第13回 我々個々人の、今、この時の人生こそ、真に価値あるゲームである2009.8.24
<質問>

 どちらかと言えば、落ちこぼれ組であった私は、塾の先生との運命的出会いを機に、一念発起して受験勉強に励み、ようやく彼の大学に入学しました。

 しかし、一年生の夏休みから、何となく外の世界には関心がなくなりネットゲームにのめり込みました。中世の世界を舞台に自らが大将となって敵と戦うゲームで、勝てば攻撃力や防御力が上がり、さらに強い敵と対戦できます。

 敵を何度打ち倒しても、そのたびに、さらなるハイレベルな強敵が現われるため、ネットゲームの世界に終わりはありません。そのようなゲームの世界に熱中し、時には寝食を忘れるほどの生活を送るようになってから2年が経ちました。そんなある日、心身ともに疲れ果て、そのような戦闘に明け暮れる日常が楽しくなくなっている自分に気付きました。

 以来、ネットゲームの画面を開いたことはありません。現在は、正常な学生生活を取り戻し、彼の大学の院生として分子生物学を学んでいます。

 しかし、この2年間のネットゲームにおける数限りない戦闘経験は無駄ではありませんでした。なぜならば、私はこの豊富な戦闘経験により例えば孫子の兵法にあるがごとくの「戦いの本質とは何か」「どうすれば敵を打ち負かせるのか」などの法則を会得したからであります。この法則は今日の私の心の支えであり、現実の世界に応用できる普遍的な原理であると考えております。

 戦闘ゲームで戦いの法則を会得した私の体験について、孫子兵法を研究されている先生のご意見を伺いたいのですが。


<回答>
                         孫子塾塾長 佐野寿龍

一、言葉というものは実の伴わない放言になり易いものです。

 戦闘ゲームによって戦いに関する普遍的な原理を発見したと言われる貴方のご体験に、何ごとかと大いなる興味をもってその内容をお聞きしたところ、まさに妄想であり、無責任な放言の類であることが分りました。

 とりわけ、『敵はいつ画面に現われるかわからない。その出現を予測し、いかに反応するかの意識の感覚が重要なキーとなる。この意識の運動性に関する知見から戦いの法則を発見した』との下りに接した時、思わず私は軽い眩暈(めまい)を覚えました。

 まともに勉強もせず、現実逃避たるゲームにのめり込み、膨大な時間をロスした自己の行為を、ただ単に正当化しているに過ぎないと感じたからに他なりません。


 ともあれ、一般的に、大学関係者の書き込みは、やたらに長ったらしくて、回りくどく、結局、何を言いたいのか良く分りません。

 その最大の原因は、ゲームに関しての書き込みで貴方がいみじくも独白されておられるように、『なるほど知識をひけらかすのは悪い習慣であるのかもしれません』の一言に尽きると思います。

 私に言わせれば、そのことが初めから分っていて、かつ「自戒」するくらいなら、即座に改めるべし、ということです。行動の結果を見てそのやり方を改めるのは極めて人間らしい行為であり、偏差値教育によって培われて知識や技術の遠く及ぶところではありません。

 要するに決断と実行というものは、知・情・意を含めた全人的行為なのであり、単なる偏差値的知識の問題ではないということです。このゆえに古人は『善を見ては則ち遷(うつ)り、過(あやま)ち有れば則ち改む』と論じているのです。

 おまけに、いかにも謙虚さを装うがごとく「また文盲なために誤字脱字と多いですが」などと記されているに至っては、まさに噴飯もの、傲慢以外の何者でもありません。それは偽善というものです。それが分っているなら即、改めるか、はたまた黙するかのいずれかであります。それとも実行力の欠落しているのがいわゆるインテリの通例とでも言いたいのでしょうか。

 彼の孔子は『古の者(ひと)の言を出ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざらんことを恥ずれなり」<里仁篇>と論じています。

 つまり、口は重い方が良い、敏捷な実践こそ重要だ、の意でありますが、裏を返せば、言葉というものは実の伴わない放言になり易いことを言うものです。

 万物の霊長として言葉を繰る人間が、ただ無責任に放言するだけでは禽獣と何ら変わらないということであります。そもそも、言葉に力があるのではなく、「意味のある言葉」に力があるのであり、言行一致による真実を語るからこそ言葉に力(言霊)が生ずるのです。

 昨今の国会議員や役人などの言動を見るまでもなく、言葉の重みを真に解しない者は、ただ軽蔑されるだけです。

 そのゆえに、およそ人は、彼の孔子の曰う『過(あやま)ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ』の言を拳拳服膺すべきであります。これは無力ないわゆる呪文ではなく、厳しい現実を変革する言葉であります。


二、孫子兵法をいわゆるマニュアル的手法と解する愚かしさ。

 有限の生命たる個々人は各々の時間と空間を踏まえて存在するものゆえに、自ずから個別特殊的な存在とならざるを得ません。

 ゆえに、例えば、戦いということに関して言えば、時空を超えてそれこそ千差万別の人間の全てに適用できる個別具体的なマニュアルなど論理的にあろうはずもありません。

 とは言え、人は一般的に「我こそは」の自負心が強く、自己を「良形視」するものゆえに、(他人のことは知らず)自分にはそれが活用できると妄想し思い込み勝ちなのです。そのような善男善女の本能的盲点に食い込みむのが、「売らんかな」のいわゆる商業主義的発想であります。

 そのゆえに、巷に反乱するその類の書物は、(その当事者にとっては成功事例であろうが第三者には当て嵌まらないという意味で)言わば「偽装」であり、「幻想」であり、「ある、ある」詐欺に他なりません。


 そのような普遍的なものがあるとすれば、それは例えば「戦いという事象」に関するいわゆる「物の見方・考え方」、つまり「思想」という形しか考えられません。

 飛行機を例にとれば、ライト兄弟以来、その形はその時代々により環境により様々に進化しておりますが、その多様な形態の中に一貫して流れて変わらないものは飛行機に関してのいわゆる「技術的思想」であります。

 言い換えれば、孫子とはまさにその「技術的思想」に該当するものでありそれ以外の何者でもありません。その技術的思想をもって創造された様々な飛行機の形態に該当するものが孫子を活用しての個々人の戦い方であります。

 ゆえに、まずその技術的思想の何たるかを理解することが肝要であり、そのような知恵も持たずして独自に飛行機を造ろうとすれば、先人の叡智を無視した愚か者との謗(そし)りを免れざるを得ません。しかも、このようなことは普通の知性で考えれば誰でも分ることであります。

 そのゆえに、孫子が「それを読む個々人に直ちに適用されるいわゆるマニュアルである」が如き幻想を恰(あたか)も真実のごとく信じて疑わない日本人の思考力とは一体何なんのか、その底の浅さには思わず慄然とするものがあります。現代日本社会の抱える様々な逼塞的状況、問題の本質はまさにここに起因すると考えます。

 弊塾の孫子兵法通信講座「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」において、孫子を学ぶ以前の基礎篇もしくは準備教育として「脳力開発」を学ぶ所以(ゆえん)であります。

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三、いわゆるバーチャルな戦闘ゲームはあくまでもバーチャルなものに過ぎず、およそ現実の戦いとは無関係です。

(1)例えば軍事においても図上演習と兵棋演習はあります。言わばゲームとも言えるものです。しかし、この図上演習と兵棋演習がいわゆるバーチャルなゲームと本質的に違うのは、あくまでも現実の客観的事物を踏まえて行われるものであるということです。

 極論すれば、戦車が突然、魔物になったり、兵士が突然、ゾンビに変わる訳ではないのです。あくまでも、現実における客観的事実としての敵の攻撃力、防御力、運動力、通信力などを踏まえて行うものであります。

 現実のことですから、(当然のことながら)それを踏まえての実戦の如何には、一国の存亡、軍の命運、国民の死生が懸かっております。逆に言えば、バーチャルなゲームはどこまで行ってもバーチャルであり、現実ではないということです。

 このバーチャルなゲームの中で貴方が何を悟られようと、もとより問題はありませんが、それはあくまでもゲームの中のことであり、現実世界には何ら関係は無いということです。

 言い換えれば、貴方が盛んに言われている「意識の運動性に関する知見」はあくまでもバーチャルなゲームの中に存在する「相手」に対する知見であり、現実の人間に対するものではないからであります。

 それをもって、現実と同一視し、現実の人間や武術や社会を論ずることは大いなる見当違いと言わざるを得ません。兵法的に言えば『本(もと)を舎(す)てて末(すえ)を治む』の類であり、戦略の失敗は戦術では補えないということになります。

 そもそも、人間の肉体と脳はいわゆる霊肉不二の関係にあり、貴方が思考の根拠とされているような頭脳だけで肉体の無い人間など(未来は知らず現実には)存在しません。

 現実の人間は、刻々変化する環境を認識した「脳」と、その思考と意志の実行手段たる口・手・足などが一体となって機能し認識を深め発展させてゆくものです。このような森羅万象の千変万化する動きをバーチャルなゲームで再現できるはずありません。


(2)日本武術においても、真剣勝負の場における精神のコントロールは古来、重要なテーマとして論じらてきました。しかしそれとても、あくまでも、生身の人間が血と汗と涙を流し、最適の技を、反射的に、無意識に使えるように日々繰り返し稽古しているという事実を踏まえて練られるものであります。

 貴方が、バーチャルなゲームでそれに類するものを悟られたとしても、それはあくまでもまさに異次元のゲームの中でのことであり、現実世界には何の関係もありません。


 この孫子談義(掲示板)は、厳しい現実にいかに対処するかを真摯に考察する場であり、残念ながら、いわゆるネトゲ中毒者(ネットゲームにはまり込んで中毒となり、現実世界で生きられない人)が妄想を論ずる場でありません。

 老婆心ながら申し上げれば、人生は、(自分の思うように行かないという意味で)まさにゲームそのものであります。しかも自己の生死が懸かった実にスリリングかつエキサイティングなゲームであり、その壮大かつな深遠なさまはバーチャルゲームなどとは比べる可くもありません。

 この人生ゲームをいかに戦うか、そのために学ぶものが孫子兵法であります。


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 第12回 人生いかにあるべきか、どう生きるべきか2009.8.7
<質問> 御意候現孔志

 孫子はどうしてこのような書物を書き残したのでしょうか。


<回答>
                         孫子塾塾長 佐野寿龍

 お尋ねの件につきましては、メニューの「バックナンバー」から「一問一答」・(2005.5.18)の項を御参照ください。

 ところで「御意候現孔志」は何と御読みするのでしょうか。浅学非才の管理人としては実に理解に苦しみます。古来、「名は体を現(あらわ)す」と謂われるがごとく、「名」は必ずある実体に対してつけられ、一つの約束事として世間で通用するものであります。

 その意味では、「名」は、実体に対して第二義的なものでありますから、どのようにつけようと自由でありますが、(たとえハンドルネームであろうとも)意味不明であっては名付ける意味がありません。

 思うに「御意候現孔志」さま御自身は、名によって表すことのできないほどの広大無辺の御方ゆえに、(名付けようが無いので)仮にこのように名乗られているものと推察致します。

 であるならば、ハンドルネームは、例えば「無名の名(名付けることのない名)」とでもされた方がその道の人には受けが良いと思います。譬えて謂えば、日本では天皇がいわゆる苗字を名乗らないのと同じ理屈です。万世一系の天皇ゆえに苗字をもって他家と区別する必要がないからです。

 それはさておき、前回「御意候現孔志」さまが記されている『孫子の兵法とは、主体的に構築して実行していくものなんでしょうか。それとも、後から対応していくものなんでしょうか』の観点は、孫子を体得し活用する意味では極めて重要なものであります。

 しかし、その真意がどこにあるのか、これだけでは判然としない部分もありますので、再度、この点について御説明を賜れば幸甚です。


<質問>その二

 「バックナンバー」の「一問一答」の紹介、ありがとうございました。今日はゆっくり家から眺めさせてもらってます。

 「御意候現孔志」は「ぎょいそうろうげんこうし」とそのまま読んでいただければです。これは私が高校時代に授業の一環で文化活動をする際に書道を学んでいまして、お皿に文字を書くということをしまして、そのおりに何を書こうかというときに、当時描いていた三国志の孔明像を親しんで慣れない手つきで記したものです。
この名が管理人さんを少々煩わせてしまい、もうしわけございません。

 なぜ今更そのようなときの文字を名にしたのか、経緯を考えますに、ただいま、彼の大学の卒業を無事終えるところで、恥ずかしながら、社会に出ることなく大学に留まることになり、そういった中で、大学生活を通して自分は結局何をしているのだろうと、自分とは何なんだろうと、あやふやになってしまった部分を遡り、もう一度自分に立ち戻ったところにあるのだと思います。

 さて本題ですが、大学において周囲の変化する価値観についていけずに、人の意識を言うものについて着目するに至りました。そういった価値観や人の行動の全てが意識によって作られているからなのだ、と実感を得たからです。

 私が意識という目に見えないものを見るようになった過程は様々な経験もあり、語るのも恥ずかしいがためにさて置き、私の専攻する分野は自然科学で、それは自然にあるものを対象とし、その本質を見定めるものだと認識しておりますが、認識をする以上、それをするのも人であれば、自然科学の本質でさえも、結局のところ、人の意識によってなされてしまうのではないか。

 つまるところ、私の研究対象とは人の意識、それももっと内訳すると己の意識にあるのではないか、まで返るわけです。その結論が出てからは、今まで自分の生きてきた人生にいろいろ追求すべきものがあったのだなぁという感慨です。

 私が考えている意識とは漠然とした意識ではありません。意識の運動性、もしくは存在分布などを加味した上で意識と一くくりでお話しています。意識は全てに繋がるではないか。こんなことを考えながら普段の仕事をしてたところで、ふと「兵法とは・・・」と思いつき、ネット検索でこのサイトに目が止まったわけです。

 見れば、私が考えていることをずっと以前から理論体系にまでしてそうな孫子という存在について関心がそそられたわけです。そういった経緯で、先の質問ではとくに意識の運動性について、自分の見解がどの程度のものなのか、見れば管理人さんは、孫子にご精通にあられるので垣間見させてもらいたいと思ったわけです。

 よく理解できておりませんが、読んだ感じでは、孫子の理論体験とは人の認識で文字や文を解読させる過程で生じる様々な意識についての収支、もしくはその幅が利いてるところに素晴らしさがあるのかな、と漠然とは覗えました。


<回答>その二

 お話しの趣旨は良く分りました。言われていることは、まさに「主体の確立」と言うことに他なりません。つまりは、自分が意欲し、自覚し、奮起し、「やる」ことなしに、いかなる理論・予測も現実化し得ないということであります。

 孫子は、その全篇において、用兵は結局は「人にあり」と強調しておりますが、つまりはそのことを曰うものです。この意欲された意識的な目的・行動こそ、人間がいわゆる自然と区別される所以(ゆえん)のものであります。

 そのためには、意識下・無意識下にある自己をいかに支配するか、いかに客観世界に反映させるかが重要なテーマとなります。まさにこの点こそ、古人の共通して求めてきたところであります。

 孫子はこのことを『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。』<第三篇 謀攻>と喝破しております。


<質問>その三

 まさに先生の仰る通りでございます。先生を見込みして再び聞いてほしいです。

 思えば、私の大学生活とは小学校の頃に戻ったのような感慨です。私の小学校生活といえば、家では兄弟喧嘩が絶えず、学校では宿題はしない、勉強はできない、運動もそこそこで音痴がめだち、言ってみれば光るものがないので友達も少なく冴えないものでした。

 学校の成績といえば、5段階評価で2がほとんどまで言うと、どれほどか想像できるかもしれません。されば、そのような、行程で中学校でも目立つことなかった…そのまま行けば、私が今彼の大学に在籍し卒業するまでに至らなかったでしょう。

 しかし、幸運にも中学のころに通いだした塾の先生のとてもよい指導の下、私は勉学に励むことを知り、この道まで辿る事ができました。彼は今、客観的に人生を辿っても恩師といえるべき存在であって、そのような恩師に出会えたことを感謝を止むことはありません。
 その恩師とは、三国志で言えば水鏡先生のような、知識と知恵と童心をくすぐるような、言葉にすると安くなってしましそうですが、そのように思っております。然らば、その後、彼の大学に入るまでの高校、予備校での勉学に励むこと、今は青春のように思ってます。

 そのように入った彼の大学は思ったところとは大分異なり、また恩師に継ぐような出会いもなく、ただただ無駄にふけていくばかり、挙句の果てに勉学から離れ、通信ゲームを永遠とやる始末。

 しかし、時は過ぎて圧せば私も歳をとり、これはいかんと無事卒業にまで辿りついたものの、私を看る世間(顧問の教授方や同輩)もしくは、親、等の言うこともご尤もなれど、未だに昔のような意気高揚とした意欲がでることもなく、今ある事態に、情けないことながら、自身をどう繋ぐか苦しんでいる始末になるわけです。

 問題は意欲、正しくこれに尽きると思います。先生のおっしゃる通りになります。私は小学校の泥濘を決して抜ける事ができませんでした。
 しかし恩師との出会いで意欲を得る事ができました。大学が小学校と同じというのはその泥沼加減を示しているが如くでありました。勢いが無くなって、再び私は自分の中にないものに気づきました。

 こういった中での認知的不協和が今の私の唯一の原動力なのです。しからば、社会に昇華するだけの何か機会があれば、と思い先生にも一緒に悩んでいただきたく返信とさせてもらいました。


<回答>その三

 貴方の立場から言えば、まさに現実問題として懊悩の渦中におられるのでありますが、私の観点からすれば、貴方は、いわゆる世間の大人と比べて実に「まともな」方とお見受けするのです。

 逆説的に言えば、貴方は悩むのが余りにも早過ぎたのです。なぜなならば、(一般的に)世間のいわゆる大人というものは、そもそも「人生いかにあるべきか」、はたまた「自分はどう生きるべき」などと真面目に考えたことすら無いのです。

 なぜそうなるのかの理由は敢てここでは申しません。はっきり言えることは、そのゆえに、これまで貴方の人生において、貴方の信頼に足る人、貴方の疑問に答えられる人が余りにも少なかったという事実です。まさにこれこそが、その証左なのです。

 その意味での、人間の質的レベルという観点から言えば、彼の小泉元首相も貴方も全く変わらないということです。否、むしろ、真摯に悩んでいるだけ、貴方の方がレベルが高いと言えます。

 多くの国民は、今そのことに直感的に気付き初めています。そのゆえに誰も国政を担うリーダーたる政治家や学校秀才たる高級官僚を尊敬しようとしません。そもそも、リーダーたる者は、質量ともに人の三倍、四倍の努力して初めてリーダーと言えるのです。

 そのリーダーたるの質的内容という意味において、どう見ても、自分と同レベルでは、もとより納得できないし、信頼のしようがなく、そのくせ地位や収入だけはやたらに高い、というのであればバカにするしか憂さの晴らしようがないと言うものです。

 貴方がここで述べられている世間の人を見る感覚は、まさにその縮図であり、雛形であるとも解せられます。

 それはさておき、然(しか)らば、いわゆる世間の大人は「人生いかにあるべきか」、はたまた「自分はどう生きるべきか」について死ぬまで全く考えないのかと言えば必ずしもそうとは限りません。

 そのような能天気な人々も、例えば、人生も後半に差し掛かり、責任ある指導的立場に立たねばならない四、五十歳代頃になると(彼の野村監督のごとく「生涯、一捕手」と言うわけにはいかないので)どうしても考えざるを得ないようです。

 とは言え、その意味では、余りにも付け焼刃的で修行不足の似非管理職が、単にその肩書きだけで直ちに部下の尊敬を獲られるか、と言えば甚(はなは)だ心許ないものがあります。もとより、その方向性は正しいのですが、(気付くのが)余りに遅きに失した感は否めません。その意味でも「御意候現孔志」さまは実に有利な立場に居られるということであります。

 因みに、戦前のエリートたるかつての旧制高校生たちは、弊衣破帽に身を包み、俗世間たる栄華の巷を低く見て、まさに貴方の悩まれている「人生いかにあるべきか」はたまた「自分はどう生きるべきか」を真剣に追究し、それなりの答えを見出して世間に出ていったのです(尤も、中には、人生不可解と嘆じて華厳の滝に身を投じた方もおられますが)。

 ともあれ、その意味では、彼らは名実ともにエリートであり、そのゆえに世間の人もそれを認め、敬意を払っていたのです。

 逆に言えば、現今のエリートたるいわゆるキャリアや政治家は(もとより例外はありますが)真の意味でのエリートでも指導者でもなく、単に地位・名誉・金銭欲に衝き動かされ、振り回され、しがみ付くしか能のない薄汚れたいわゆる餓鬼に過ぎません。

 とは言え、そのきっかけさえあれば、人は誰でも自らの死生について深く追究することはできます。否、むしろ、それを考え悩むのが正常な人間の姿なのです。

 例えば、いつでも切腹しなければならない境涯にあったかつてのサムライ達、(似非愛国者たる小泉元首相になぜか横恋慕されている)彼の特攻隊隊員達、はたまた死刑囚などは生ある限り、自己の生死について考えざるを得ません。


 それでは、なぜ世間のいわゆる大人たちは、「人生いかに生きるべきか」を真摯に追究しないのか。もとよりそれは、かつて「明日があるさ」などという歌謡曲が流行ったせいではありません。

 問題は「明日があるさ」などという全く根拠のない意味不明の言葉を、何の疑いもなく信じ(もとより死の意味は知識としては理解しているが、我が事として真に受け止めていない意)、思考停止のままひたすら酔生夢死の日々を送るだけの、(その意味ではおよそ万物の霊長とは言い難い)実にお粗末にして空疎な精神生活にあると言わざるを得ません。

 私が弊サイトで脳力開発を提唱する所以(ゆえん)であります。

 ともあれ、その意味では「御意候現孔志」は、実に人間としての資質・感度が高く、見所のある人物と結論付けられます。是非、そのように観点を変えて下さい。

 貴方が今、自信を喪失されているのは、世間の誤った価値基準で貴方を評価してるからに他なりません。本来、貴方の主体がキチンと確立されていれば、世間の評価など歯牙にも掛からないはずです。つまりは、限りある身の力を試さんとエネルギーを集中することに夢中で悩む暇など生じてこないのです。

 逆に言えば、貴方が主体を確立できないのは、そのための然るべき勉強をキチンとしていないという証左であります。それを学べば世間は虚仮(こけ)か、と言いたくなるほど世の中のことは手に取るように俯瞰できるのです。

 もとより、社会のシステム上、学校時代は偏差値優先が至上命題です。それはそれで良いのですが、いやしくも社会人たる者、もしくは貴方のように若くして人生の何たるかに目覚め始めた人は、それなりの勉強をキチンとすべきなのです。

 なぜならば、生きた社会や人間の問題を解決するには、いわゆる学校教育、もしくは偏差値優先教育は、余りにも無力だからです。

 生きた社会や人間の問題は固定したものではなく常に流動変化して止むことがありません。しかし、偏差値優先教育などで組み立てられた「知」のシステムではこの事実を直視しようとしない、もしくは、適切に対処できないという問題が生ずるのであります。

 このゆえに、我々が、この厳しい現実世界を直視して、より良く生きるための適切な判断・方向を獲得するためには、脳力開発で提唱する「脳力」をもって、偏差値優先教育などで組み立てられた「知」のシステムを厳しくチェックし、コントロールする必要があるのです。

 つまりは、適切に生きるための現実感覚をもって、我々の大脳を有効活用するということであります。その意味で、IQがあらゆる知能の基礎だと主張するIQ幻想を我々は早くかなぐり捨てるべきなのです。


 ともあれ、貴方がおかしいのではなく、貴方がまともであり、貴方が人間的なのです。

 ついでに言えば、当人を変える主体はあくまでも当人しかおりません。ロボットならいざ知らず、脳の中の脳細胞回路を自由に交換する訳には行かないのです。これがロボットならぬ人の世の鉄則です。当たり前のことですが、自分の脳細胞回路を変えるには自らが発奮して行動するしか無いのであります。

 徹底的に悩み苦しんでこそ人間は成長するのです。「艱難、汝を玉にす」とは、まさにそのことを言うものと解されます。


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 第11回 「戦略的思考力開発講座」のご案内2008.10.13
                         孫子塾塾長 佐野寿龍

(一)なぜ日本人は戦略思考ができないのか

 かつて日本には、リーダーの育成システムとして世界に冠たる武士道教育がありました。然しながら明治維新における身分制度の廃止により、武士階級のバックボーンたる武士道教育もまた廃れました。とは言え、その明治の時代は、武士道教育の余光によって領導され、とりわけ日清・日露の両役はその恩恵に預かるところ大であったと謂われております。

 その後、世代の交代とともに新たな指導者層として台頭してきたのが、ペーパーテストの優秀者たる学校秀才組です。この指導者選抜の方式は、何よりも機会均等にして公平であり、かつ効率的な側面が大であるため、まさに四民平等社会のシンボリックな存在として歓迎されたのです。

 とは言え、武士道教育で鍛えられたかつての武士階級の指導者と、単にペーパーテストにより選抜された新たな指導者層たる学校秀才組とを比べた場合、その資質や能力において歴然たる差があることは否めません。

 そのゆえにこそ、本来は、選抜された学校秀才組に対する武士道教育的な本物の指導者教育が行われるべきであったのですが、なぜかそのことは不問に付され、むしろ学校秀才、即ち頭の良い人間、真の指導者なりとの誤った常識が広まったのが実情です。

 この拭いがたい学歴信仰社会の悪弊により、日本の学校教育は、究極の人間教育たる武士道教育とはおよそ対極にある、いわゆる偏差値優先的な知識教育に偏向せざるを得なかったのです。かつての武士のごとく、いくら人に範たる立派な人間になっても、それではメシを喰っていけないというのがその情理です。

 つまりは『もとより人に範たる立派な人間づくりは必要である。しかしそれは、個々人が学校を卒業してからでも遅くは無い。それよりもまず良い学校に入ること、そして安定した職場に就職することが先決である』との考え方が暗黙の了解であったのです。

 問題は、それがその通りにキチンと履行されているか否かということですが、とかく「熱し易く冷め易く」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」性癖の日本人には極めて怪しいものがあると言わざるを得ません。
 いわゆる一流大学などを卒業すれば、自他ともにそれで人間そのものまでを一人前と評価する傾向が強く、そのゆえに仕事に忙殺されるがままに人間形成とは無縁の生活を送るパターンが多いようです。

 つまり、今日の日本人は、問題を解決する上で最も重要な役割を果たすべき総合的人間力は「既に完成されたものとして自己の内にある」と思い込んでいる節が濃厚なのであります。孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>の「己を知る」について全く無知な傾向が強いということです。


(二)実人生の世界を強く生き抜くための真の知恵とは何か

 人生は、好むと好まざるとに関わらず様々な問題解決の連続と言わざるを得ません。しかも、その問題たるや、学校教育におけるがごとく「答え」の用意されているものは殆どありません。そこで物を言うのは、いわゆる偏差値の高さではなく、玉石混交の事物の中から本質を見分け「だからどうするのか」という「答えを出す知恵」、言い換えれば、困難な状況に直面し、いかに適切な判断が下せるかという脳力であります。

 孫子に代表される兵法的思考(戦略思考)とはまさにそのことテーマにするものであり、自ずからそれは、人間的総合力の根幹たる意欲・情熱・勇気・胆力・決断力・統率力・創造力・革新力などの諸要素と密接不可分の関係にあります。この脳力をいかに磨くかが、人間らしくこの人世を生きるための本質であり中心点であります。

 孫子に代表される兵法的思考、およびその実践論的体系たる脳力開発は、まさに科学の領域外たる「人間いかに生きるべきか」とその側面たる「人生いかに戦うべきか」をテーマとし、哲学と異なり、具体的にどうすべきかの具体的方法を提示するものであります。

 また、宗教のごとく非論理的にただ教義を信ぜよと迫るものではなく、この方法を(通常の意識のもとで)具体的に実践すれば「よりよく生きることができる」「状況に向き合い適切な判断が下せる」と具体的かつ論理的にその理性に訴えるものであります。

 つまり、この方法は、行動を大前提とするものゆえに『やったもの勝ちであり、やれば成果は必ず上がる』と言うことです。もとより、やるかやらないかは当人しだいでありますが、本当に成果が上がるものか否かを実証するのもまた当人であります。ゆえにそれはすぐに確認することができるということです。要は、当人に「重い荷物を担ぐ勇気があるか無いか」ということだけであります。


(三)孫子兵法通学講座開講の目的

 いわゆる社会人を対象に孫子に代表される兵法思考(戦略思考)、およびその実践論的体系たる脳力開発を学ぶ場を提供するものであります。まさにこの分野こそ、今日の日本社会に決定的に欠けている最重要の問題であり、いやしくも社会人たる者、真摯にこれを追究することが求められております。当ゼミは、今日の大学におけるいわゆる社会人入学、もしくは、社会人大学院的な役割を果たすべく設立されたものです。


(四)通学講座の運営に関する基本的な考え方

 戦いの普遍的な原理を論ずる孫子兵法と、その実践論的体系たる脳力開発は、言わば基本ソフト的性格のものです。ゆえに、個別特殊的な個々人の環境条件でこれを具体的に活用して成果を上げるためには、当然のことながら、各種の言わば個別特殊的な応用ソフトを付け足して使うという考え方が必要です。

 逆に言えば、適切な応用ソフトの作成やさらなる展開は、基礎的な基本ソフトをきちんと学ぶことにより初めて可能になるという相互関係にあります。
 残念ながら、こと孫子兵法や脳力開発の活用に関してはどうもこのあたりの基本的認識が曖昧であり、混同されている向きが多いようです。目的と手段、もしくは戦略と戦術を区別し、混同しないことが肝要であります。

 ことの順序から言えば、何事もまず土台部分の整備(基本の充実)が先であり重要であります。よって、当ゼミでは、まず土台部分としての孫子兵法、その実践論的体系たる脳力開発をキチンと学ぶことを中心に据えております。つまり、あくまでも「基本ソフトは基本ソフトとして学ぶ」ということを趣旨とするものであり、個別特殊的な個々人の応用ソフトの作成を論ずるものではないということであります。

 具体的活用のための応用ソフトは、あくまでも個々人の属する環境条件に即して当事者たる個々人が個別具体的に創意工夫するのがセオリーであります。而して、適切な応用ソフトの作成やそのさらなる展開は、基礎的な基本ソフトをキチンと学ぶことにより初めて可能になるということであります。


(五)通学講座の内容等について

1、主宰者・講師

  孫子塾塾長 佐野寿龍

2、使用するテキスト

(1) サブテキスト

 T、孫子兵法(佐野寿龍校註・武岡淳彦監修)

 U、脳力開発入門((脳力開発センター)
 
 V、脳力開発指針集(脳力開発センター)

(2)メインテキスト

 T、初級クラスの場合は、オンライン通信講座〔基礎篇〕第一回から第十二回までのテ
キストを使用します。

 U、中級クラスの場合は、オンライン通信講座〔応用篇〕第一回から第十二回までのテキストを使用します。

 V、上級クラスの場合は、オンライン通信講座〔総括篇〕第一回から第十二回までのテキストを使用します。


3、通学講座開催の日時・時間・会場など

(1)少人数・双方向的教育のいわゆるゼミ形式で行います。

(2)各クラスとも期間六ヶ月、月二回の開講、隔週の土曜日(09:00〜12:00)

(3)会場

 日本空手武道会 拓心観道場 埼玉県川口市東川口 2-15-5
                      TEL:048-294-3489
  ※ 案内図は、http://kodenkarate.jp/ 「道場案内」のページを御参照ください。

(4)募集人数

 T、8人前後と致します。内容の詳細はメールにてお問合せください。

 U、現段階では、随時参加の形をとっております。状況に応じてクラス分け致します。


(5)受講料

 月二回の開催で月額六千円。期間は六ヶ月。合計:¥36,000


(六)受講終了後の資格認定などについて

 ゼミの所定のカリキュラムを終了され、終了試験に合格された方には、まず「脳力開発インストラクター」、次に「孫子兵法師範」の資格を認定いたします。資格を認定された方は、孫子塾の所定の規約に従い、孫子塾公認の講座を開催することなどが可能となります。


(七)併設する拓心観道場における「古伝空手」及び「琉球古武術」の稽古参加について

 可能な方には、上記の通学講座と併せて(孫子の兵法的思想が具現化されている)いわゆる武術としての「古伝空手」と「琉球古武術」を学ぶことをお勧め致します。兵法の修得という意味においては、古武術たる古伝空手・琉球古武術を学ぶことが簡明直截にして極めて有効な方法だからであります。


※【孫子正解】シリーズ・第1回出版のご案内

 このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として 【孫子正解】シリーズ・第1回「孫子兵法の学び方」という書名で電子書籍を出版いたしました。ご購入は下記のサイトできます。

      http://amzn.to/13kpNqM


※お知らせ

 孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、次の講座を用意しております。

◆孫子オンライン通信講座
  http://sonshi.jp/sub10.html
 
○メルマガ孫子塾通信(無料)購読のご案内
  http://heiho.sakura.ne.jp/easymailing/easymailing.cgi


※ご案内

 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

  http://kodenkarate.jp/annai.html
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