<質問>
長らくメタボリック症候群に悩まされておりましたが、あまりの体調の悪さに一念発起し、一年前から比べると13sの減量を実践し、成功しました。今では、階段を上っても息切れもせず、思い荷物を持って長時間移動しても疲れず、10年前のスーツが楽になじむようになり、気分的にも毎日が爽快になって参り、10歳程若返った感じが致します。
いわゆるメタボリック症候群が成人病の温床となり、体に悪いことは今を去る10年ほど前から十分に分かっていたところです。が、それは「理屈や知識で分かっているつもり」であって、本当は全く分かっていなかったと思います。
なぜなら、何度も減量には取り組んだものの、変な知識やこじつけた理屈で、サウナの後では目先のビールとか、肉類系統の食べ物を「少量で体に栄養があるから」とつい口にしてしまいました。そんな時は必ず定番の決めゼリフたる「明日があるさ」「仕切り直しはいつでもできるさな」などと根拠のない願望にすがるのが常であり、そこには自己の敗北を覆い隠す奇妙な安堵感と「でもこの次は必ずやる」との不思議な高揚感がありました。
つまりは、性懲りも無く自己欺瞞を繰返す行動の積み重ねゆえに、そのリバウンドもあり全く効果が上がりませんでした。人というものは、肉体が半分、精神が半分の両面から一つのものになっておりますが、肉体の減量とは、即ち、精神のコントロールそのものであることはなかなか身にしみて心にしみて「悟る」ことの出来るものではないと思います。
昨年の夏ですが、さらに減量の効果を上げ、成人病対策に万全を期するためにも医師の薦めもあり、外来の栄養相談を近所の某診療所で受診することになりました。 本当に喜劇のようですが、栄養士の先生に「貴方は、お話を伺っていると戦略戦術とかを研究されているようですが、そもそもご自身の健康戦略はキチンとできているのでしょうか」と指摘され、穴があったら入りたいような気持ちになりました。
実は、テレビコマーシャルや口コミで伝わっていた健康に良い飲料・食品には、意外と減量には逆効果になるものが多くあるとのことです。即ち、常識として疑うことなく口にしているものには少量でもかなりのカロリーがあって、それらが日常的に体内に蓄積され、メタボリック症候群の要因となっているとのことです。 そのような情報を専門の栄養士の先生に指摘され初めて、まさに孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>ではありませんが、彼と己を意識・認識し、そして対抗策を「実践」するようになったのです。
自分が自分を知って、自分の中のもう一人の自分に対抗し制圧する訳なのですが、まさに、のどが渇いた時、目の前にあるビールを飲むか飲まないか、食事で物足りない時、目の前にある一品を口にするか口にしないか、コーヒーを飲む時、目の前の砂糖を入れるか入れないかという単純な選択ですが、それは「今」しかない、今止めるしかないのだ…、と言い聞かせて、しのいでいる自分がまた面白いところでした。
自分で自分を知り、自分をコントロールすることは本当に難しいものであり、まさに「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」ですが、理論、理屈、知識に基づいた希望的、願望的なダイエット・テクニックでしかなかったことが、メタボリック症候群から長らく解脱できなかった原因であると思いました。
昨年末、再び外来の栄養相談を受けた際、栄養士の先生に上述のことを言いますと、「本当に自分が自分の食事をコントロール出来て健康であることが出来るなら栄養士なんて必要ないのですよ」ということで大爆笑になりました。
少なくとも、人前で兵法だ戦略だと言うからには、やはり自分自身の身体と精神を自分自身でコントロールすることを実践して初めて他人にも自分にも兵法だ戦略だということになると痛感いたしました。
今回、減量に関して「願望と実行」、「理想と現実」、「理論と実践」、「身体と精神」など脳力開発でいう両面思考を分かっているつもりであったところをさらに目覚めることができ、自らの化けの皮を剥がすことが可能となり、一皮むける機会となりました。
しかし、これで分かったと思っていると、他分野でまた違ったテーマで実践になった場合、本当に、願望、理想、理論、身体など「自分に都合の良い」面だけを中心にしてしまい、一気に両面思考から崩れ落ちてしまうと思います。まさに油断大敵であります。兵法、戦略を学ぶ上で、本当に見落とし勝ちな「自分自身のコントロールの実践」ということについて、その「要」とするところを是非ご教示を賜りますようお願い申し上げます。
<回答> 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
色々な意味で深く考えさせられる良いご質問だと思います。ズバリ、次のように回答させて頂きます。
一、いわゆる知識には二つの種類がある
一般的に、日本における学校教育は(学歴信仰社会を反映して)いわゆる知識偏重型の詰め込み式教育であり、自分の頭を使って主体的に物を考えるという訓練が実に不足し希薄であります。
そのゆえに、知識として知っていればそれで万事良し、人間としても立派な人だ、とする実に浅薄な風潮が蔓延しているのであります。
しかし、知識というものは、単に知っていることに価値があるものと、知っているだけではどうにもならないものの二種類があります。そもそもこの二つを明確に区別しなければ、その人が果たして人間として立派な人か否かの判断基準とならないのが道理であります。
とりわけ、人間の行為に関するものは後者の知識であります。言い換えれば、知っていることが即ち、自分自身の骨肉と化しているか否か、つまりは、真の知識となっているか否かが問われるわけです。これは厳しい現実世界のことであり、単なる口先や知識の披瀝だけで誤魔化せるものではなく、況(いわ)んや、偏差値やIQの高さだけではどうにもならない問題なのです。まさに偏差値だけでは生き残れない、ということであります。
例えば、「世界を怖れるな、唯自己を怖れよ」などいう言葉は誰でもが知っております。しかし、肝心の「自己」とは何かを追究する実際の行為が無ければ、折角の名言もまさに「無用の長物」「絵に描いた餅」と化すのであります。もっとも、知らないよりは知っている方が一服の清涼剤的な役割は果たすでしょう。しかし、それが現実変革の役に立つかどうかは甚(はなは)だ疑問と言わざるを得ません。
同様に「知識は能力となる時に貴い」などの言葉をいくら知っていても、知識を使いこなせる能力とは何かを知り、それを身に付けようとする行為が無ければこれまた画餅に帰さざるを得ません。
孫子の『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>とはまさにこのことを曰うのです。いわゆる「五事七計」を単に知識として知っていれば、それで勝てる、という能天気なものでは無いのです。王陽明が『知りて行わざるは、只だ是れ未だ知らざるなり』と喝破しているが如しであります。
それはさておき、ご質問者さまも脳力開発の「両面思考」なる言葉は耳にタコが出来るほど聞かれており、知っており、ゆえにご自分では完全に理解されていた積りであったのでしょう。しかし、(単なる口先だけのことではなく)人の行為が絡む問題となると事はそう簡単では無かったということです。
要するに、この種の問題は、知っていることと、そのことが現実に出来るか否かとを明確に区別する必要があるということです。まず、この違いを洞察する脳力を磨くこと、そして名言なるものの背景にある本質的構造を自分の頭で分析し、それを自分の言葉で語り、実際に使いこなす脳力を修練すること、それが脳力開発の真髄と識るべきであります。
よく人は、訳知り顔で「脳力開発云々と言われますが、つまりは習慣づくりのことですね」と言い、「そんなことはオレはとっくにマスターしているよ」的なニュアンスをその表情に得意気に浮かべることがあります。しかし、得てしてこんな人に限って大概は全く分っていないと言っても過言ではありません。
近年、いわゆる「脳力トレ」や「脳力テスト」などが脚光を浴びており脳力開発はブームのようですが、その大半は、「私は近視だ、これを治したいのですが」、「はい分りました。それでは視力をアップするために視力検査表の見方を教えましょう」という類のものが多いようです。
そのようなものは、例えば対症療法の如きものであり、真の脳力開発とは何かの本質を見極めてその根本から治療する、もしくは改善することを目的とするものではありません。
真の意味での脳力開発は、上記したごとく(頭の中の妄想や口先だけの言葉ではどうにもならない)厳しい現実世界の行為が不可欠の要素となりますから、ことはそう簡単にはいかないということであります。
その意味でご質問者さまが、言葉ではなく真の意味での「両面思考」を行為の結果として真に理解されたこと、加えて、この現実世界は常に流転して止まないものゆえに、性弱き人間の常として、つい油断をしていると忽(たちま)ち急坂を転がり落ちるだけである、と真に理解されたことは実に喜ばしい限りであります。
二、善くも悪くも、その人の行為の結果がその人の意志である
そもそも人はいわゆる霊肉不二の生き物であり、心と体はまさに一体両面の関係にあります。然(しか)らばそのどちらが優先するかと言えば、(唯物論的な見方はさておき)肉体よりも心が優先することは論を待ちません。何ごとであれ、人の行為の背後には必ずその土台たる「心」が厳然として関わってくるからであります。
その意味で、ご質問者さまがご自分の「食欲」という欲望をその意志によって支配し、メタボ症候群対策たるのダイエットに成功されたことは、(欲望に盲従しないという意味では、ことの広狭大小はともあれ)知性ある人間の生き方としては実に正しい人間本来の姿であります。
逆に言えば、あたかも犬や猫のごとく只、欲望に支配され盲従してあたら日を送るだけの酔生夢死の人生は、いかにその人がその行為の正当性を主張しようとも、知性ある人間としては実に「浅ましく」「さもしい」生き方と断ぜざるを得ません。
角度を変えて言えば、今、政治不信の渦中にある(とりわけ政権にしがみつくことだけを目的とする)与党の国会議員や、彼らの活動の主舞台たる国会の場がなぜ美しく見えないのかということです。まさにそのキーワードは、およそ国政を担うリーダーとして自分を捨てる覚悟を忘却した人々の「浅ましい」「さもしい」欲望にある、と言わざるを得ません。
では、彼らを美しく変えることは可能なのか。もとより可能であります。それは我々選挙民が「自分を捨てる」ことのできる選良(代議士)を選ぶことに尽きます。よく有権者の中には、『一票を投ずるに相応(ふさわ)しい人がいない』とか『誰がやっても同じ』だとか、したり顔で論ずる人がおられます。
しかし、これこそ、自身の無知無教養、不勉強の実態を恥ずかしげも無く世間に晒している行為であると我々は認識すべきです。まさに前者は自身の不勉強を、後者は人が違えば能力も違うという人間能力の多種多様性を完全に否定するものだからです。
仮にそうだとしても、であるならば野党に一票を投ずるという明確な手段もとれるはずなのに、今度は、『野党に政権を任せられない』とくる。このような手合いは、ただ自己の悪しき習慣たる下劣な品性に支配されているだけであり、彼の「泥酔記者会見」の故・中川財務大臣よりもはるかに深刻な泥酔者であると言わざるを得ません。
しかし、世の中は、このような人に限って「オレは正常だ」と自認しているものなのであります。まさに「バカに付ける薬は無い」「バカは死ななきゃ治らない」の諺を地で行くものであります。
このゆえに、我々は、日々、孫子を学び脳力開発に精進して(上記のごとき酔生夢死の世界と決別し)我々個々人が日本人としての誇りを取り戻すことが肝要なのであります。
今、日本社会に充満する閉塞感・無力感はまさに政治不信に端を発するものであることは明白です。が、しかし、それは誰の責任でもありません。他ならぬ我々選挙民の一人ひとりの責任であり、我々が自ら「天に唾する」行為を積み重ねてきた結果と断ぜざるを得ません。そのことを我々は真摯に反省し投票行動で示すべきです。
ともあれ、事の結果が善くもあれ、悪くもあれ、それを招来したものは我々の意志であると解するのが正常な人間の物の見方です。逆に言えば、人間の真の喜びは自分の意志を(よい結果を生むように)明確に意識して生きることであり、その統一的なプラスの連続力(孫子の曰うところの『勢』)を拡大発展させることにあります。
これはいわゆる「奴隷」には不可能な生き方です。なぜならば奴隷は主人の従属物でありそこに自由意志はないからです。もとより我々は「奴隷」で無く、自由意志があります。が、しかし、国賊的政治家や宦官的官僚、衆愚の代表たるマスコミの「為にする」情報に洗脳されて唯々諾々とマインドコントロールされているという意味合いではまさに奴隷的な側面があることも事実です。また、自己の内なる欲望の発する「自己欺瞞」という情報に盲従し、空しく踊らされているだけの奴隷とも言えます。
ともあれ、放って置くとゴミや埃(ほこり)が勝手に積もるがごとく、人間の心も(そもそもが怠惰なゆえに)世俗の垢に汚され勝ちなものであります。ゆえに、人間の真の喜びは、放置すれば汚れる一方の自分の心を常に磨き、自分の意志を明確に認識して生きることにあります。
その意味で、ことの広狭大小はともあれ、ご質問者さまの『今では、階段を上っても息切れもせず、思い荷物を持って長時間移動しても疲れず、10年前のスーツが楽になじむようになり、気分的にも毎日が爽快になって参り、10歳程若返った感じが致します』というご認識はまさにそのことを雄弁に物語るものであります。
三、何が正しく、何が間違っているかを自分の頭で判断する
かつて、麻生元首相が「私は日常、腹筋・背筋・腕立て伏せやランニングなどを行う習慣を持続し健康管理には十分に気を付けているので同世代の人よりは遥かに健康で若いはずである。当然、医療費も安い。日本の中高年の方々もこのように心掛ければ医療費の削減に繋がる」などの発言を行い世間の失笑と顰蹙(ひんしゅく)を買いました。
しかし、これは彼の舌足らずの説明がいけなかっただけであり、ことの道理、真実はまさに麻生首相にあると言わざるを得ません。
確かに、『あんた(麻生元首相)はカネとヒマがあるからできるんだ、カネもヒマも無い人間はどうするだ』と、やっかみ半分も手伝い、またも麻生元総理の能天気な見解としてマスコミにより一笑に付されたことも事実です。しかし、これはまさに人間としての矜持、もしくは意志に関わ心の問題であり、外形的なカネとヒマの有る無しの問題ではないということです。
それにしてしも、気の毒なのは麻生元首相です。彼の長年の人生経験から学んだ折角の知恵が非常識な世間によって一蹴されたわけですから、まさに気の毒を絵に描いたようなものです。是々非々の明確な根拠もなくただ付和雷同し、大勢に追随するのが日本人の民族的欠陥であります。言わば衆愚政治の原型はまさにここにあると断ぜざるを得ません。
いわゆる「悪貨は良貨を駆逐する(グレシャムの法則)」ごときものであり、衆愚のはびこる世の中では真実の声を挙げてもかき消されるだけであり、逆に、一歩間違えれば、マスコミ的パッシングの好材料になる、ということです。まさに「天の岩戸」に隠れてしまった天照大神の心境も宜なるかな、と言わざるを得ません。
恐らく麻生元首相は、老年を迎える前に平素からそのように心掛けて日常生活を送れば、いざ老年を迎えても生活習慣病にかかる可能性が低くなる、従って全体では医療費の軽減に繋がる、個人も快適な日々が送れる、まさにそこにメタボ症候群対策の趣旨があるということを言いたかったのでしょう。
その意味で彼の発言は、孫子の曰う『之を経(おさ)むるに五を以てし、之を校(くら)ぶるに計を以てし、而して其の情を索む』『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>とその軌を一にするものがあります。
とは言え、麻生元首相もいけない。七十歳を間近にして肝心の愛読書がマンガ本だったり、通常の人が通常に読める漢字を度々誤読などしたりするから、まさに『民、信なくんば立たず』(論語・顔淵篇)を引くまでもなく、彼の話にまるで真実味、説得力が無いのである。
つまり、ここでは、『之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず』<第一篇 計>の真意を解せざる者と言わざるを得ません。
いずれにせよ、ことの本質、ことの道理を追究しようともせず、表面的かつ一面的な狭い見解で判断し、その真実に迫ろうとしないのはマスコミの常套手段ゆえに我々は同調すべきではありません。
その対象が例え能天気に見える麻生元首相の言だとしても、正しいものは正しいのであり、真理であると評価すべきなのであります。まさに人を見て判断してはいけない典型例と言えます。つまりは、何が正しく、何が間違っているかという的確な判断力の有無こそが問題となるのです。
一般的にマスコミは、その商売ネタたる『珍奇なネタ(おもしろおかしければが価値であり判断基準)』をあたかも餓鬼のごとく日々追い求め、ただ右往左往するだけの存在ゆえに、そもそも表面的、一面的、主観的な物の見方しか出来ないところにその本質があります。
凡そ、ことの洞察力、ものの本質を見抜く判断力の対極に位置するものが彼らマスコミの知性の実態であることを我々は肝に命ずべきであります。
論より証拠、例えばテレビのワイドショウなどで政治を論ずるコメンテータの発言を聞けばそのことは一目瞭然であります。その殆どが実に聞くに値しない、耳を覆いたくなるような低レベルのものと言わざるを得ません。
テレビという公共の電波を使い、ただ、おもしろおかしければそれで良しとする極めて短絡的、かつスポーツニュース的感覚で政治を論じられたらその影響は計り知れません。
このことを我々はシビアに認識し、マスコミ論評のどこが間違っていて、どこが正しいのかを適正に判断する力を磨くことが急務であります。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。
ともあれ、物事の本質的かつ大局的判断が出来ないという意味で日本のマスコミは実に愚かであり、真の意味での知性が欠落していることは疑いようがない事実です。
然(しか)らば、彼らは無用の長物かと言えば、然(さ)に非ず、情報収集という意味では彼らの存在は極めて重要です。 そのゆえにこそ、何が正しく、何が間違っているかの情勢判断力を我々は養成し、彼らに振り回されるのではなく、彼らを利用する術をを見出すことが肝要なのです。吾人が脳力開発を学ぶ所以(ゆえん)であります。
ともあれ、今日、最も必要な思想は、真の意味での人間資源をいかに開発するかにあります。その根底にあるもものがまさに怠惰にして自堕落な生き方の対極にある、自分に克つ姿勢、言い換えれば、自己と対峙し対決する姿勢、もしくは自己の際限のない欲望をコントロールする生き様であります。
やるか、やらないかを自分で判断できるという立場から言えば、ダイエットはまさに「戒律」であります。
その意味で、脳力開発の根幹たる「精神的姿勢の確立」「思考方法の整備」「実際知識の拡大」たる三面・十一項目の基礎習慣づくりも、まさに「戒律」であります。しかも『何が正しく、何が間違っているかを自分の頭で判断する』習慣づくりという観点から言えば、現代日本人にはまさに必須の「戒律」であると言っても過言ではありません。
もとより「戒律」は他人に強要するものではなく、まさに自らが実践するところにその意義があります。その意味では、まさに、たかがダイエット、されどダイエットであります。その意味で、ことの広狭大小はともあれ、ご質問者さまのご体験は実に貴重であると考えます。これを契機に、孫子兵法及び脳力開発の累積的進歩発展のさらなる高みを目指して精進されんことを祈念申し上げます。
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