第1回 『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>2004.04.28
              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍


 近頃、都に流行るものは、「自民党をぶっ壊す」「抵抗勢力」「聖域なき構造改革」などの(意図的に練習を重ねた)短い言葉を駆使して「何もやってないのにやったように見せる」雰囲気をテレビカメラの前で巧みに演出し、善良な人々の信仰を集める奇怪な言霊呪術師と、その呪文によって踊らされる人々が発する「自己責任」「テロに屈するな」の声である。

 すなわち、政府の退避勧告を無視してイラク入りした邦人人質は「自分の軽率な行動で国や世間に多大の迷惑をかけた。自己責任の意識を欠いている、けしからん、謝罪しろ、反省しろ、ふざけるな」というまるで非国民呼ばわりのお粗末な主張である。

 まさに自衛隊派遣と同じ目的を持ち、国のためなら命も捨てようという彼女、彼らの行動のどこが批判に価するというのだろうか。全く不可解な現象と言わざるを得ない。

 つまるところ、人質たちが、ただ単に、「民間人はイラクに行くな」という権力の指示に従わなかったこと、言い換えれば、政府にとって人質たちは都合の悪い人物であったこと、そのような人質の家族が自衛隊の撤退を政府に求めたことに対して「助けを求めながら国に逆らうとはどうゆうことか」という日本人特有の危険な感情論である。

 中には、自民党の柏村武昭参議院議員のごとく、「イラク邦人人質は反政府・反日的分子である。そんな人間のために(その救出費用として)血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」とまで暴言する者もいる。

 まさに江戸時代の悪代官のごとき「お上」意識をもって、個人の思想・信条自由を虐げているとしか言いようがない。国会議員たる者が、教えられたこと、きめられたことしか守れないワンパターン思考の人間では日本の前途も暗いと言わざるを得ない。そのような人間をリーダーとする国は、必ず敵にその上手(うわて)を行かれたり、裏をかかれたりすることが落ちだからである。

 ワンパターン思考を、日本人の「和」と言えば聞こえは良いが、見方を変えれば、事実を直視しない思考停止の危険な風潮、言い換えれば、一つのレッテルを貼ることによって満足し、それ以上ものを考えようとしない日本人の民族的欠陥とでも言うべきものである。

  
 まさに日本は、このような唾棄すべき性癖によって彼の太平洋戦争で惨敗を喫したのである。三百万人を超える犠牲者を出し、国民が塗炭の苦しみに喘いだ半世紀前のあの悲惨な戦争を日本人はもう忘れてしまったのだろうか。

 戦争そのものが善い悪いと言っているのではない。問題は、そのような幼稚な考え方によって、当然の結果としての敗戦を招いたことであり、かつ、今もなお、そのような性癖を改めようとしない傲慢さなのである。

 そのレッテル貼りの典型的なものが、今回の事件を、登山禁止の冬山・遊泳禁止の海岸での遭難に譬える例である。危険を承知でそのような地域に敢えて立ち入り遭難するのは、(当人が意識するとしないとにかかわらず)もとより自己責任であることは論ずるまでもない。

 その意味においては、人質たちが退避勧告の出ているイラクに入り、仮に、流れ弾に当たり、地雷を踏み、爆撃されて一命を落とすのはまさに自己責任であり、これまた言うまでもない。

 問題は、山や海が人質を捕って、国家に対し、たとえば「人間は山や海を汚し放題だ。この環境汚染を改善すれば人質を解放する」などと要求するかどうかである。要求するわけがない。

 問題は彼女、彼らが人質に捕られ、かつ犯人が解放の条件として日本政府に対し、自衛隊の撤退を求めてきた特殊性にある。すなわち、イラクの自衛隊は占領軍たるアメリカ軍の一部であるとする反米武装勢力によって人質として利用されたことであり、言い換えれば、日本政府がアメリカ軍のイラク占領政策に加担してきたことに因るものである。

 日本人だけでなく多くの外国人が拘束されているのもその趣旨は同じである。誰がそのような事態を予測し得たであろうか。短絡的に「自己責任」「テロに屈するな」で片付ける問題ではない所以である。

 もしこれが、東京の新宿あるいは新幹線の車内で、はたまたイラク以外の国で起きたらどうなるのであろうか。自衛隊の駐留しているところが非戦闘地域と言い張る日本政府の見解では、当然、退避勧告地域ではないから、これは保護に価すると言うのであろう。

 しかし、どこで襲撃するか分からないからテロなのである。今回の事件がたまたま退避勧告地域のイラクで起きたから、自己責任を取れでは、話のつじつまが合わない。イラクであろうとなかろうと世界中でテロの可能性は常にあるのである。

 そもそも(何でもありを本質とする)戦争を法律で考えようとする発想自体が間違っているのである。法律は国家権力が統一され政治的に安定して初めて機能するものである。戦争で虐殺された無数の人々の人権侵害がなぜ法律で守れなかったのか。守れる力が無いからである。法律で戦争を律せられるなら、誰も苦労はしない。その法律以前の戦争をどう考えるか、そこに人間の叡智たる孫子を学ぶ意義があるのである。

 その立場からすれば、自衛隊のいるところが非戦闘地域ではなく、テロ組織の襲撃するところが戦闘地域なのであり、(スペインの列車爆破テロ事件を見るまでもなく)世界のどこで起きても不思議でないのがテロのテロたる所以なのである。

 このゆえに、イラクの日本人人質はたまたまイラクで囚われの身となったのに過ぎないであり、決して山や海での無謀行動による遭難と同一に論ずべきものではないことは明白である。

 そもそも外国にいる自国民の保護は、どこの民主主義国でも国家の責務であり、お願いするべき筋合いのものではない。政府にとって都合の悪い人物であろうがなかろうがともに自国民であることはこれまた民主主義国家の大原則である。

 我々はそのために税金を払っているのであり、そのために公僕たる政府の役人や政治家を雇っているのである。彼らは何様の積もりで発言しているのであろうか。思い上がるな、と言わざるを得ない。

 かてて加えて、日本の批准している人権条約でも「個人には、恐怖と欠乏の中にある他人のために努力する責任、民主主義の大前提である知る権利・伝える権利のために努力する責任がある」と謳っている。ゆえに同じ譬えるなら、幕末における倒幕派の志士、はたまた草莽の民と評すべきである。

 たとえば、吉田松陰は禁制の海外渡航を試みて「黒船」に乗ろうとし、坂本龍馬は、回天維新を志して脱藩した。彼らが体制派である藩・幕府の指示通り動いていたら明治維新は成立しなかったであろう。まさに誰も危険を犯さなければ私たちは前進しないのである。彼ら草莽の民が流した日本の未来を思う熱い血潮によって我々の今があるのである。

 イラク邦人人質の彼女、彼らも、その局面と状況は異なるものの、自発的意思で危険に身を曝し、日本のために何ごとかの責任を果たそうとする人たちであることに変わりはない。譬えるなら、そのような、ことの本質に目を向けるべきであって、愚にもつかない自己責任論で有為の若者たちの目的と志を奪ってはならない。でなければ、日本の未来は益々、逼塞するばかりである。

有為な行動をした人間が(手錠こそないものの)罪人のごとく打ちしおれて帰国し、何も行動せず、ただテレビの前に座って鼻毛でも抜きながら批判するだけの人が立派だと賞賛される、本末転倒とはまさにこのようなことを言うのである。

ともあれ、そもそも一国のリーダーたる者は、既述のごとき愚にもつかない感情論に酔い痴れてはならないと孫子は論じている。仮に閣僚の中から、あるいはマスコミの中からそのような不見識な発言が飛び出しても、これを「次元が低い」と一蹴するのがリーダーたる者の見識であり器量である。

 そのゆえに、自己責任論を煽るがごとき小泉首相の言動は、一国の指導者としての資質の差、その器の小ささに暗澹たる思いを禁じ得ないのである。自己責任を痛感すべきはまさに小泉首相自身であり、人のことを言う前に、政府自身の責務たる北朝鮮の拉致問題に対してどう自己責任を取るのか明らかにすべきである。

 「テロに屈するな」というおなじみキャッチフレーズもまったく同様に解される。すなわち、日本の夜明けをもたらした倒幕派の志士から見れば、新撰組は幕府から雇われたテロリスト集団ということになる。しかし、新撰組から見れば、傾いたとは言え未だ健在な徳川政権に刃向かう獅子身中の虫こそ、まさに倒幕派の志士ということになる。

 イラクを占領しているアメリカ軍から見れば、イラク民衆であっても自分たちに銃口を向ける者はすべてテロリストあり、イラク民衆から見れば、テロリストとはまさにアメリカ軍そのものを言うのである。要するに、立場が違えば、言っている内容もおのずから異なるのである。にもかかわらず、一方の立場のみに偏して「テロに屈するな」と叫ぶのは、言い換えれば、アメリカの戦争に加担し、これに巻き込まれることを意味しているのである。この愚を悟ったがゆえにスペインは軍を撤退させたのであり、「テロに屈した」わけではない。むしろ、勇気ある決断と評すべきである。

ともあれ、言いたいことを一言で表す練習を重ねた結果としての「自己責任」や「テロに屈するな」の奇怪な言葉、はたまた、テレビカメラの前でどうやって自分を「見せるか」に腐心した結果としての大衆受けする虚像のごときに騙されてはならない。

 孫子はこのことを『辞の卑(ひく)くして備えを益す者は、進むなり。辞の強くして進駆する者は、退くなり』<第九篇 行軍>と論じている。つまり情勢判断において、言葉や表面的現象に惑わされるがごときは、知性がない証左であると曰うのである。

 とは言え、近頃、都に流行るものは、怪しげな風貌の言霊呪術師と、迷信のごときその呪文によって踊らされる善男善女の「自己責任」「テロに屈するな」の大合唱の声、というのが現実の姿である。

 そもそも、冷徹な合理的判断が要求される戦いの場においては、迷信や占いの類に惑わされてはならないことが鉄則である。しかし、一面から見れば、これは十分に利用価値がある。なぜならば、「金目当ての者」や「愚かな者」を使いこなすには有効だからである。この類のものを巧みに使い、(今、都で流行る言霊呪術師のごとく)善男善女をその掌で思うように踊らすのは、兵法上、邪道のように見えるが、孫子はこれを否定していない。
『兵とは、詭道なり』<第一篇 計>とは、まさにそのことを曰うのである。人に踊らされずに生きるため、吾人が孫子を学ばなければならない所以である。


※【孫子正解】シリーズ・第1回出版のご案内

 このたび弊塾では、アマゾン書店より「孫子兵法独習用テキスト」として 【孫子正解】シリーズ・第1回「孫子兵法の学び方」という書名で電子書籍を出版いたしました。ご購入は下記のサイトできます。

      http://amzn.to/13kpNqM


※お知らせ

 孫子塾では、孫子に興味と関心があり、孫子を体系的・本格的に、かつ気軽に学べる場を求めておられる方々のために、次の講座を用意しております。

◇孫子兵法通学講座
  http://sonshijyuku.jp/senryaku.html

◆孫子オンライン通信講座
  http://sonshi.jp/sub10.html
 
○メルマガ孫子塾通信(無料)購読のご案内
  http://heiho.sakura.ne.jp/easymailing/easymailing.cgi


※ご案内

 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

  http://kodenkarate.jp/annai.html
P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8
[編集]
CGI-design