孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
近頃、当サイトの記事が他サイトで引用される例が少なからず散見されます。もとより、引用されるということはそれなりの評価を頂いているという証左であり、その意味では喜ばしい限りです。
しかし、中にはクレジットも入れずに、(他人の書いたものを)さも自分が書いたような顔をしてそっくりそのまま引用(盗用)しているサイトもあります。
このような行為は、インターネットのマナー上、もとより許されざるべき所業でありますが、それ以前に、一個の人間として、社会人として最も恥ずべき行為であることを真摯に認識し自省すべきであります。
さて、徒然なるままにネットサーフィンをしていると「拙速の背景」と題したブログ(以下、Aブログと言う)を目にしました。当サイトを引用しているということ以外には特にどうということもない内容ですが、孫子を学ぶ上で重要なヒントと思われる箇所がありましたので、次のごとくに整理して見ました。
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<拙速の背景>
ゆっくり丁寧よりは雑に素早く。
この頃、改めてその大切さ、見極めるタイミング、そして決断するタイミングについて考えていた。
孫子の言葉で「拙速」という言葉をつかった有名なものがあったと思い調べてみると、その裏にある背景が書かれていた。
----------(ここから下記の点線までが当サイトの引用文)
故兵聞拙速。未睹巧之久也。 -兵は拙速を聞く。未だ巧久を見ざるなり。
孫子の曰う「拙」は、政治の手段としての戦争の目的である(得るべき)勝利の達成度合いの意です。また「速」とは、その戦争を手段とする政治目的の達成の速やかさを意味しています。
『拙速』の背景には以下のような孫子の戦争哲学が流れています。
即ち、戦争は不祥の器であり、凶器である。たとえ止むを得ざる事情により開戦したものといえども、長引くことにより、国力を疲弊させ、国を滅亡させたのでは元も子もない。 ゆえに、戦争によって得るべきものがたとえ不十分(これが拙の意味)であったとしても、本来の政治目的が達成できていれば、それ以上の欲をかかず、速やかに戦争を終結させること(これが速の意味)が賢明である。とりわけ、戦争というものは、あたかも燎原の火の如き性質を持つものゆえに勝利に酔い痴れて調子に乗り欲望の赴くままに振る舞っていると最後はみずからをも焼き尽くしてしまうものである、と。
つまり『拙速』とは、老子の曰う「足るを知る」あるいは「止(とど)まる知れば殆うからず」と同意と解されます。
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(以下は「Aブログ」の管理人と訪問者のやり取りです)
---------- ちわ、いつも「○○さんらしさ」に感心しています。視点が特にラシイと思う。 本来の目的が達成できていれば…、のくだりが、そうやなぁと思うよ。でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね。面白かったので少し調べてみると、当時の中国の置かれる状況もわかって面白かった。要は一国を相手にしすぎると、(疲弊して)他の群雄に足元をすくわれる恐れがあるとのこと。う〜ん、深い…。
---------- おっコメントありがとうございます(^^。 上記の注釈は他のHPから拝借したのですけどね(^^;。
でも△△さんがいわれている通りで、「本来の目的が達成できれば手段は…」というのは僕の中で常に拘っていたいところです。自分のCapabilityがその手段に届かなくともその手段が最善であるならば、他の力を借りてその手段を選択し得るCapabilityを満たせばいいなど。
なぜこだわるかというと、それが出来ていないからなのですけどね(^^;。情けないですね。
孫子、簡単な本を一冊読んだのですが、深いというか、本質的というか。真理はいたってシンプルで合理的であると思います。(戦争がいたるところで起こっているその時代でシンプルな考えを貫けたことは素晴らしいことだと思いますが)
最近特に色々と俗に言う「人間関係」を考えることが増えてきているので、その中でも頭はシンプルに、心で柔軟に、目的に対してアプローチしていけるよう頑張りたいですね(^^)
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上記の記事にある、『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の箇所は、孫子を学ぶ上で重要なヒントを提示するものと考えます。一見すると何の変哲もない言葉でありますが、以下に述べる理由によりその意味は非常に深いものがあると言わざるを得ません。
(一)孫子の言葉は本当に理解されているのか?
例えば『拙速』<第二篇 作戦>は、一般に、手段の「巧拙」及びその「スピード」の意と解され、「やり方・手段が多少拙劣であっても、速戦即決、速勝に出た方が、手段の万全を期してことを長引かせるよりも有利である」などと実(まこと)しやかに謂われております。上記「Aブログ」の冒頭にある「ゆっくり丁寧よりは雑に素早く」まさにその意味と解されます。
が、しかし、古来、政戦略の深遠な哲理を説いて世に名高い孫子が、そもそも、現場の指揮官が臨機応変・状況即応して判断すべきがごとき、手段の「巧拙」及びその「スピード」についてわざわざ兵書に書き残すようなことをするであろうか、という素朴な疑問を抱かざるを得ません。通常の知性をもってすれば、そのようなことは一々書き残すに値する内容ではない、と言わざるを得ません。
<第二篇 作戦>の『拙速』に関する項を通観すれば自ずから明らかなように、首尾一貫して政戦略レベルの内容を論じているのであって、いわゆる作戦や戦闘レベルの内容を論じているものではありません。
そのゆえに、孫子の曰う『拙速』とは、(巷間、謂われている内容と異なり)まさに上記「Aブログ」に引用されている私の論のごとくに解するのが適当と言わざるを得ません。
念のために言えば、『拙速』とは、政治の一手段たる戦争において、『戦いて勝ち攻めて得た』<第十二篇 火攻>一定の軍事的成果に対して、そこに追加される(もしくは追加すべきか否かの)利害・得失・費用対効果の大小を考えるという思考法です。
その意味で、「Aブログ」の管理人が言う「自分のCapability(能力)がその手段に届かなくともその手段が最善であるならば…」は、『拙速』の解釈としては適当ではないと言うことです。
『拙速』の「拙」の意味は、Capability(能力)が無いから達成できないのではなく、Capability(能力)はもとよりあるが、その行為を追加するのが適当か否かの判断力を問うものなのです。
譬えて言えば、寓話「兎と亀の競争」において、兎はゴールに先着するCapability(能力)もあれば、余裕を決め込んで昼寝をするCapability(能力)もあるということなのです。勝負という見地から、いずれを選択するのが得策かという判断力を問うのが孫子の曰う、『拙速』<第二篇 作戦>の真意であります。
「兎」の場合は、油断によって昼寝を決断し、負けるはずの無い「亀」に敗れたということです。「こんな話しは有り得ねー。俺に限ってそんな馬鹿なことは絶対やらない」と言う人は、未だ、人間の何たるかが良く分かっていない人と言わざるを得ません。現実の世界では、「兎」のごとくに決断して敗れ去る事例に事欠かないのです。
例えば、このような点を明確に押さえるか否かが、孫子を学ぶ上での重要な分岐点となります。分かっているようで実は分かっていない、いわゆる「一知半解」では現実変革の書たる孫子は体得できないということです。
その意味で、この『拙速』は、こと軍事に限らず、ものごとに普遍的に適用される原理原則であり、そのゆえにこそ、「兵書」孫子にわざわざ記されていると解すべきなのです。
(二)孫子を活用するためには、(当然のことながら)まず孫子の意味を知る必要がある
重要なことは、(上記のごとく)孫子に関する謂わば「隔靴掻痒(かっかそうよう・靴を隔てて痒いところを掻く意)」的なピント外れの解釈が世に横行してるというのが現実である以上、孫子は本当に理解されているのか、との疑念を抱かざるを得ないのです。
ことは『拙速』ひとりに限らず、例えば、『敵を殺す者は怒りなり。』<第二篇 作戦>、いわゆる『風林火山』や『迂直の計』<第七篇 軍争>、はたまた『将の五危』<第八篇 九変>などたちどころにその例を挙げることができます。
孫子の言葉の本当の意味を知らなければ、論理必然的に、これを活用することはできないのが道理というものです。
数多(あまた)の人々が孫子に関心を示し、その活用を模索するのでありますが、結局は、中途半端な形で投げ出さざるを得ない第一の理由は、まさにここにあると考えます。
(三)孫子の意味が分かるだけでは不十分、孫子十三篇の体系を知る必要がある
一般的に、論語など中国古典と称されるものは、その開祖とされる人物が一人で書き上げたものではなく、後世のその学派に属する人々が長い年月を掛けて加筆した、言わば合作の所産と謂われております。今日に伝わる仏教の膨大な経典などとまさにその典型例であります。
同じ中国古典でも、孫子の場合は孫武という一人の人物が書き上げたものであり、そのゆえに、孫子十三篇には「戦争と国家との関係」に対する簡潔な理論的考察と、いかに対処すべきかの思想が体系(システム)として論じられております。
従って、孫子を活用するということは、あたかも六法全書を自在に繰るがごとく、各篇の内容を正確に知ることはもとよりのこと、孫子十三篇全体の体系的理解が不可欠な要素となります。この両面が一体となって初めて孫子の活用が自在に行われるということになります。
孫子は、戦争(つまり戦いという事象)と国家との問題について、その本質を洞察し、実に簡潔に整理し纏(まと)めているものゆえに、これを、例えば「戦いと組織の関係」「戦いと個人の関係」などに極めて容易に置き換えることが可能なのです。孫子が今日もなお、世界で読み継がれている所以(ゆえん)であります。
(四)孫子の意味と体系を知るだけでは不十分、活用するための思考法(情勢判断力や大局眼など)が必要である
(孫子の原理を何に適用するかはともかくとして)例えば『拙速』の場合で言えば、次のように考えられます。即ち、孫子の曰う言葉の真意は良く分かった。が、しかし、これを現実の場に適用した場合、既に獲得している一定の成果に対して、(その利害・得失・費用対効果の大小を考え)さらなる追加的行動に出るか否かの見極めをどうするか、という問題が浮上します。
まさにそのことを言うものが先に挙げた『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の言葉であります。ここが適切に理解されていないと、まさに「生兵法は大怪我の基(なまびょうほうは大けがのもと)」はたまた「孫子読みの孫子知らず」となり兼ねません。
一般的に言えば、「そのためこそ実践を繰り返し経験を積むのだ」との声が聞こえてきそうですが、ただ闇雲(やみくも)に行動すれば良いという問題ではなく、もとより理論だけでも不可であります。そのためには先ず、いわゆる「理論と実践」の関係を的確に理解する必要があるのです。
角度を変えて言えば、この「理論と実践」の問題には、例えば、物事の全体(大局)をどう見るか、あるいは普遍を知り特殊を知るという思考力、その意味での情勢判断力などの要素がその背景にあるということです。
つまり、孫子を活用するということは(孫子の表面的な文言ではなく)その背後にある普遍的思想を活用するということですから、活用するところの現実世界の仕組み・有り様を理解するための思考法を知る必要があると言うことです。
ある意味では、この思考法を知ることが孫子を学ぶ上において最も重要な要素とも言えます。つまり、上記の『でも、その見極めってどうすりゃいいのだろうね』の言はまさにこの問題を提示しているということなのです。
残念なことに、「Aブログ」の場合は、着想は良いのですが、その問題を追究し理論を実践しようとしていないため単なる「無駄話し」で終わっているということです。
然らば、その思考法とは何かと言えば、例えば、易経に代表される中国的な弁証法的思考、その流れを汲む毛沢東の「矛盾論・実践論」的思考、その毛沢東思想を踏まえ、これを日本人向けにアレンジした脳力開発的思考、あるいはまた、西洋における弁証法的思考などが挙げられます。
逆に言えば、孫子兵法はまさに中国的な弁証法的思考がその根幹に流れているということであります。彼の毛沢東が中国を統一したのはまさにこの弁証法的思考を根底に据えて、孫子を適切に活用したということであります。
(五)孫子を学ぶ者が、最も戒め、強く忌避しなければならない勉強法
上記の「Aブログ」とは別のサイトに次のような記事を見つけました。
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いにしえの兵法書を現代の問題に活用した例を教えてほしいです。何か問題が生じた時,「ある兵法書を用いて行動したため,問題を解決できた」というストーリーが希望です。ビジネスの問題だけでなく,どんな些細な問題でも兵法書を用いているならOKですが,必ず「用いた兵法書の名前」と「教えの言葉」を明記しているものをお願いします。
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上記のやり方は、巷間、孫子の勉強法もしくは活用法と称して、最も多く観察される典型例であります。一見、いかにも尤もらしく耳障り良く聞こえますが、実は、このようなやり方は、角度を変えて言えば、単なる呪文願望に過ぎず、孫子という呪文を唱えればそれで目的が達成されると信じているがごときものであります。
もとより呪文には力はありませんからそのようなやり方はまさに無意味であり、「百害あって一利なし」の無駄話し、与太話しの類と知るべきであります。
そもそも孫子は極めて現実的な現状変革の書でありますから、それを学ぶのに、あたかもオカルトや風水・方位・タロット占いの類と同じ次元で考えようとすること自体が矛盾の極みと自覚することが肝要であります。
単に呪文を唱えるに過ぎない最も安易かつ「人頼り」のやり方で孫子が体得され活用できるのなら、誰も苦労しないということです。しかし、世の中には、このような無知蒙昧な言があたかも真理のごとく大手を振っているのもまた事実と言わざるを得ません。
一般的に、日本人は、分かってもいないのに分かった振りをするのが得意な民族と謂われております。しかし、孫子の活用は他人のためではなく、まさに自分のためのはずです。分かった振りをしているツケは他人ならぬ自分に跳ね返ってくるということであります。
そんな当たり前の理屈が分かっていながら、なお、分かった振りが止められないのは、まさに『不精の至りなり。』<第九篇 行軍>であり、自分に対する『不仁の至りなり。』<第十三篇 用間>と言わざるを得ません。日本人の知性・思考力とは一体何なのか、考えさせられる問題であります。
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