第19回 孫子兵法と易経・老子・毛沢東・脳力開発との関係について2011.5.31
一、易の根本原理とは

 一般に易経は、いわゆる「占い」の原典としてのイメージが強いようですが、易経の本質はそこにあるのではなく、卦(か)に示される吉凶を一つのヒントとして人間自身による能動的な問題の追求、言い換えれば運命開拓の努力を促すものです。

 つまり易経は、従うべき法則を示すことによって、自分の頭で問題を考えることを教える書物であり、その過程で重ねられた熟慮が読む人に多くの示唆を与えるのです。

 犬や猫と違う人間の特質は、まさにその自覚的能動性にあります。とは言え、有為転変が人の世の常ゆえに、ことはそう簡単ではありません。

 言い換えれば、そもそも人間にとって真に主体的な生き方というものは在り得るのか、あるとすればそれはいかにすれば可能なのかという問題であり、もし、万物の生成変化・発展を貫いている不変の原理があるとすれば、それを探究して理論化し、その活用によって逆に有為転変をコントロールするに如(し)くは無し、ということです。

 その意味で理論化されたものが、いわゆる陰陽二元論、即ち「すべての変化は、陰陽二元の対立から生まれる。対立のないところに変化はない。陰陽の二元は固定して動かぬものではなく、無限に変化するものである」と説く易経の弁証法的宇宙観であります。

 例えば、彼の「人間万事塞翁が馬」の寓話は、福と禍とは無限に転変して行くという易経的思想を表現したもの、ということになります。

 また、兵法との関係で言えば、そもそも兵法は、(当然のことながら)事物の変化を重視する弁証法的思考をその根底に置くものゆえに、易経の思想とは密接不可分の関係にあるということになります。

二、易経と老子の関係

 千変万化する万物の相を見てその背後に潜む運動法則を探求し、それを理論化するという考え方においてまさに易経と同一の立場にありますが、老子の場合は、それを「道」と名づけております。

 「道」とは、「無」であるとともに「有」でもあり、「小」であるとともに「大」でもあり、「始め」であるとともに「終わり」であると説かれております。

 とりわけ老子は「無」を重んじましたが、この「無」の真意は、一般に謂われているがごとく、消極的な虚無思想ではなく、『何も無い、だからこそあらゆる変化に応じてすべてが生じる』という能動的な無尽の原動力を論ずるものであります。

 あたかもそれは、例えば、「常に死を習え」を根本思想とする武士道精神と相通ずるものがあるということです。

 ともあれ、老子の思想は、陰陽二元論、即ち「すべての変化は陰陽の対立から生まれる。対立の無いところに変化は無い」とする易経の弁証法的宇宙観と同根ではありますが、老子の場合は、それをさらに一歩進めて、対立物が相互に転化し矛盾によって発展するという相互転化の法則を論じているところに特色があります。

 易経の思想は古来、中国文明の基底にあるものゆえに、老子がその思想の影響を多分に受けたであろうことはもとより言うまでもありません。

 例えば、「道」の思想は、易経・繋辞上伝に曰う「形而上なる者、これを道と謂い、形而下なる者、これを器と謂う」を老子的言辞で表現したものとも言えます。

三、老子という書物の性格

 一般的に、老子の思想は、道徳的・哲学的・求道的・宗教的な性格を持つものと見なされ勝ちであります。が、しかし、看過されてはならない重要な側面は、この書物に全体として顕著な政治的・軍事的な性格であります。このゆえに、そもそも老子は、古来、兵法家の愛読する書であり、かつ、唐代には兵書の一つとして見なされていたのです。

 例えば、軍隊の本質をどう見るかについての老子の言に「兵は不祥の器」がありますが、これなどはまさに孫子の巻頭言『兵は国の大事なり。』<第一篇 計>とその意を同じくするものです。

 あるいはまた、尽きることのない欲望の充足をどの時点で抑えるのが適当かという、言わば追加的利害関係の判断について、老子は「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず、もって長久なるべし」と論じております。これなどは、まさに孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>の意そのものとなります。

 因みに言えば、孫子の曰う『拙速』とは、巷間、謂われているが如く「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦即決、速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」の意ではありません。

 そのようなことは現場指揮官が臨機応変・状況即応して適宜判断する戦術的レペルの問題であり、敢て兵書に記すようなレベルの内容ではありません。孫子の曰う『拙速』とは、国家の政・戦略レベルにおけるいわゆる追加的利害もしくは得失の判断をいかに考えるか、という問題なのであります。

 もとよりこの『拙速』の考え方は、ことを個々人の戦略レベルの意に解すれば、当然のことながら個々人の場合にも適用されます。譬えて言えば、「兎と亀の競争」の寓話における兎の判断の場合、はたまた、いわゆる「蛇足」の寓話における酒を飲み損ねた男の判断の場合などがそれに当たります。

四、孫子と易経、老子との関係

 老子の場合と同じく、孫子もまた易経の思想の影響を色濃く受けたことは首肯せざるを得ません。とりわけ、孫子の曰う『奇正』<第五篇 勢>は、易経・繋辞上伝に曰う「形而上なる者、これを道と謂い、形而下なる者、これを器と謂う」の運動法則を孫子的言辞をもって軍事に取り入れたものと解せられます。

 老子と孫子とは、ほぼ同時代の人物とは思われますが、両者の伝記は必ずしも明らかでなく、生没年もまた特定できません。ゆえに両者の間に人的交流はあったのか、はたまた老子が孫子にどの程度の影響を与えたのかは定かではありません。

 が、しかし、変化を重視する弁証法的思考を始めとし、両者の兵法的思考が著しく似ていることは確かであり、まさに老子の説くところの運動法則をそのまま軍事に転化したのが孫子であるかのごとき印象があります。

 角度を変えて見れば、易経・老子・孫子の書物は、(その立場と視点こそ違え)千変万化する万物の相を観てその変化の運動法則を探求し、これを理論化したというところに共通性があります。そのゆえに、三者に共通して言えることは、ある意味で「答えを出さない」というところであり、まさにそこに特質があります。

 敢て言えば、従うべき行動指針を示すことによって、自分の頭で問題を考えることを教える書物であり、その過程で重ねられた熟慮が読む人に多くの示唆、あるいは問題解決の方向性を与えるということであります。

 孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』<第三篇 謀攻>とは、まさにそれを得るための資質・資格とは何かを暗示するものとも言えます。言い換えれば、己の無知を知ることを愛し、智恵を知ることを愛する謙虚な姿勢こそが孫子から真に適切な示唆を受ける資格のある人ということであります。

五、毛沢東の矛盾論と易経、孫子の関係

 易経は、古来、中国文明の基底であり、就中(なかんずく)、「陰陽の対立なければ運動なし」の思想は、まさに中国的弁証法の原型です。そのゆえに、中国古典の造詣が深く希代の革命家にして唯物弁証法論者を自認する毛沢東の思想が易経と無関係のはずがありません。

 言い換えれば、毛沢東の「矛盾論」には易経の陰陽二元論が色濃く影響しているということです。例えば毛沢東は「すべての事物に含まれている矛盾の側面の相互依存と相互闘争とによって、すべての事物の生命が決定され、すべての事物の発展が起る。矛盾を含まぬどんな事物もなく、矛盾がなければ世界世界はない」と論じております。

 また、その「実践論」にいう「実践・認識・再実践・再認識」という循環往復して尽きることのない形にも易の思想たる陰陽の無限の転移の形が色濃く影を落としていると言えます。

 孫子との関係においては、『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』<第三篇 謀攻>が「矛盾論」や「持久戦論」などで引用され、とりわけ毛沢東の戦争論とでもいうべき「中国革命戦争の戦略問題」ではわざわざ、「われわれは、この言葉を軽んじてはならない」と付け加えられています。

 また、彼の有名な遊撃戦争の四原則、即ち、「敵が攻撃してくれば退却し、敵が駐屯すれば攪乱し、敵が疲れれば攻撃をかけ、敵が退けば追撃する」は、まさに孫子の<第六篇 虚実>もしくは<第七篇 軍争>に由来するものと言えます。

 また言えば、毛沢東の愛読書の一つして例えば「水滸伝」がよく知られております。この種の中国書籍が、つまるところ孫子兵法を下地とするものであることはもとより言うまでもありません。つまり、毛沢東は、間接的な意味においても、孫子の強い影響を受けているということであります。

 逆に言えば、毛沢東の戦争論には、その現実主義的な戦略戦術、透徹した現状認識など孫子兵法を想起させる個所がいたるところに散見されるということです。

 とりわけ、毛沢東の主張した「持久戦論」は『拙速』を説く孫子兵法の裏の奥義とでも言うべきものであり、その意味でも、(軍事指導者としての)毛沢東は、まさに現代における孫子兵法の具現者と評しても過言ではありません。

五、脳力開発と毛沢東思想との関係

 脳力開発の創始者、故城野宏先生は、日本の無条件降伏後、中国・山西省を舞台に50万の山西独立軍を擁し、毛沢東率いる中共軍と四年に及ぶ現代版三国志の戦いを演じ、後に敗れて中共軍の捕虜となり15年の監獄生活を送るなど、まさに波乱万丈の数奇な体験をされました。

 帰国後、その獄中で思索された「なぜ日本は敗れたのか」「なぜ毛沢東は中国を統一できたのか」などの分析結果と併せて、獄中で学習した毛沢東思想、とりわけ「矛盾論」「実践論」「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」のエッセンスとその実際への適用方法などを日本人向きにアレンジし、加うるに中国における御自身の体験を整理して総合的に纏められたものが脳力開発であります。

 言い換えれば、脳力開発は、中国統一の理論的・精神的バックポーンたる毛沢東思想の裏バージョンとで言うべき性格のものであります。

 そのゆえに、孫子兵法を、戦いに関する普遍的な「理論・思想の体系」とすれば、脳力開発は、まさに孫子兵法の「実践論的体系」として位置づけられるものであります。弊塾の孫子兵法講座で脳力開発を併習する所以(ゆえん)であります。

 因みに、弊塾の孫子兵法講座は、(上記したごとくの)孫子兵法と易経・老子・毛沢東・脳力開発との関係を体系的に纏(まと)めるとともに、曹操註になる現行孫子を遡ること400年前の竹簡孫子を基本テキストとして校勘しています。

 その意味では、通常、見ることのできない、言わば月の裏側とでも言うべき角度から孫子兵法を文字通り両面的・全面的に考察し、その全体像や本質を体系的に纏(まと)めたものであります。


※【孫子正解】シリーズ・第1回出版のご案内

 このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として 【孫子正解】シリーズ・第1回「孫子兵法の学び方」という書名で電子書籍を出版いたしました。ご購入は下記のサイトできます。

      http://amzn.to/13kpNqM


※お知らせ

 孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、以下の講座を用意しております。

◇孫子兵法通学講座
  http://sonshijyuku.jp/senryaku.html

◆孫子オンライン通信講座
  http://sonshi.jp/sub10.html

○メルマガ孫子塾通信(無料)購読のご案内
  http://heiho.sakura.ne.jp/easymailing/easymailing.cgi


※ご案内

 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

  http://kodenkarate.jp/annai.html

 第18回 いわゆる「知識」には二つの種類がある2011.3.11
<質問>

 長らくメタボリック症候群に悩まされておりましたが、あまりの体調の悪さに一念発起し、一年前から比べると13sの減量を実践し、成功しました。今では、階段を上っても息切れもせず、思い荷物を持って長時間移動しても疲れず、10年前のスーツが楽になじむようになり、気分的にも毎日が爽快になって参り、10歳程若返った感じが致します。

 いわゆるメタボリック症候群が成人病の温床となり、体に悪いことは今を去る10年ほど前から十分に分かっていたところです。が、それは「理屈や知識で分かっているつもり」であって、本当は全く分かっていなかったと思います。

 なぜなら、何度も減量には取り組んだものの、変な知識やこじつけた理屈で、サウナの後では目先のビールとか、肉類系統の食べ物を「少量で体に栄養があるから」とつい口にしてしまいました。そんな時は必ず定番の決めゼリフたる「明日があるさ」「仕切り直しはいつでもできるさな」などと根拠のない願望にすがるのが常であり、そこには自己の敗北を覆い隠す奇妙な安堵感と「でもこの次は必ずやる」との不思議な高揚感がありました。

 つまりは、性懲りも無く自己欺瞞を繰返す行動の積み重ねゆえに、そのリバウンドもあり全く効果が上がりませんでした。人というものは、肉体が半分、精神が半分の両面から一つのものになっておりますが、肉体の減量とは、即ち、精神のコントロールそのものであることはなかなか身にしみて心にしみて「悟る」ことの出来るものではないと思います。


 昨年の夏ですが、さらに減量の効果を上げ、成人病対策に万全を期するためにも医師の薦めもあり、外来の栄養相談を近所の某診療所で受診することになりました。
 本当に喜劇のようですが、栄養士の先生に「貴方は、お話を伺っていると戦略戦術とかを研究されているようですが、そもそもご自身の健康戦略はキチンとできているのでしょうか」と指摘され、穴があったら入りたいような気持ちになりました。

 実は、テレビコマーシャルや口コミで伝わっていた健康に良い飲料・食品には、意外と減量には逆効果になるものが多くあるとのことです。即ち、常識として疑うことなく口にしているものには少量でもかなりのカロリーがあって、それらが日常的に体内に蓄積され、メタボリック症候群の要因となっているとのことです。
 そのような情報を専門の栄養士の先生に指摘され初めて、まさに孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>ではありませんが、彼と己を意識・認識し、そして対抗策を「実践」するようになったのです。

 自分が自分を知って、自分の中のもう一人の自分に対抗し制圧する訳なのですが、まさに、のどが渇いた時、目の前にあるビールを飲むか飲まないか、食事で物足りない時、目の前にある一品を口にするか口にしないか、コーヒーを飲む時、目の前の砂糖を入れるか入れないかという単純な選択ですが、それは「今」しかない、今止めるしかないのだ…、と言い聞かせて、しのいでいる自分がまた面白いところでした。

 自分で自分を知り、自分をコントロールすることは本当に難しいものであり、まさに「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」ですが、理論、理屈、知識に基づいた希望的、願望的なダイエット・テクニックでしかなかったことが、メタボリック症候群から長らく解脱できなかった原因であると思いました。

 昨年末、再び外来の栄養相談を受けた際、栄養士の先生に上述のことを言いますと、「本当に自分が自分の食事をコントロール出来て健康であることが出来るなら栄養士なんて必要ないのですよ」ということで大爆笑になりました。

 少なくとも、人前で兵法だ戦略だと言うからには、やはり自分自身の身体と精神を自分自身でコントロールすることを実践して初めて他人にも自分にも兵法だ戦略だということになると痛感いたしました。

 今回、減量に関して「願望と実行」、「理想と現実」、「理論と実践」、「身体と精神」など脳力開発でいう両面思考を分かっているつもりであったところをさらに目覚めることができ、自らの化けの皮を剥がすことが可能となり、一皮むける機会となりました。

 しかし、これで分かったと思っていると、他分野でまた違ったテーマで実践になった場合、本当に、願望、理想、理論、身体など「自分に都合の良い」面だけを中心にしてしまい、一気に両面思考から崩れ落ちてしまうと思います。まさに油断大敵であります。兵法、戦略を学ぶ上で、本当に見落とし勝ちな「自分自身のコントロールの実践」ということについて、その「要」とするところを是非ご教示を賜りますようお願い申し上げます。



<回答>
              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍


 色々な意味で深く考えさせられる良いご質問だと思います。ズバリ、次のように回答させて頂きます。


一、いわゆる知識には二つの種類がある

 一般的に、日本における学校教育は(学歴信仰社会を反映して)いわゆる知識偏重型の詰め込み式教育であり、自分の頭を使って主体的に物を考えるという訓練が実に不足し希薄であります。

 そのゆえに、知識として知っていればそれで万事良し、人間としても立派な人だ、とする実に浅薄な風潮が蔓延しているのであります。

 しかし、知識というものは、単に知っていることに価値があるものと、知っているだけではどうにもならないものの二種類があります。そもそもこの二つを明確に区別しなければ、その人が果たして人間として立派な人か否かの判断基準とならないのが道理であります。

 とりわけ、人間の行為に関するものは後者の知識であります。言い換えれば、知っていることが即ち、自分自身の骨肉と化しているか否か、つまりは、真の知識となっているか否かが問われるわけです。これは厳しい現実世界のことであり、単なる口先や知識の披瀝だけで誤魔化せるものではなく、況(いわ)んや、偏差値やIQの高さだけではどうにもならない問題なのです。まさに偏差値だけでは生き残れない、ということであります。

 例えば、「世界を怖れるな、唯自己を怖れよ」などいう言葉は誰でもが知っております。しかし、肝心の「自己」とは何かを追究する実際の行為が無ければ、折角の名言もまさに「無用の長物」「絵に描いた餅」と化すのであります。もっとも、知らないよりは知っている方が一服の清涼剤的な役割は果たすでしょう。しかし、それが現実変革の役に立つかどうかは甚(はなは)だ疑問と言わざるを得ません。

 同様に「知識は能力となる時に貴い」などの言葉をいくら知っていても、知識を使いこなせる能力とは何かを知り、それを身に付けようとする行為が無ければこれまた画餅に帰さざるを得ません。

 孫子の『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>とはまさにこのことを曰うのです。いわゆる「五事七計」を単に知識として知っていれば、それで勝てる、という能天気なものでは無いのです。王陽明が『知りて行わざるは、只だ是れ未だ知らざるなり』と喝破しているが如しであります。

 それはさておき、ご質問者さまも脳力開発の「両面思考」なる言葉は耳にタコが出来るほど聞かれており、知っており、ゆえにご自分では完全に理解されていた積りであったのでしょう。しかし、(単なる口先だけのことではなく)人の行為が絡む問題となると事はそう簡単では無かったということです。

 要するに、この種の問題は、知っていることと、そのことが現実に出来るか否かとを明確に区別する必要があるということです。まず、この違いを洞察する脳力を磨くこと、そして名言なるものの背景にある本質的構造を自分の頭で分析し、それを自分の言葉で語り、実際に使いこなす脳力を修練すること、それが脳力開発の真髄と識るべきであります。

 よく人は、訳知り顔で「脳力開発云々と言われますが、つまりは習慣づくりのことですね」と言い、「そんなことはオレはとっくにマスターしているよ」的なニュアンスをその表情に得意気に浮かべることがあります。しかし、得てしてこんな人に限って大概は全く分っていないと言っても過言ではありません。

 近年、いわゆる「脳力トレ」や「脳力テスト」などが脚光を浴びており脳力開発はブームのようですが、その大半は、「私は近視だ、これを治したいのですが」、「はい分りました。それでは視力をアップするために視力検査表の見方を教えましょう」という類のものが多いようです。

 そのようなものは、例えば対症療法の如きものであり、真の脳力開発とは何かの本質を見極めてその根本から治療する、もしくは改善することを目的とするものではありません。

 真の意味での脳力開発は、上記したごとく(頭の中の妄想や口先だけの言葉ではどうにもならない)厳しい現実世界の行為が不可欠の要素となりますから、ことはそう簡単にはいかないということであります。

 その意味でご質問者さまが、言葉ではなく真の意味での「両面思考」を行為の結果として真に理解されたこと、加えて、この現実世界は常に流転して止まないものゆえに、性弱き人間の常として、つい油断をしていると忽(たちま)ち急坂を転がり落ちるだけである、と真に理解されたことは実に喜ばしい限りであります。


二、善くも悪くも、その人の行為の結果がその人の意志である

 そもそも人はいわゆる霊肉不二の生き物であり、心と体はまさに一体両面の関係にあります。然(しか)らばそのどちらが優先するかと言えば、(唯物論的な見方はさておき)肉体よりも心が優先することは論を待ちません。何ごとであれ、人の行為の背後には必ずその土台たる「心」が厳然として関わってくるからであります。

 その意味で、ご質問者さまがご自分の「食欲」という欲望をその意志によって支配し、メタボ症候群対策たるのダイエットに成功されたことは、(欲望に盲従しないという意味では、ことの広狭大小はともあれ)知性ある人間の生き方としては実に正しい人間本来の姿であります。

 逆に言えば、あたかも犬や猫のごとく只、欲望に支配され盲従してあたら日を送るだけの酔生夢死の人生は、いかにその人がその行為の正当性を主張しようとも、知性ある人間としては実に「浅ましく」「さもしい」生き方と断ぜざるを得ません。

 角度を変えて言えば、今、政治不信の渦中にある(とりわけ政権にしがみつくことだけを目的とする)与党の国会議員や、彼らの活動の主舞台たる国会の場がなぜ美しく見えないのかということです。まさにそのキーワードは、およそ国政を担うリーダーとして自分を捨てる覚悟を忘却した人々の「浅ましい」「さもしい」欲望にある、と言わざるを得ません。

 では、彼らを美しく変えることは可能なのか。もとより可能であります。それは我々選挙民が「自分を捨てる」ことのできる選良(代議士)を選ぶことに尽きます。よく有権者の中には、『一票を投ずるに相応(ふさわ)しい人がいない』とか『誰がやっても同じ』だとか、したり顔で論ずる人がおられます。

 しかし、これこそ、自身の無知無教養、不勉強の実態を恥ずかしげも無く世間に晒している行為であると我々は認識すべきです。まさに前者は自身の不勉強を、後者は人が違えば能力も違うという人間能力の多種多様性を完全に否定するものだからです。

 仮にそうだとしても、であるならば野党に一票を投ずるという明確な手段もとれるはずなのに、今度は、『野党に政権を任せられない』とくる。このような手合いは、ただ自己の悪しき習慣たる下劣な品性に支配されているだけであり、彼の「泥酔記者会見」の故・中川財務大臣よりもはるかに深刻な泥酔者であると言わざるを得ません。

 しかし、世の中は、このような人に限って「オレは正常だ」と自認しているものなのであります。まさに「バカに付ける薬は無い」「バカは死ななきゃ治らない」の諺を地で行くものであります。

 このゆえに、我々は、日々、孫子を学び脳力開発に精進して(上記のごとき酔生夢死の世界と決別し)我々個々人が日本人としての誇りを取り戻すことが肝要なのであります。

 今、日本社会に充満する閉塞感・無力感はまさに政治不信に端を発するものであることは明白です。が、しかし、それは誰の責任でもありません。他ならぬ我々選挙民の一人ひとりの責任であり、我々が自ら「天に唾する」行為を積み重ねてきた結果と断ぜざるを得ません。そのことを我々は真摯に反省し投票行動で示すべきです。


 ともあれ、事の結果が善くもあれ、悪くもあれ、それを招来したものは我々の意志であると解するのが正常な人間の物の見方です。逆に言えば、人間の真の喜びは自分の意志を(よい結果を生むように)明確に意識して生きることであり、その統一的なプラスの連続力(孫子の曰うところの『勢』)を拡大発展させることにあります。

 これはいわゆる「奴隷」には不可能な生き方です。なぜならば奴隷は主人の従属物でありそこに自由意志はないからです。もとより我々は「奴隷」で無く、自由意志があります。が、しかし、国賊的政治家や宦官的官僚、衆愚の代表たるマスコミの「為にする」情報に洗脳されて唯々諾々とマインドコントロールされているという意味合いではまさに奴隷的な側面があることも事実です。また、自己の内なる欲望の発する「自己欺瞞」という情報に盲従し、空しく踊らされているだけの奴隷とも言えます。

 ともあれ、放って置くとゴミや埃(ほこり)が勝手に積もるがごとく、人間の心も(そもそもが怠惰なゆえに)世俗の垢に汚され勝ちなものであります。ゆえに、人間の真の喜びは、放置すれば汚れる一方の自分の心を常に磨き、自分の意志を明確に認識して生きることにあります。

 その意味で、ことの広狭大小はともあれ、ご質問者さまの『今では、階段を上っても息切れもせず、思い荷物を持って長時間移動しても疲れず、10年前のスーツが楽になじむようになり、気分的にも毎日が爽快になって参り、10歳程若返った感じが致します』というご認識はまさにそのことを雄弁に物語るものであります。


三、何が正しく、何が間違っているかを自分の頭で判断する

 かつて、麻生元首相が「私は日常、腹筋・背筋・腕立て伏せやランニングなどを行う習慣を持続し健康管理には十分に気を付けているので同世代の人よりは遥かに健康で若いはずである。当然、医療費も安い。日本の中高年の方々もこのように心掛ければ医療費の削減に繋がる」などの発言を行い世間の失笑と顰蹙(ひんしゅく)を買いました。

 しかし、これは彼の舌足らずの説明がいけなかっただけであり、ことの道理、真実はまさに麻生首相にあると言わざるを得ません。

 確かに、『あんた(麻生元首相)はカネとヒマがあるからできるんだ、カネもヒマも無い人間はどうするだ』と、やっかみ半分も手伝い、またも麻生元総理の能天気な見解としてマスコミにより一笑に付されたことも事実です。しかし、これはまさに人間としての矜持、もしくは意志に関わ心の問題であり、外形的なカネとヒマの有る無しの問題ではないということです。

 それにしてしも、気の毒なのは麻生元首相です。彼の長年の人生経験から学んだ折角の知恵が非常識な世間によって一蹴されたわけですから、まさに気の毒を絵に描いたようなものです。是々非々の明確な根拠もなくただ付和雷同し、大勢に追随するのが日本人の民族的欠陥であります。言わば衆愚政治の原型はまさにここにあると断ぜざるを得ません。

 いわゆる「悪貨は良貨を駆逐する(グレシャムの法則)」ごときものであり、衆愚のはびこる世の中では真実の声を挙げてもかき消されるだけであり、逆に、一歩間違えれば、マスコミ的パッシングの好材料になる、ということです。まさに「天の岩戸」に隠れてしまった天照大神の心境も宜なるかな、と言わざるを得ません。

 恐らく麻生元首相は、老年を迎える前に平素からそのように心掛けて日常生活を送れば、いざ老年を迎えても生活習慣病にかかる可能性が低くなる、従って全体では医療費の軽減に繋がる、個人も快適な日々が送れる、まさにそこにメタボ症候群対策の趣旨があるということを言いたかったのでしょう。

 その意味で彼の発言は、孫子の曰う『之を経(おさ)むるに五を以てし、之を校(くら)ぶるに計を以てし、而して其の情を索む』『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>とその軌を一にするものがあります。

 とは言え、麻生元首相もいけない。七十歳を間近にして肝心の愛読書がマンガ本だったり、通常の人が通常に読める漢字を度々誤読などしたりするから、まさに『民、信なくんば立たず』(論語・顔淵篇)を引くまでもなく、彼の話にまるで真実味、説得力が無いのである。

 つまり、ここでは、『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>の真意を解せざる者と言わざるを得ません。

 いずれにせよ、ことの本質、ことの道理を追究しようともせず、表面的かつ一面的な狭い見解で判断し、その真実に迫ろうとしないのはマスコミの常套手段ゆえに我々は同調すべきではありません。

 その対象が例え能天気に見える麻生元首相の言だとしても、正しいものは正しいのであり、真理であると評価すべきなのであります。まさに人を見て判断してはいけない典型例と言えます。つまりは、何が正しく、何が間違っているかという的確な判断力の有無こそが問題となるのです。

 一般的にマスコミは、その商売ネタたる『珍奇なネタ(おもしろおかしければが価値であり判断基準)』をあたかも餓鬼のごとく日々追い求め、ただ右往左往するだけの存在ゆえに、そもそも表面的、一面的、主観的な物の見方しか出来ないところにその本質があります。

 凡そ、ことの洞察力、ものの本質を見抜く判断力の対極に位置するものが彼らマスコミの知性の実態であることを我々は肝に命ずべきであります。

 論より証拠、例えばテレビのワイドショウなどで政治を論ずるコメンテータの発言を聞けばそのことは一目瞭然であります。その殆どが実に聞くに値しない、耳を覆いたくなるような低レベルのものと言わざるを得ません。

 テレビという公共の電波を使い、ただ、おもしろおかしければそれで良しとする極めて短絡的、かつスポーツニュース的感覚で政治を論じられたらその影響は計り知れません。

 このことを我々はシビアに認識し、マスコミ論評のどこが間違っていて、どこが正しいのかを適正に判断する力を磨くことが急務であります。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。


 ともあれ、物事の本質的かつ大局的判断が出来ないという意味で日本のマスコミは実に愚かであり、真の意味での知性が欠落していることは疑いようがない事実です。

 然(しか)らば、彼らは無用の長物かと言えば、然(さ)に非ず、情報収集という意味では彼らの存在は極めて重要です。
 そのゆえにこそ、何が正しく、何が間違っているかの情勢判断力を我々は養成し、彼らに振り回されるのではなく、彼らを利用する術をを見出すことが肝要なのです。吾人が脳力開発を学ぶ所以(ゆえん)であります。

 ともあれ、今日、最も必要な思想は、真の意味での人間資源をいかに開発するかにあります。その根底にあるもものがまさに怠惰にして自堕落な生き方の対極にある、自分に克つ姿勢、言い換えれば、自己と対峙し対決する姿勢、もしくは自己の際限のない欲望をコントロールする生き様であります。

 やるか、やらないかを自分で判断できるという立場から言えば、ダイエットはまさに「戒律」であります。

 その意味で、脳力開発の根幹たる「精神的姿勢の確立」「思考方法の整備」「実際知識の拡大」たる三面・十一項目の基礎習慣づくりも、まさに「戒律」であります。しかも『何が正しく、何が間違っているかを自分の頭で判断する』習慣づくりという観点から言えば、現代日本人にはまさに必須の「戒律」であると言っても過言ではありません。

 もとより「戒律」は他人に強要するものではなく、まさに自らが実践するところにその意義があります。その意味では、まさに、たかがダイエット、されどダイエットであります。その意味で、ことの広狭大小はともあれ、ご質問者さまのご体験は実に貴重であると考えます。これを契機に、孫子兵法及び脳力開発の累積的進歩発展のさらなる高みを目指して精進されんことを祈念申し上げます。


※【孫子正解】シリーズ・第1回出版のご案内

 このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として 【孫子正解】シリーズ・第1回「孫子兵法の学び方」という書名で電子書籍を出版いたしました。ご購入は下記のサイトできます。

      http://amzn.to/13kpNqM


※お知らせ

 孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、次の講座を用意しております。

◇孫子兵法通学講座
  http://sonshijyuku.jp/senryaku.html

◆孫子オンライン通信講座
  http://sonshi.jp/sub10.html
 
○メルマガ孫子塾通信(無料)購読のご案内
  http://heiho.sakura.ne.jp/easymailing/easymailing.cgi


※ご案内

 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

  http://kodenkarate.jp/annai.html

 第17回 マインドコントロール社会の「偽」に騙されないための兵法的思考力の養成について2011.3.4
<質問>

 昨年は、世相を映し出す漢字として「偽」という文字が当てられていました。事件報道になるような「偽」はともあれ、見方を変えれば、常時流されるテレビにCMに代表されるがごとくまさに現代日本は、マインドコントロールもしくは洗脳社会であると言っても過言ではありません。このような「偽」の社会構造に騙されないように生き抜くためには何と言っても、自分の頭で考え物事を的確に判断できる言わば兵法的思考力を学ぶことが最適であると思います。この点についてご教示を賜りますようお願い申し上げます。


<回答>
                 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍


(一)天下泰平を謳歌していた観のある江戸時代においてすら、その幕藩体制を領導した中心的な思想は孫子の兵法である。

 いわゆる元和偃武とともに戦国乱世も漸く終わりを告げ、欣求浄土を旗印にした徳川家康の願い通り、世はまさに天下泰平の時代を迎えました。その意味で江戸時代は庶民や武士を問わず様々な文化が百花繚乱のごとく咲き乱れ、いわゆる「お伊勢参り」に代表される神道を始め仏教や儒教などの思想文化もこれに華を添えました。

 ではありますが、徳川幕府はあくまでも武士の政権であるゆえに、その権力と権威の源泉はもとよりその「軍事力」にあり、従ってまた(彼の風林火山の軍旗が正々とはためいた戦国時代とは異なり表向きは隠れているように見えても)その幕藩体制を領導した根本的な思想は孫子に代表される兵法的思想であったことは論を俟ちません。

 そもそも孫子に代表される兵法的思想は、「戦い」という普遍的事象に対処するための理論的考察であるため、いわゆるイデオロギー(ここでは広義の思想傾向や考え方を含む意)とは無縁の謂わば「色」の無い中性的な思想であります。

 例えて言えば、いわゆる「お金」のごときものであります。即ち「お金」は、それ自体では善でも悪でもなく、毒でも薬でもありません。それと関わる人の関わり方いかんによってその評価が定まるにしても、本質的には、いわゆる「お金に色は無い」のであります。中性的な思想とはまさにそのような意味合いです。

 そのゆえに、孫子に代表される兵法的思想は、神道や仏教、はたまた儒教、もしくはイデオロギーという概念で括られる様々な思想を超越して幕藩体制を領導する思想となり得たのであります。

 仮に幕藩体制の支配的思想が、たとえば彼のインカ帝国の滅亡におけるがごとく「太陽神の崇拝」だけであったとしたらどうでしょう。いくら神に祈りを捧げてもスペイン帝国軍が恐れ入って退散しなかったように、幕末の日本は押し寄せる植民地主義の外国勢力に蹂躙され、その草刈場と化していたことは自明の理であります。

 まさに『天下安(やす)しと雖(いえど)も、戦いを忘るれば必ず危うし』<司馬法>であり、そのゆえにこそ孫子なのであり、神道や仏教、はたまた儒教ではなかったのであります。

 その意味で幕末日本のリーダー達は、当時(植民地主義時代)の国際関係をまさに「元和偃武」以来の戦国乱世の到来と見て、孫子兵法をバックポーンとして国家生存のための方策を案出したのであります。

 言い換えれば、『諸侯、自らその地に戦うを、散地となす。』<第十二篇 九地>は、まさに押し寄せる外国勢力に対する幕末日本の立場に他ならず、そのゆえに『散地には則ち戦うこと無かれ』の方針の下、『散地には、吾れ、将にその志を一にせんとす。』の戦略が策定されたわけであります。

 つまりは、尊皇派も攘夷派も、討幕派も佐幕派も「小を捨てて大に就く」の道理を弁えて、外国勢力を引き入れての内戦突入・国家分裂の愚を回避し、その「国体」を一にして、「民心」を一にして富国強兵策に邁進し、侵攻する外国勢力から主動権を奪うに如(し)くは莫しとの結論に期せずして到達したのであります。


 ともあれ、孫子兵法とは、(巷間、謂われているが如きイメージとは大きく異なり)いわゆるイデオロギーを超越した中性的性質の理論であるということ、そのゆえに、この世に凡そ「戦い」と名が付く事象が存在する限り、その主体が国家であれ、組織であれ、はたまた個人レベルであれ、その理論は普遍的に適用できるということあります。

 とりわけ、先行きが極めて不透明な今日において、最も関心が持たれているのは、孫子兵法の個人的レベルにおける具体的な適用の方法であると言えます。以下、それについて若干の考察を述べます。


(二)個人の自己責任が求められる反面、先行き不透明にしてセーフティーネットなき現代の日本社会は、まさに個人にとっての戦国乱世の時代である。

 いわゆるグローバル化(経済などのシステムが国を超えて世界的なものになる動き)を広く解すれば、上記した(産業革命に起因する)黒船の襲来は、まさにそれに該当するものであり、その大変動に幕末日本は孫子兵法をもって適切に対処したのであります。

 そして、その視点を現代に転ずれば、日本社会はもとよりのこと、とりわけその構成員たる個々人にとっては、まさに第二の黒船とでもいうべきグローバル化の大変動に直面していると言わざるを得ません。

 近年、飛躍的に進歩した科学技術、とりわけコンピューター技術は驚異的な進化を遂げ、社会のIT化、デジタル化、産業構造の変革を避けて通れないものにしております。

 加うるに、地球規模で進む深刻な環境破壊や多発する異常気象、激しさを益す一方の資源争奪競争、冷戦後の新たなパワーオブバランスの動向、大騒乱の火種を孕(はら)む民族や宗教がらみの地域紛争、現代版十字軍的な宗教戦争、国際的テロ組織の暗躍など、先の見えない時代の不安要因は枚挙に暇がありません。

 一方、国内事情はと言えば、戦後、経済大国として発展した日本を支えてきた社会システムが半世紀以上の時を経て(言わば制度疲労たる)様々な不具合を起こし、その本質的改革を余儀なくされております。

 一般的に、日本人は、その勤勉さ、真面目さ、小手先の器用さ、一致団結性という意味ではまさに世界に冠たる優秀民族であります。しかし、裏を返せば、競馬場の出走ゲートにおける競走馬のごとく、左右を目隠しされ、ひたすら前方しか見えない状態に置かれた、言わば「専門バカ的」資質がその民族的欠陥と言わざるを得ません。

 言い換えれば、小手先の技術的な資質は優秀であるが、ことの本質を洞察し、大局的に構想し戦略的に思考する資質は極めて貧弱であるということです。そのゆえに、突出したリーダーを嫌う国民性であり、社会におけるリーダーの意義や政治の重要性など考えようともせず、ましてや個々人が個々人のリーダーたらんとする思考や行動など思いもよらないということです。

 一般的に、日本人は、取り立てての見識も信念もなく、「一犬、影に吠ゆれば百犬、声に吠ゆ」のごとく付和雷同し易く、ただ大勢に順応し、ひらすら追随することをもって美徳とすると傾向があります。言い換えれば、誰も責任を取らない国民性とも言えます。


 そのような無責任な政治家や国民の思考態度に起因して、結局は、有名無実の「抜本的対策」の名の下、彼の悪名高く「先送り体質」が国民の目を欺いて常態化し、その結果としてのツケが戦後半世紀以上を経た今日、百鬼夜行のごとく跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているのが実際であります。

 とは言え、流石(さすが)に近年は、超お人好しの日本人(有権者)も人間社会におけるリーダーとは何なのか、その意義と必要性に気付きはじめたのであります。

 しかし、如何せん、付け焼刃的なリーダー鑑識眼では的(まと)も人物など選べるはずもなく、どう勘違いしたのか選(よ)りに選(よ)って彼の似非(エセ)リーダーたる小泉元首相を選んだのは「不幸の上に不幸が重なる」いわゆる「不幸の上塗り」状態と言っても過言ではありません。

 キャッチフレーズたる「聖域なき構造改革」は単なる掛け声だけで、その実は、最重要の官僚組織の改革には手も触れず、例えば、弱くて取り易い医療、福祉、教育などの予算は容赦なく削減したのであります。

 「痛みなければ改革なし」などの虚言を弄し、あれだけやりたい放題をし、詭弁に満ちた「小泉劇場」や「郵政民営化」は一体、国民に何をもたらしたのでしょうか。その結末が、今日の格差社会、ワーキングプア、非正規社員の増加、医療を含む深刻な社会保障制度の崩壊など極めて重要な社会問題を生み出していると言わざるを得ません。

 かてて加えて、三年前の「郵政選挙」で獲得した圧倒的衆院議席数が、今日もなお、衆議院再議決数(三分の二)として亡霊のごとく永田町を彷徨(さまよ)い、もはや「死に体」の自民党政治の余喘(よぜん)を保つのに奏功しているのです。

 彼の「小泉劇場」は、超お人好しの選挙民にとってまさに「不幸の上塗り」状態となったとする所以(ゆえん)であります。我々は今こそ、真のリーダーとは何かを冷静に検証する必要があると言わざるを得ません。

 逆に言えば、民主主義国家が標榜する民主政治、言い換えれば、その根幹たる「選挙精度」は、まさに、かつての戦争がその姿を変えた形であり、言わば血を流さない戦争に他なりません。

 そのゆえに民主主義国家の主権者たる我々選挙民は、(まさにかつての幕藩体制の支配者達がそうであったように)一見、選挙とは無縁に見える「兵書孫子」を真摯に学び謙虚に思索する必要があるのです。


 ともあれ、リーダーなき先行き不透明な現代日本社会は、まさにダッチロール状態であり、政治世界も世相も「何でも有り」の様相を呈しております。

 借金漬けの国や地方自治体はもとより頼りにならず、厳しい変革の波と企業間競争に晒されて必死でサバイバルを模索する組織もそのゆえに当てにはできず、セーフティーネットもなく、いたずらに「痛み」と自己責任だけが求められる今日の異様な世相は、まさに個人にとっての戦国乱世の時代と言えます。


 このような状況下、個々人はいかにサバイバルするかということですが、やはり先人の例に倣(なら)い、自らを『散地』<第十一篇 九地>と自覚し、自らの道は自ら切り開いて行くという気概を持つことであります。

 その気概の下、真剣に孫子を学び、常に自己を磨く者だけがサバイバルできる時代となったのです。しかし、その前に、個々人がともすれば陥り勝ちな悪しき思考パターン、言い換えれば、「脳の使い方の盲点」とでも言うべきものにメスを入れておく必要があります。


(三)脳の使い方、もしくは使い方の盲点について

 古代イスラエルの王、ソロモンの言として「賢者は聞き、愚者は語る」があります。人の賢愚を知るにはその人の態度を見よ、の意であります。

 つまり、賢い者は己の知能の足らざるを恐れ、さらに多くを得ようとして努めて人の説くところを聞くが、愚かな者は、己の能力を誇示したいがために、己一個人の浅はかな知恵に過ぎないものを絞り出そうとして、しきりに語るということです。

 そもそも言葉は人の脳と脳をつなぐ役割を果たすものであり、そのゆえに言葉は、脳の機能が外部に拡張したものとも言えます。

 学者によれば人類がこの言葉を獲得したのは約五万年前のことであり、これにより人類は、失敗の繰り返しを避け、生きる知恵としての情報を次の世代に伝えられることになったのです。

 さらに人類は、記号や絵、地図を書く能力を獲得してコミニュケーション能力を拡大し、遠隔地との交易や異文化との交流を可能にしたのです。

 やがて、絵文字などから文字が発明され、脳の中の知識を単に言葉で伝えるだけでなく文字で外部に残すことにより時空を超えて知識を共有する術を持ったのです。紀元前三百年ころ、エジプトのアレクサンドリアで世界初の図書館が誕生した所以(ゆえん)です。

 要するに、有限の生命を生きる一個人の生涯の体験や知恵など、有史以来、連綿として蓄積された人類の体験や叡智に較べれば高が知れているということです。

 そのゆえに、謙虚に先人の知恵を学べば、そのような先人の知恵を追体験し自己のうちに自己の体験として加えることができるのです。言い換えれば、物事を判断するための基礎的材料(データ)が実に豊富になり、自ずから思慮の深さも弥(いや)増すのであります。


 上記の「賢者は聞き、愚者は語る」とはまさにそのことを言うものであり、その意味では「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」とも言えます。

 ここで問題なのは、そのような当たり前のことは誰でも知識としては知っているが、当たり前のことゆえに忘れ易いし、理解したらそれで終わりとする弊習に陥り易く、現実的には、その知識は使われず役に立たないまま終わってしまう場合が多いということです。

 マスメディアを賑わす様々な不祥事を引くまでもなく、現実の人間生活にとって最も重要なことは、当たり前のことを当たり前に実行できるということであり、これが実は極めて大きな力を発揮するのであります。逆に言えば、常識的な基本的に分り切ったことがキチンとできていないがゆえに、様々な不祥事が生ずるのであります。

 例えば、かつて当掲示板に、「北斗七星」様なる方から『「日本の現代教育(実業高校、大学)に物申す」と題された次の一文が寄せられました。

--------------------------------------------------------

 日本の実業高校、大学では多くの科目を履修しなければ卒業出来ないようです。私はそれが気に入りません。

 これだけ多くてはじっくり勉強できないし、深く勉強する事も出来ません。ある企業では「学生の知識と学力ではこの会社では通用しないから、新入社員は勉強をやり直さなくてはならない。」と言っています。

 そこで思うのですが、学生は少ない科目(自分のやりたい科目だけ選択)を履修して卒業できないか? それが無理なら履修だけで認められる世の中にならないか? これは学生の人材育成という面でこう思うのです。それが日本の為になると思うのです。塾長のご意見をお聞かせ戴きたい。

--------------------------------------------------------

 さて、これにつきましては次の二点が問題となります。

(T)履修する科目が多いゆえに、じっくりかつ深く勉強できないのはそもそも誰の責任か。

 当たり前のことを当たり前に考える発想からすれば、その学校による所定のカリキュラムが適切にこなせないのは、(当たり前のことですが)そのカリキュラムのせいではなくて学生の努力不足ということになります。

 ましてや昨今は、大学はいわゆるお子様のレジャーランドと化しているなどと懸念されております。仮に「北斗七星」様が、肝心の学生のそのような不熱心な勉学態度を棚に上げて「成績の振るわないのはカリキュラムの多さゆえである」とすれば実に本末転倒な暴論と言わざるを得ません。

 大学は真剣に勉強するところ、という社会的な環境的圧力が高まれば、「新入社員は勉強をやり直さなくてはならない云々」などとの企業の心配は要らぬ御節介ということになります。


(U)大学の所定のカリキュラムに拠らずして、科目履修を学生の自由選択に任せることは果たして合理的な処置なのか。

 この問題は人類の叡智たるいわゆる「型」をどう考えるかということに帰着いたします。

 何れの分野であれ、いわゆる「型」は、その道に入るための、もしくはその道を追究するための合理的な様式のエキスが簡潔に組み込まれております。そのゆえに、まずはこの「型」を墨守することが上達への捷径(近道)となることが保証されるのです。

 逆に言えば、何の道であれ、先人の「型」に拠らずに全く独自にその道の「型」を創造することは実に壮大なエネルギーのロスであることは論を待ちません。

 それよりも何よりも社会的存在たる人間にとってその道の先人の「型」を全く知らずにいること自体、大いなる論理的矛盾と言わざるを得ません。彼のロビンソンクルーソーと雖(いえど)も、人間として生きるための「型」は既に身に付けているからであります。

 古来、日本では「型」に関し、いわゆる「守・破・離」の教えが伝えられております。まず「型」を墨守すること、次に疑問点を見出すこと、最後に自己独自のものを編み出すことの意であります。

 仮に、その人独自のものを創意工夫するにしても、やはりそれは先人の「型」を応用したものに他なりません。「型」があるからこそ初めて「型」を破ることが可能になるからです。

 ともあれ、「型」を応用することによって初めて個性が発揮され、独自の創造を可能とするのであります。

 然るに「北斗七星」様は、言わばその「型」を無視することが、学生の人材育成という面で効果的であり、それが日本の為になる言う。その論理はまさに今風で実に耳障りが良く、一見、合理性に富んでいるように思われます。

 しかし、当たり前のことを当たり前に考える方法からすれば、これもまた、人類の叡智を無視した暴論と言わざるを得ないのであります。


(四)なぜ当たり前のことを繰り返し訓練する必要があるのか

 例えば前記したごとくの「賢者は聞き、愚者は語る」、もしくは「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」などの有益な指針は、(本当は極めて重要でありますが)余りにも当たり前過ぎるがゆえに、ともすれば我々の意識から抜け落ち易いという盲点があります。ゆえに絶えずその点に意識を集中し、繰り返す必要があるのです。

 常識的な、基本的な、分り切ったことを体系的に整備し、まとめ、それを一つの体系として使いこなすことが、通常の日常生活やビジネスにおいては、実は、極めて大きな力を発揮するのであります。

 当孫子塾で主催するオンライン通信教育講座「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」は、まさのそのことを目的とするものであります。自分の頭と手と足と口を使い、常識的かつ基本的な指針を体系的に使いこなす訓練をするということです。


 そもそも、理解と体得とは自ずから別物です。体得は頭と手と足と口を使った実践行動なしには実現しません。そのゆえに、常識的かつ基本的指針の体系的な使用を我が物とするためには、理解したらそれで終わりとする旧来の弊習を改めることが肝要であります。

 この手のものは、いわゆる武術と同じで「体得しなければ意味がない」のであります。例えば、敵を目の前にして、「ちょっと待って、この場合の最適な技を思い出すから」では話にならないのであります。


 古来、道を得るのは「心」で得るのか、「体」で得るのかの議論があります。例えば、前記したごとく、「型」を無視して道を得ようとする行為は、言わば「心」で道を得ようとするものであります。

 しかし、一般的には、一定の「型」に習熟し、知識や見解をスッポリと捨て去って、体が自由に働き、技が自由に出せる境地が求められるところとされております。

 彼の道元禅師「心であれこれ推し量っているうちは、千たび生まれ変わっても、悟りの道は得られはしない。道を得るのは、まさしく体でもって得るのだ」と喝破しております。この場合は、座禅という「型」を徹して行ずるところに道というものが見えてくるのだ、ということであります。

 つまり米田様の言われている『プロフェッショナルな人というのは、一般的な常人以上の「センス」というものを持っているところあると思います。それは、ことに当たっては、「板に付いた習慣」として「自然に出てくる」ものであり、決して、無理が見られないということであります』とは、言い換えれば、『常識的かつ基本的指針を体系的に使いこなすための「型」』を常に鍛える、それがプロだということになると思います。

 その意味でプロフェッショナルとは、「脳に楽をさせない。脳を筋肉と同じように常に鍛える」ことを意識し実践する人とも言えます。因みに、そのための、言わば「型」を提示するものが当孫子塾の主催するオンライン通信教育講座「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」であります。         
                          

※【孫子正解】シリーズ・第1回出版のご案内

 このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として 【孫子正解】シリーズ・第1回「孫子兵法の学び方」という書名で電子書籍を出版いたしました。ご購入は下記のサイトできます。

      http://amzn.to/13kpNqM


※お知らせ

 孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、次の講座を用意しております。

◇孫子兵法通学講座
  http://sonshijyuku.jp/senryaku.html

◆孫子オンライン通信講座
  http://sonshi.jp/sub10.html
 
○メルマガ孫子塾通信(無料)購読のご案内
  http://heiho.sakura.ne.jp/easymailing/easymailing.cgi


※ご案内

 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

  http://kodenkarate.jp/annai.html
P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8
[編集]
CGI-design