孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
9.11の国民投票的総選挙もいよいよ残すところ2日となりました。各党、終盤の追い込み演説に東奔西走して声を限りに絶叫し、そのボルテージは益々上がる一方です。
この選挙戦に文字通りの意味で水を差したのが6日、西日本各地に多大の風水害(死者・行方不明者27人)をもたらした台風14号の動きであります。この間、マスメディアの関心はもっばら台風報道一色に染められ、連日の選挙報道もまさに片隅に追いやられた感があります。
ときおりしも、この台風被害の報道と重ね合わせるように伝えられたのが大型ハリケーンに直撃されたアメリカ南部ニューオーリンズの悲惨な被害の詳報であります。犠牲者は数千人から一万人とも言われ、失政を重ねた末の「人災」との批判も多く出されております。
自然災害の生々しい爪跡、絶望感・無力感に打ちひしがれ塗炭の苦しみに喘ぐ被災者の姿が大写しにされるとき、政府とは何か、政治とは何か、国民の幸せとは何か、指導者はどうあるべきかなどに思いを致さざるを得ません。
ともあれ、この自然災害の言わば「水入り」を契機として、小泉首相の人を食ったような「郵政民営化」一本槍の盲(めくら)まし的選挙戦略に思考停止されていた有権者もようやくその呪縛から解き放たれ、日本や日本国民の将来、指導者のあり方とは何かという本来の問題に冷静な判断の目が向け始めたことは確かであります。
余談ながら台風14号は、貯水率がほぼゼロとなっていた四国一の水がめ、早明浦ダム(高知県)の貯水率をわずか一日で一気に100%まで回復させるという恵みの雨ももたらしていますが、それと同じくこの「水入り」的報道の冷却期間が各党の思惑にどのような影響をもたらすのか興味のあるところであります。
ここでは(小泉首相がせっかく国民投票と言ってくれているのでありますから)有権者、とりわけ無党派層はこぞって投票所に足を運び、この四年間、何一つ改革してこなかった小泉政治に対しはっきりと意思表示すべきであるというコンセプトのもと、そのための判断材料をいくつか提示してみました。
孫子の曰う『廟算』<第一篇 計>とは、裏を返せば客観的事実をまず在りのままに知るということが前提になっています。その意味では中味は空っぽの「郵政民営化」などいうバラ色の将来の話よりも、彼のこれまでの言動と行動、その性格が一国の指導者として適当であるか否かを冷静に考える必要があります。
そもそも第二院としての参議院は、いわゆる良識の府として存在し国民によって選ばれた各分野の専門家たる議員によって構成されています。その良識の府の判断として郵政民営化法案が否決されたからといって、(自らの指導力不足を棚に上げ)それは民意ではない、その是非を直接国民に問いたい、といって始まったのが今回の衆議院の解散総選挙であります。
小泉首相のこの発言は一見、いかにも主権者たる国民のプライドをくすぐり耳に心地よく響きますが、実は、これほど国民をバカにした仰天発言は前代未聞ということになります。社会を支えているものは曲がりなりにも論理です。権力者ゆえにその論理を無視してやりたい放題のことをやっていいと言うのであれば、それはもはや独裁者の出現であり民主主義社会の崩壊を意味します。
かつて小泉首相は自衛隊のイラク派兵に世論の大勢が反対だったにも拘わらず「世論は全て正しいとは限らない」と強弁して国会の賛成多数で可決し、「これこそが民主主義の基本だ」などとうそぶいていたのは記憶に新しいところです。
その舌の根も乾かぬうちに今度は平然と「郵政民営化、是か非か、ぜひ国民の声を聞きたい、民意を問いたい」などと駄々っ子の如き甘えた声で媚(こび)ているのです。前言を翻すことをしないのが信条という小泉首相でありますが、これではまさに厚顔無恥の二枚舌、三枚舌の輩と言わざるを得ません。世の中のことは一事が万事、掛け声だけで中味が空っぽのパフォーマンス的構造改革も宜(むべ)なるかなであります。
次に問題は、参議院議員の専門家としての知識能力と国民一人一人のそれを同列同格に扱っているということです。国民は専門家としての知識能力に不足があり適当でないゆえに、それに代わる人材として参議院議員を選んでいるわけです。 つまり、彼らに公僕としての身分と時間と給与を与え、そのような問題を専門的に解決してもらうために養っているわけです。
然るに、その分かっているもの同士の議論で否決された結果を否定し「これは国民の声ではない、その是非を直接国民に問いたい」などと駄々をこねて憚(はばか)らないのは無知なる国民をバカにし、同時に参議院の存在理由を無視し虚仮(コケ)にするものと言わざるを得ません。
そもそも郵政民営化法案は是か非かなどという難しい問題は(専門に勉強しているわけではない)国民に分かるわけがありません。こんなことに真面目に答えようとする国民こそいい面の皮です。何のために国民の代表者たる参議院議員を税金を使って養っているのかという本質的な問題に帰結するからです。
こんな馬鹿げた理屈が白昼堂々と通るなら、いっそのこと、国会や衆参両議員などは全て廃止して何でも国民に聞けば良いという(小学生でも分かる)おかしな話しとなります。
ともあれ、小泉首相はそのことを百も承知で、否、承知しているがゆえに敢えて国民に聞きたいと言ってるのであります。なぜならば、小泉内閣の支持率は非常に高いので(欠陥法案たるその中味はさておき)少なくとも国民の過半数は無条件で賛成してくれるに違いないと踏んでいるからです。国民は郵政民営化正当性のための単なる道具に過ぎないということであります。
逆に言えば、小泉首相は「無知な国民に細かな説明など不要である。ワンフレーズで十分である」と考えていると言わざるを得ません。まさに不誠実の極みであり、国民を舐めている所業と言わざるを得ません。
その意味で小泉首相は、意志が弱いくせに(その証拠に彼の言う改革は道路公団民営化一つをとっても全て食い散らかしただけで、やり遂げたものは一つもない)頑固なだけが取り柄という駄々っ子の如く溺愛されて育った子供のようなものであります。
因みに、この頑固さと意志の強さとは別物であって、一つの改革をやり遂げることができないから、他の改革へ目移りするだけなのです。その改革に乗り換えると何か素晴らしいものが開けるのではないかと空想してしがみつくだけです。怖いことに、そちらに代えたいと思うと、絶対にしがみつくのがこの種の子供の特徴なのです。彼の言う「郵政民営化」はまさにその典型と言わざるを得ません。
しかし、乗り換えて見ると、これもまた同じく苦しい状況が生まれます。そうするとまた次ぎの改革が良いのではないかと考えるのです。このようにして改革らしきことをあれこれとかじっていって、結局は「竜頭蛇尾」「大山鳴動して鼠一匹」のごとく、常に大風呂敷を広げただけの低いレベルで終始しているのです。その意味で小泉首相はまさに頑固そのものでありますが、そのことと、一つのことをやり遂げるという意味での意志の強さとは自ずから別物であるということです。
小泉首相の政治手法が全てパフォーマンス的に見えるのはまさに「溺愛されて育った子供」の特徴的性格の然らしむるところと言わざるを得ない所以(ゆえん)であります。
苦しいところを突破できないのは、性格が弱いからでありますが、もとより彼は「自分は性格が弱いから逃げ出すのだ」などと、自分の欠点を素直に認めるわけがありません。むしろ、性格の弱い人ほど逆に、巧みな逃げ口上を探すものなのです。彼特有の詭弁はまさにそこに起因するものと推測できます。
曰く、改革がうまくいかないのは抵抗勢力のせいだ、派閥政治のせいだ、参議院のせいだ、アジア外交がうまく行かないのは靖国参拝を批判する中国・韓国のせいだ、あるいは郵政民営化さえうまくいけば、すべての改革はうまくゆく、これが突破口だ、等々であります。
逆説的に言えば、このような小泉政治に対し国民が意外性・新鮮味があるなどと評価して拍手喝采を繰り返している限り、日本の構造改革はいっこうに進まず、(数多ある改革の)一つの山すら乗り越えることができずに停滞するばかりということになります。
仮にこの9.11総選挙で自民党・公明党が勝利し、郵政民営化法案が可決したとしても、その改革の実態は(これまでと同じく欠陥法案の)官僚への丸投げであり、小泉首相自身はと言えば、次なるパフォーマンスのネタ探しに血眼になるであろうことは火を見るより明らかです。
「郵政民営化、是か非か、是非、国民に問いたい、国民の声を聞きたい」などという馬鹿げた発想は、母親に溺愛されて育った子供が「(参議院で)ダメなものはダメ」と言われたが、きついようでも最後のところは(自分の要求に)甘い母親(国民)の弱点を見抜き、粘れば、粘り勝ちできると踏んで打った常套手段であります。
孫子はこれを『厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若し、用う可からざるなり。』<第十篇 地形>と論じています。要するに、溺愛された駄々っ子のごとき人物をリーダーとして起用してはならないこを曰うものですが、まさに、パフォーマンスばかりでは何も改革してこなかった小泉内閣の四年間にぴったり符号します。
とは言え、彼のヒトラーの例を持ち出すまでもなく、人間社会の愚かしさは(政治的事情から)往々にしてこの種の人物がリーダーに任命され、後で臍(ほぞ)を噛む例が多いのです。
このような人物に対しては、粘っても、ダメなものはダメと身をもって教えるしかありません。そもそも永田町の住人たる政治屋としては有能であっても、日本の確たる将来像も示せないリーダーの資質に欠けた人物を有能と錯覚して、あるいは人気がある、選挙に強いからという理由だけで祭り上げたのは有権者の責任です。
もとより、誰を選ぶかはまさに有権者の自由でありますが、しかし、その反面、大いなる責任があることを自覚する必要があります。一国のリーダーを支持するのと、「ヨン様」を支持するのとは訳が違うのです。否、むしろ、知性を感ずるだけ「ヨン様」の方がましなのかも知れません。
ともあれ、その政権が(たとえば改革断行という)約束に反したら有権者は責任をもって次の選挙で落とさなければなりません。責任に裏打ちされた自由こそが自由主義社会の根幹であることは世界の常識です(北朝鮮には間違ってもこのようなシステムは存在しません)。
その選択の是非はどうあれ、この民主主義国家の常識すら示せないようでは日本人の知性を疑われるといっても過言ではありません。
孫子はこのことを『辞の強くして進駆する者は、退くなり。』<第九篇 行軍>と論じています。要するに、(小泉首相の)言葉やパフォーマンス、(小泉政治の)表面的現象に惑わされるが如きは、知性が無い証左だと曰うのであります。
因みに「知性が無い」とは知識がないということではありません。知識の有無ではなく、思考停止し、ものごとを考えようとしない姿勢を無知(知性が無い)というのです。言い換えれば、無知とは、問を発することができない状態を指すのです。
世界に冠たる優秀民族の日本人は本来、ものを考える力を持っているのです。民主主義国家においては、個人の主義主張・心情はどうあれ、少なくとも政治は自分自身の問題として捉えるべきであり、他人事(ひとごと)として考えるべきではありません。この論理を無視することは自分自身の未来を権力者に白紙委任することと同義語であります。借金の保証人になることを白紙委任してヘラヘラ笑っている人がいるとすればまさにそれは「無知」の人であります。
とは言え、(慢性的な低投票率に象徴されるがごとく)そもそも戦争の世界たる政治を、スポーツやファッションなど娯楽・レジャー・歌舞音曲の類と同列か、もしくはそれ以下に扱っているのが平和ボケ国家日本のおぞましい現実であります。
孫子の曰う『兵は国の大事なり。』<第一篇 計>の真意が全く分かっていないと断言せざるを得ません。吾人が孫子を学ぶ所以であります。
ともあれ我々選挙民は、溺愛された育った子供のごとき小泉首相がいかに逃げ口上を弄しても、全て詭弁でありその場限りのご都合主義であることを見抜かなければなりません。
ことを表面的に判断し、ブレないのが小泉首相の魅力と短絡する人もおりますが、一つの改革すらやり遂げられずに官僚丸投げで放り出したり、国債発行について「この程度の公約を破ることはたいしたことではない」など、社会を支えている論理を平然と無視するがごときその場限りのご都合主義で言辞を弄するさまを見れば、まさにブレッ放しと言わざるを得ず、国政を担う政治家としての信念のかけらすら感じられないのは何とも空しい限りであります。
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