孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
日本では、以前から孫子兵法をビジネスや企業管理に結びつけて応用しようとする潮流があり、それなりに根強い人気を得てその金言名句は人口に膾炙(かいしゃ)されているが、今や、孫子兵法の本家たる中国においても企業経営者やビジネスマンの間でそのような機運が盛り上がり、大きなブームを呼んでいるそうである。
そうした孫子の人気を背景に、需要と供給の関係と言うべきか、利に聡(さと)い漢民族の習性と言うべきか、ついに江蘇省蘇州市において実業家向けに「孫子兵法院」が開設されるということである。因みに「院」は、ここでは学校の意である。
朝日新聞(平成18年12月29日付け)は、「孫子を知れば経営必勝?」と題して次のように伝えている。
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中国古代の兵法書「孫子の兵法」を専門的に教える「孫子兵法院」が平成19年5月、中国沿海部の江蘇省蘇州市に新設される。
ターゲットは企業経営者やビジネスマン。中国では兵法をビジネスや企業管理と結びつけるのがブームで、競争社会を生き抜こうと企業トップらの間でも伝統思想を見直す動きが強まっている。
蘇州市と中国孫子兵法研究会(北京市)が共同で開設。現地で準備を進める蘇州市孫武子研究会によると、国内外から受講者を募集し、大学教授や軍事専門家らが思想やビジネスへの応用について講義する。孫子をビジネスに結びつけて専門に教える拠点は中国では初めてという。
蘇州周辺は中国で最も経済発展が進んでいる地域の一つで、とくに企業トップ向けに企業管理や経営理念、経営戦略を重点に置く。日本から専門家を招き、講義してもらうことも計画中という。
蘇州は春秋時代の兵法家、孫武が「孫子」を書き上げたとされる由緒ある土地。孫子には「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」など有名な表現が多く、現代の実務にも応用できるとして人気がある。
孫武子研究会の管正・常務副会長は「兵法の知恵を導入することで企業管理など実務の向上を狙う。実践を中心に指導する」と話す。
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管理人は常々、孫子は単なる兵法書を超えた人生万般に通ずる「戦いの思想・理論」であると考えているものゆえに、兵書孫子の発祥の地たる江蘇省蘇州市において「孫子兵法院」が設立されることは実に喜ばしい限りである。
「発祥の地」「伝統の見直し」という意味で言えば、昨今、中国では伝統武術の少林功夫(カンフー)が注目され、若者達の間で大人気だそうである。その発祥の地、河南省・少林寺の山門前には功夫(カンフー)を教える武術学校が84校も林立し、約五万人の学生が武術を学んでいるそうである。
上記した「孫子兵法院」が、少林功夫(カンフー)の発祥地たる少林寺と同じく「門前、市を成す」がごとき活況を呈するのかどうか、今後注目するところであるが、その反面、管理人には「孫子をビジネスに応用するというその方法論」に関し、常々、一抹の疑念を抱いている。
(中国のことはいざ知らず)とりわけ、日本におけるその現状を鑑(かんが)みるに、「孫子の活用とはかく在るべし云々」などとそのキャッチコピーだけは実に見事であるが、肝心の中味はと言えば、まさに羊頭狗肉のごときもので、果たしてこのような方法で孫子を現実に活用できるのかと、甚だ疑問を抱かざるものが多いのである。
そもそも「戦い」という概念は、主体(人)を離れては考えることができず、人が生きるということは即ち戦いであると言わざるを得ない。そのゆえに、孫子の活用と銘打つ以上は、孫子の思想・理論が直ちに主体者たる各自の人生観に連なり、実践に結び付けられるものでなければ意味がない。
たとえば、巷の孫子本で散見される(孫子を活用しようとする個別特殊的存在たる主体者とは本来何の関係もない)第三者の活用事例、もしくは客観的立場に止まっての解説、はたまた、兵法書という狭い範囲に限定され、ただ軍事だけを論ずるケーススダディーなどをいくら提示されても(ことの順序としては)適当ではないのである。
言い換えれば、孫子を学び体得するためには、次のごときの一定の手順があることを知ることである。
(一) まず、個々の各篇は独立しつつも、十三篇全体をもって一つの「戦いの思想・理論」として構成される孫子の体系を知り、これを学ぶこと。
(二) 次に、その思想・理論が基底となり、背景となって展開される実践的理論体系(九変の術として表現される言わば将の脳力開発)があることを知り、これを実践すること。
(三) 上記の実践と合わせて、それを自己の骨肉と化すために、(でき得れば)孫子の思想が具現化されたものとしての、いわゆる武術ないしは古武術を稽古すること。理想を言えば、琉球古武術など中国の武術的思想の影響を受けたものが最適である。たとえば、琉球古武術における棍(棒)の用法などまさに孫子の曰う『常山の蛇』<第十一篇>そのもの具現化と言っても過言ではない。あるいはまた、捌きの用法によって『不敗の地』<第四篇 形>とは何かなどのイメージを具体的に得ることができるのである。ただし、現代におけるいわゆる武道スポーツは(その意味での)武術ではないので注意を要する。
もし、武術ないしは古武術に触れる機会がないようであれば、極力、武術的思想とは何かを学ぶことが望ましい。その意味では、上記した(二)の実践的理論体系たる脳力開発は、つまるところ、日々の生活において「自己との対決」を否応無く迫られざるを得ないものゆえに、これと真摯に向き合い、絶えず脳力の向上に務めて行けば、必ずしも武術ないしは古武術に触れずともその目的は十分に達成することができる。
(四) 以上の点をまず優先的に実践し、而る後に余力があれば、あくまでも参考として第三者の活用事例、客観的立場に立っての解説、軍事だけを論ずるケーススダディーなどを学ぶこと。 その意味で、一般的に謂われている孫子の活用のための方法論とは、まさに順逆が転倒していると言わざるを得ない。
とりわけ最も肝心なことは、人生万般に通ずる孫子の「戦いの思想・理論・体系」とは何かをキチンと理解することである。根本が据わっていなければ所詮(しょせん)は付け焼刃で終ってしまうものなのである。一つの思想・理論を知るとは、たとえば、次ののごとくに考えることができる。
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出家以前のブッダは釈迦族の王子としてまさに王侯貴族の生活を極め、満ち足りた人生を謳歌していたわけであるが、ふと気がついて、よくよく思索してみると、実は、老・病・死という人間の有限性・儚(はかな)さを重々しく担い込んだ哀れな生活であった。
そのことに気がついた途端に、有していた若さも健康も富みも名誉も地位も一遍に消し飛んでしまい、身震いするばかりの不安(苦)を感じたのである。まさにブッダは「幸福なる豚」ではなく、「悩めるソクラテス」となったのである。
この不安(苦)に正面から対決すべく全てを棄てて出家した仏陀は、彼の菩提樹の下で、「存在するものはすべて然るべき条件により生起し、消滅する(縁起)」「永久なるもの、不変なるものは存在しない(無常)」「無常なるものは苦なり」と開悟したのである。
言い換えれば、苦は条件ありて生じたるものゆえに、その条件を取り除くことによって、それを克服できるということである。そのゆえに、為すべきことは何か、と言えば、まず、苦を成立せしめている条件を知ることであり、ついでその条件を取り除くための実践ということになる。
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言わばこれが、ブッダの説くところの思想・理論の体系であり、それを基礎に据えての実践論的体系の本質である。言いたいことは、何であれ、一つの思想(哲学)を理解し活用するということは、表面的ではなく、深いところからその思想を考察する必要があるということである。
それがあって初めて、個別特殊的な存在たる個々人が、現実の個別特殊的な修羅場に際会しても、臨機応変・状況即応して個別特殊的な処置がとれるのである。その対象とする分野こそ異なれ、孫子の場合もまさに同じように考えて然るべきものである。
つまり、孫子を真に活用するためには、まず孫子の「戦いの思想・理論」の体系を知ることであり、次に、それが基底となり、背景となって展開される実践的理論体系を知ることである。
この立場に立って初めて、「兵」、即ち「戦い」を論ずる孫子の兵法は、単なる兵法書・もしくは軍事だけの書という狭い範疇を超えて、人生万般に通ずる「戦いの思想・理論」として主体にうちあてられ、認得されるのである。
以上の観点を踏まえて、巷の孫子本が提示するところの孫子活用のための方法論を分析すれば、概ね、次のごとくに分類される。
1、漢文学習的に孫子の概観を表面的に解説するもの。
このタイプは、漢字だけで書かれた外国語たる孫子の原文(六千余文字)、および直訳的に日本語化されたいわゆる読み下し文とで構成され、孫子の言を漢文解釈的立場から解説するものである。
その訳するところの読み下し文は確かに名文・美文の名に価するものであり、孫子を学ぼうとする初心者が、その大要を知る上においては極めて有意義なものである。が、しかし、それはただそれだけのことである。
何となれば、例えば、二百七十余文字の漢字で書かれた「般若心経」の言葉の意味をいくら名文・美文の日本語に訳したからといってそれで般若心経の真髄を理解したということにはならないからである。
仏教のエッセンスと謂われる般若心経の説く哲理の深遠さは、例えば、「色即是空、空即是色」の「空」の一文字を論じても万巻の書物が著されるがごときものであるから、両者の違いは論ずるも愚かなことである。
要するに、孫子はもとより漢文であるから、その外国語を正確に理解することは極めて重要であるが、だからといってそれが直ちに孫子の活用に結び付くいう類のものではないのである。
然りながら、「ものごとを深く考えることを好まず」、「一を聞いて、(十を知るのではなく)十を知った積もりになる」のが得意の日本人にとって、この手の書物がとりわけ好まれるようであり、書店では良く売れているようである。
2、孫子の原文は除外し、読み下し文の全文を一応掲載するが、その中心はあくまでも断章取義的にその名言名句をピックアップすることにあり、それに該当するような事例を機械的に当て嵌めて解説するのもの。
このタイプの事例は中国古典から多く引用されている。(孫子もそうであるが)いわゆる漢文の大きな特徴は、簡潔すぎるくらい簡潔で省略が非常に多く、言わばメモに近いような文体をとることにある。
そのゆえかどうか、この手の事例は、どうしても取って付けたような物言い、もしくはマニュアル的なニュアンスが強く、「生身の人間はその故事にあるがごとく、あるいはゲームのごときものと異なり、そんなに簡単に思い通りには動かないのでは…」と嫌味の一つも言いたくなるようなパターンが多い。
言い換えれば、漢文の特徴たる言わばメモ文体を直訳しているに過ぎないため、戦いに関する思想・理論を語るには明らかに説明不足であり、深い洞察の書たる孫子を論じている割りには実に薄っぺら印象を否めない。しかし、上記した理由によりこの手の本も好まれるようである。
上記の1、2のタイプは言わば文人たる漢学者の手になるものが多いようである。
3、読み下し文は「お飾り」として掲載され、その論述の中心は当人が専門としてきた、例えば軍事・ビジネスなどの知識や薀蓄(うんちく)・経験や体験などを披瀝することにあり、その権威付けのために断章取義的に孫子の言を利用するもの。
このタイプのものは、そもそも、孫子の思想・理論を体系的に述べるものではないため、体裁こそ孫子の解説と銘打ってはいるが、必ずしも孫子である必要はなく、例えば、軍事ならばナポレオンでもクラウゼウィッツでも武田信玄でも織田信長でも誰でも良いわけである。言い換えれば、自己の論述に箔を付けるために単に孫子の名を利用しているに過ぎないのである。
極論すれば、あくまでもそれは、例えば兵法書・軍事・ビジネスなどという一定の範疇に止まるものであり、そこを超えて人生万般に通ずる「戦いの思想・理論」としての孫子を論ずるものではないからである。
4、孫子のいわゆる金言・名句のみをピックアップし、まさに断章取義的に適当な事例を中心として解説するもの。
このタイプのものは、基本的には前記、3と同じであるが、異なるのは前記のごとく余計なカモフラージュなどの小細工を弄せず、正直に古典解釈の便法たる断章取義を前面に打ち出したところにある。しかし、そのゆえに深遠なる戦いの思想・哲学としての孫子の体系は益々遠くに追いやられ、後には、薄っぺらなハウツウもの、あるいは単なるマニュアル本が残されるだけ、という図式になる。
上記の3、4のタイプには言わば武人たる軍事専門家、もしくは様々な分野の実務家の手になる者が多いようである。
5、孫子を戦いの思想・理論の書と解して、その角度から論じている本も無いことはない。が、しかし、その体系的分析と把握、また兵法書という範疇からの脱却という側面においては不十分な感が否めない。この手の書物は、数多(あまた)の孫子本が混交する中、それなりの洞察力がなければその真贋を見分けることは難しい。
以上を総括すれば、孫子の原文は、漢文の特徴たる言わばメモ文体であるため、これを解説しようとすれば、上記の1のタイプではもとより足りず、その欠点を補わんとするものが2のタイプ、それでは未だ足りないするものが3のタイプ、それでも未だ不十分とするものが4のタイプという図式になる。
いずれにせよ、この四者に共通する点は以下の通りである。
(1)孫子を表面的・一面的・部分的に解説するものであり、孫子を本質的・全面的・体系的に理解するためのテキストとしては適当ではない。
(2)その特徴は、例えば兵法書・軍事・ビジネスなどという狭い範囲に限定され、そこを超えて人生万般に通ずる「戦いの思想・理論」としての孫子を論ずるものではない。
(3)いわゆる「現行孫子」と「竹簡孫子」との本質的違いがよく分かっていない。
(4)あまりにも第三者的、もしくは客観的立場に止まっての解説が多く、肝心の主体性の問題、つまり実践的な体系を論ずるものが少ない。そもそも、戦いという概念は、主体を離れては考えることができない。そのゆえに、戦いに関する普遍的真理たる孫子の思想・理論を、個別特殊的存在たる個々人が実践するためにはどうするかがポイントとなる。が、しかし、そこの視点が欠落しているのである。
このゆえに、日本における孫子の活用と称される方法論の実態は、かなり的外れにして怪しきものと断ぜざるを得ない。願わくば、本年5月に設立されるという江蘇省蘇州市の「孫子兵法院」なるものが、かくのごとき日本の弊風を踏襲せねば良いが思う次第である。
その点、(もとより我田引水の謗りは免れないが)当塾の孫子兵法講座は、いわゆる現行孫子と竹簡孫子双方の異同を校勘し、言わば月の裏と表から孫子の全体像を考察し、その思想・理論体系の全貌を明らかにし、かつ、故城野宏先生の提唱された脳力開発的視点から孫子の実践論的体系を提供するものである。
そのゆえに、前記した「孫子兵法院」の教授内容がいかなるものか定かではないが、(孫子の活用という側面においては)当塾の提供する孫子兵法講座はそれに勝るとも劣らないなものであることは確信をもって断言できる。
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