衆」的性格が強かった言えます。彼らの言動から武蔵はそのことを冷静に読み取ったのです。

 武蔵の狙い目はまさにそこにあり、そのゆえにこそ武蔵は「神頼み」を断固拒否し己一個を拠り所とする必要があったのです。

 武蔵が早くに戦いの場に到着して待ち構え、いきなり飛び出して斬って入り、少年とは言え敵のシンボルたる大将を先ず討ち取ったのはまさに上記の力関係の差を増幅することであり、裏返せば、敵の勝利の条件を一つ取り除くことであります。

 逆に言えば、武蔵の行動は、まさに孫子の曰う「その惰・帰を撃つ」、「治をもって乱を待つ」、「近きをもって遠き待つ」、「正々の旗を迎うることなかれ」などの勝利の条件を作為するにありました。

 そのゆえに、結果として『敵、衆しと雖も、闘うこと無からしむ可し。』<第六篇 虚実>の状況を招来したのです。

 而して、その原動力は「原因は内因にあり」の本質的思想を端的に示す「仏神は尊し、仏神は頼まず」の決意にあったのです。


(3)武蔵の勝ちは「劇的な勝利」ではなく「勝つべくして勝った」ものである

 一般的に、武蔵の一乗寺村下り松の決闘は、多勢に無勢という不利な局面を逆転した劇的な勝利と謂われておりますが、その実は、十分に勝てる見通しをつけての戦いであり、まさに「勝つべくして勝った」戦いと言うことができます。

 まさに孫子の曰う『善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。』、『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め』<第四篇 形>の如しであります。

 逆に言えば、勝利の条件づくりに向けての心憎いばかりの武蔵の配慮が窺えるのであります。この背景を知らずして、単純に武蔵は強いと賞賛したり、逆に、武蔵は弱い相手としか戦っていないなどと見たりすることは部分的・表面的・一面的な見方と言わざるを得ません。

 確かに、世間一般では、そのような思考パターンが主流ゆえに、思わず知らず流されて自己を見失い勝ちでありますが、的確な判断力を養い何事にも騙されないようにするためには、やはり全体的・本質的・両面的な物の見方・考え方を習慣づけることが必要であります。

 その意味においても、孫子兵法に曰う『勝つ可からざるは己に在る』<第四篇 形>、あるいは脳力開発でいう「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、裏返せば「人頼りの姿勢を止めよう」の指針は、武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」と同じく極めて深い意味を持つものであります。


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 第8回 「敗軍の将、兵を語る」2007.07.23
              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍


 偽装牛ひき肉製造を始め、賞味期限の改ざんや、産地偽装などの不正が相次いで発覚し、食品に対する消費者の信頼を裏切った北海道の食肉加工卸会社「ミートホープ」(田中稔社長)の自己破産手続きの開始が、7月18日、決定した。

 この一連の偽装牛ひき肉製造事件を、孫子兵法の観点から考察すれば、次のように整理することができる。

 一つは、「リーダー(将)の責務とは何か」を問う側面であり、一つは、「食の安全を守る行政(役人))の責務とは何か」を問う側面である。


一、リーダー(将)の責務とは何か

 ミートホープ社は、1976年に田中稔社長によって設立され、近年は毎年売上高を伸ばし、東京事務所を開設するなど、北海道でも指折りの業者に成長した。従業員は71人、2007年3月期の売上高は16億4500万円を計上したとされる。

 そもそも牛肉偽装は、今に始まったことではなく、日本では牛肉食が大流行した明治時代にすでにあったことが知られている。物の本によれば「牛肉はその供給量が少なく、かつ高価であるため、馬肉・豚肉を混ぜたり、あるいはその他の悪獣腐肉を牛肉と称して食べさせる店があるので、よくよく注意が必要である」との趣旨が記されている。

 事件発覚後、田中社長が釈明の辞として自嘲的に言う「昔の肉屋の感覚を引きずっていた」とはまさにそのようなことを言うものとも解される。

 が、しかし、食の安全に関する消費者の意識が高まった今日において、ましてや、自身で考案した攪拌機付きひき肉製造機(混ぜにくいとされる肉の赤身と脂身を均一に混ぜることができるという点で画期的な考案とされる)を駆使して偽装牛ミンチを大量かつ常態的に製造するという事態に至っては、最早、論外、言語道断の所業と言わざるを得ない。

 因みに、田中社長は、この製造機の考案によって、2006年4月、文部科学大臣から「創意工夫功労者賞」を受賞している。受賞する方もする方なら、授与する方もする方であり、ことここに至っては、まさに漫画チックな醜態、噴飯ものの極みと言わざるを得ない。

 渦中の人物・田中社長は、中学卒業と同時に肉屋に住み込んで働きこの道に足を踏み入れたとされる。つまり彼はいわゆる立志伝中の人物であり、まさに苦節50有余年、功なり名を遂げた訳であるが、不正に起因する今日の自己破産に至っては、無慈悲・無責任に従業員71人の生活の基盤を奪ったのみならず、自身のそれなりの栄耀栄華も一夜にして泡沫(うたかた)の夢と消えてしまったことになる。

 なぜか近年、このような、お定まりの組織崩壊のパターンが多く見聞きされるが、その共通項には、超ワンマンの個人商店的経営という体質が色濃く垣間見える。ここでは、そのような原因の背景には一体何があるのか、それを考察してみた。


(1)田中社長の語る釈明と敗因

 田中社長の釈明として『もったいないという気持ちがあって、使える肉は全部使った』というのがある。元幹部は「ミートホープの工場には、日常的に牛肉以外の様々な混入物が積まれており、間違っても外の人には見せられない状態であった」と証言し、このことを裏付けている。溜め込んだ雨水を使って肉を解凍したというのもおそらくこの「もったいない精神」の現われであったと思われる。


 また、彼は『言い訳させて頂くと、きちっとした表示さえあれば、たとえ豚や鶏などを混ぜても美味しい』としているが、裏返して言えば、原材料の適正な表示をしなかったこと、つまりは、不正表示をしたのが失敗の原因と認めているのである。

 さらに、彼は『私の認識の甘さに原因があった。世の中の、あるいは時代の変化を認識できなかった』とも述べている。


(2)真の失敗の原因とは何か

 当たり前のことであるが『もったいないという気持ち』を大事にすることや、『牛ひき肉に豚や鶏、鴨を混ぜても美味しい』とする創意工夫は実に素晴らしいし、それ自体には何の問題もない。

 問題は、『もったいないという気持ち』を無条件に適用してよいのか、あるいは、『美味しければ不正表示をしても良いのか』ということ、つまり、具体的な状況に応じて、不偏不倚で過不及のない判断ができる否かという問題なのである。

 このことはまた、一見、無関係のごとくに思える『私の認識の甘さに原因がある。世の中の、あるいは時代の変化を認識できなかった』との釈明と密接に関係するのである。すなわち、次のように言うことができる。

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 彼自身の考案による禁断のレシピをもって、豚や鶏、鴨肉など言うに及ばず、廃棄処分された肉や腐肉までも混ぜ合わせ、かつ本物以上の「美味しい」ひき肉を作り出すというその技術にはまさに驚愕すべきものがある。

 しかし、「心正しからざれば事正しからず」で、もしそれが「神なき心」によって行われるならば、まさにそれは「悪魔の所業」の謗りを免れず、いわゆる「気違いに刃物」ということになる。

 言い換えれば、いくら戦術を駆使してもそれが戦略に合致するものでなかったら、無意味なものとなるのである。その意味では、かつての太平洋戦争において展開された日本軍の戦術のごときものである。

 確かに、個々の戦術においては素晴らしいものがあった。しかし悲しいかな、その戦術は必ずしも戦局を左右する戦略に結びつくものではなかったということである。否、むしろ戦略そのものが日本軍にはなかったといいうことである。

 かつて、昭和天皇は、敗戦の原因の第一に、兵法の研究が不十分であったこと、つまり『彼を知り、己を知れば、百選して殆うからず。』<第三篇 謀攻>の本質を十分に理解していなかったことを挙げておられるが、まさにそのことを言うのである。

 その意味で、我々日本人は、ミートホープ事件を単なるレアケース、あるいは突然変異として見るのではなく、我々日本人に共通する民族的欠陥を示唆するものとして捉えるのが賢明なのである。


 その意味では次にように言うことができる。

@ 戦略と戦術、あるいは理論と実行は混同するな。区別し並行して行うことが肝要。

 戦術(実行)が戦略(理論)に沿って正しく行われているか否かをチェックし、外れていれば修正する役割が戦略である(その意味で、戦略と戦術は表裏一体であるが、しかし別物である)。それが失われてしまえば、もはや戦略は無きに等しいのである。


A 人間教育(人間づくり)と知識教育は両立しなければならない。

 一般的に、知識教育(技術)は、一定期間あれば習得できるが、それを支える人間力(リーダーとして生きる力)の養成は生涯をかけて行うべきものと言われている。 そもそも人間の脳に完成ということは有り得ないのであり、そのゆえにこそ、心ある人は、生涯、人格完成に邁進するのであり、その人間力(リーダーとして生きる力)の上に、初めて真の技術が開花するのである。

 その意味で、田中社長は禁断のレシピ習得には人一倍熱心であったかも知れないが、肝心要の人間力(リーダーとして生きる力)の習得にはいささか懈怠があったと断ぜざるを得ない。

 彼の孔子は、「知(技術)を好みて学(学問)を好まざれば、その弊害はとりとめがなくなる」といっているが、蓋(けだ)し名言である。

 孔子はまた、「信なれば則ち人任じ」とする一方で「民信なくんば立たず」とも曰う。言わば、この対立矛盾する二つの事物をいかに矛盾なく弁証法的に統一するか、まさにその点こそが孫子の曰う兵法の真髄なのである。

 つまり孫子は、戦いと解される個々人の日々の人生において、その戦いに関する戦略あるいは理論を提示するものなのである。


 「人間、何のために生きるのか」の深い戦略を弁えず、浅はかにも「お金は神様」と心得、食肉偽装という錬金術師に成り果てた田中社長ではあるが、そうなる前に、少しでも孫子を読み、リーダーとして生きる力を身に付けていれば今回のごとき、無様な体を晒すことは無かった思う。いかに兵法が「転ばぬ先の杖」とはいえ、惜しまれてならない。

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 その意味で、田中社長の失敗は、リーダーたる者の個人的資質に起因する問題とも言える。いやしくもリーダーたる者は、少しばかりの成功に酔い痴れて、欲望に目が眩んだり、冷静さを失ったりしてはならないのである。とは言え、人間の弱さゆえに思わず知らず、その方向に流れ易いのも事実である。このゆえに、理論としての孫子の存在が俄然、精彩を放つである。

 例えば孫子は、『軍を覆し将を殺すは、必ず五危を以てす。』<第八篇 九変>と論じている。これをどう受け止め、どう活かすか、そこに孫子活用の真髄がある。

 「敗軍の将は、以て勇を言うべからず(失敗した者は何も語る資格が無いの意)」であるが、我々は田中社長の言を嘲笑(あざわら)うことなく、もって「他山の石とする」ことが肝要である。



二、食の安全を守る行政(役人)の責務とは何か」

(1)情報の価値とは何か

 世に、酒の良否を鑑定する意の「利き酒」なる言葉があるが、「利き肉」の場合は(利き酒のごとく)その種類を当てるのはそう簡単ではなく、さらにひき肉となるとそれを識別するのは難しいと言われている。ここに「肉を知りすぎた」と自認する田中社長が「たとえ豚や鶏を混ぜても美味しい」と豪語して消費者の舌を欺き、食肉偽装ビジネスに手を染めてきた隙間があったのである。

 逆に言えば、個々の国民に食肉の偽装を見破れというのがそもそも酷な話であり、当然のことながらそれを監視するのは行政たる農水省や北海道庁の任務である。

 然るに、例によってと言うべきか、勇気ある個人が「偽装ひき肉の現物」を示してまでその疑惑を告発したにも関わらず、これを放置して闇に葬り去り、事態が明るみに出たら出たで、お互いに責任のなすり合いをしている農水省と北海道庁の間抜け振りはまさに噴飯ものである。

 「宙に浮いた年金記録」にも共通することであるが、本来、公僕として食の安全を守る立場にある農水省や北海道庁の不作為に国民は心底、怒るべきである。責任を放棄し利権だけは貪る犬畜生にも劣る卑しい行動を弾劾すべきである。

 もとより、このような役所でも平素から情報の重要性については口角泡を飛ばして議論していることであろう。しかし、情報の活用は情報そのものよりむしろ、それを使う者の意志や態度の問題であることを彼らは理解すべきなのである。

 つまり、「声はすれども心ここに在らず」では、いくら本当のことを聞いても正常に反応しないのは、蓋(けだ)し当然のことだからである。あたかもそのさまは、「豚に真珠」「猫に小判」「馬耳東風」のごときものゆえに、まさに彼らは「犬畜生にも劣る卑しい思考・行動」の持ち主と評すのである。仮に、検査をしたらしたで、「うまく隠せよ」と言わんばかりの検査予告通知をしたり、検査自体がザルであってはこれまた意味がない。


(2)実行なき理論は無意味である

 「犬畜生にも劣る卑しい思考・行動」の役人に共通するパターンとして、システムを作っても実行しない、という悪癖がある。実行しなければどんな素晴らしいシステムであっても絵に描いた餅、宝の持ち腐れである。

 システムづくりとその運用は、言わば、計画と実行、もしくは理論と実践の関係であるが、孫子は、この重要性について、『之れを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』<第一篇 計>と論じている。孫子が処世の指南書として今日もなお、読み次がれている所以(ゆえん)である。


 ところで、今、新潟県中越沖地震の被災地では、復興支援に追われるお役人(自治体職員)たちの疲労がピークに達しつつあるそうである。自らも被災しながらも、「被災者を支えなければ」という公僕しての使命感に衝き動かされているということである。

 涙が出そうな美しい話ではある。しかし、被災地ゆえの非日常的な雑務が激増したり、住居の確保や仕事の再開、健康問題や家屋の再建等々、先々のことを考えて夜も眠れぬほど苦しんでいるはお役人ばかりではない。

 その点、お役人は、収入の道は保障されているわけであるから、その意味では、非常に気楽なものである。仕事を失い、収入の道を断たれた大多数の人々の立場を思えば、文句を言う筋合いなどない。

 とは言え、確かに被災地のお役人は、不眠不休、渾身の力を振り絞って公益に奉仕しているのであろう。しかし、それはレアケースたる被災地の話であって、被災地以外の全国のお役人がそうであると言うことではない。

 今回の、偽装牛ひき事件の告発情報に接した農水省や北海道庁の対応を見るまでもなく、その主流が「失敗を恐れ冒険を避ける」「前例がないことはやらない」「規則にないからやらない」などのいわゆるお役所仕事にあることは否定できない。


 が、しかし、被災地のお役人はそんなことを言っていられない。物事を兵法的に思考し、弁証法的に考え、平素のさび付いた頭をフル稼働させ、知恵を絞り、なりふり構わず、死に物狂いで働いているということである。皮肉な言い方をすれば、彼らは、久しく忘れていた「今、生きている」という充実感を久々に満喫しているということでもある。

 これらを鑑(かんが)みれば、日本のお役人を「ぬるま湯」に入れて置くことは、彼らにとっての燃えるような生き甲斐を奪うことになるし、国民はお役所仕事によって不利益を蒙るし、国の人的資源の活用という意味では明らかに非効率的である。

 が、しかし、現状維持か現状打破かの鍵を握るのは、つまるところ、リーダー(将)の問題なのであり、最終的には、有権者たる国民の意識の在りようと、それを反映する投票行動の問題なのである。

 因みに、孫子は、将(リーダー)とは何かについて、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ民を是れ保ちて、而も利の主に会うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>と論じている。我々も今夏の参議院選挙に当たっては、斯(か)くのごとき志をもって国政に当たる「政党」を選択したいものである。

 ともあれ、国民の半数近くが選挙に参加しないような体たらくでは、お役人の不作為やお役所仕事、いわんや彼の社会保険庁の不始末を非難する資格は無いと知るべきである。投票にも行かずただ口先のみで政治の在りように不満たらたらの者は、「敗軍の将は、以て勇を言うべからず」の言を拳拳服膺すべきである。


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