<質問>
偽装進学校とは、大学への進学実績を宣伝するために、一部の成績優秀な生徒に高校から受験料を支出して、多くの大学を受験させて合格させ、その合格者数を延べ人数で集計し、外部に公表することです。
言い換えれば、あたかも一流進学校であるかのようなことを偽装し、その数字やイメージをもって中学生・保護者に洗脳をかけることで、次年度の生徒募集に役立て、入学定員の確保、即ち、経営の安定化を企図するものです。
つまり偽装進学校は、一流になりたいけれどもなれない二流、三流クラスであり、教育内容で勝負するよりは、まことしやかな宣伝で中学生受験者を誤魔化そうとする特徴があり生徒たちを食い物にしていることは否定できません。
そのやり方は、まず男子校・女子校から男女共学へ、そして学年のクラス編成では特別進学コースとか、理数系進学コースとかいうような選抜クラスを設けて、実際には学年全体の一握りの生徒の中にいる、ごく少数の成績優秀な生徒に有名大学合格者を輩出させて、自らの高校を質実剛健に見せるものです。
このような高校に通う成績優秀ではない多数の生徒、その保護者にしてみても「私は進学校に通っている」「うちの息子・娘は進学校にやらせている」と世間的な外面を取り繕うことが可能なので、全体的にはお互いに恩恵を受けているというところもあるのです。
このようなところを実質的に補うのが学校法人という組織ではなく、営利目的の法人組織(株式会社、有限会社)である学習塾、予備校、教育企業であり、教育産業という領域を形成しています。この学習塾こそが延べ人数で合格者を発表するのです。
偽装進学校とは、この学習塾・予備校の実績を流用しますし、学習塾・予備校は、全ての高校が進学校になれば存在価値はなくなりますので、両者は互恵的な関係にあるというわけです。
そもそも私立学校の本義とは、国営学校が知識教育に偏重している盲点をついて、まさに人間教育を独自の観点から行わんとし、それなりの人材の育成と社会への貢献を目指したところにあり、当初はこのような私立学校が多数設立されたことであったと思います。つまり、私立学校の本質は人間形成教育なのです。
しかし、いつの間にやら、土地と建物と人と金が集まるところから、お金儲けに目がくらみ、人間形成教育に身をおいているところを取り違え、若人の教育には本当に悪い「金儲けのためなら何をやってもいい」とか、「要は学校経営だ」とか、本来の戦略を忘却し戦術に血道をあげている姿は何ともあさましいものであると思います。
一見すると、いわゆる偽装進学校とは、「人の行く道の裏には花の山」のごとく世間の言わば虚栄を巧みに衝いて経営しているように見えますが、実は、小手先の小ざかしい工夫を弄して中学生とその保護者をだまくらかして自分の高校に入学させること、言い換えれば、入学金を巻き上げ、定員充足から公的補助金を受け取ることにあり、実際に入学後の生活指導、進路指導の出来不出来まできちんとチェックするのかどうかは定かではないのです。
このような視野の狭い、姑息な小手先の戦略戦術を弄することなく、巨視的に現代社会の矛盾を虚心坦懐に洞察すれば、まさに偽装進学校の悩みを抱えている私立高校こそ起死回生の策があると考えますが、いかがでしょうか。
<回答>
孫子塾塾長 佐野寿龍
私立高校が大学の受験料を補助してその合格者数を上乗せして公表するという、いわゆる「偽装進学校」問題と、いわゆる「高校野球の特待生」問題とは、教育現場における同根の病巣と解されます。
孫子の『夫れ、戦いて勝ち攻めて得るも、その功を修めざる者は凶なり。』<第十二篇 火攻>の言を引くまでもなく、(この場合は)何のために合格者数を偽り、はたまた野球強豪校の名を欲するかということであります。
もとより目的とするところは、共に、その宣伝効果に期待し、学校の知名度を上げ、延(ひ)いては学校経営の安定化を図るためのものと解せられます。その意味では、まさに『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>の如く、それはそれで一つの有効な手段ということができます。
しかし、ことの「善し悪し」という意味においては、両者には似て非なる相違があります。つまり、人間社会のモラルとして許容できる範囲か、できない範囲かという問題です。
一)高校野球特待生(スポーツ推薦制)は是か否か
スポーツ推薦制の弊害たる最大の理由は、バランスのとれた基礎学力の習得が最も必要とされる中学生時代に「勉強はしなくても良い、スポーツだけやっていれば高校へは進学できる」との歪んだ認識を周囲の大人から植えつけられ、自然に学業から遠ざかるということです。
その結果として、(本人の意志とは言いつつもその実は)親や少年野球の指導者が待遇によって進学先を決めていたり、ブローカーなどが暗躍して金銭がらみでの中学生の売り込みが行われるのであります。
そのようにして高校や大学に進学しスポーツ漬けの学生生活を送っても、プロとして活躍できる人はほんの一握りに過ぎず、殆どは基礎的学力の不足したまま引退し学園生活を終えることになります。言い換えれば、実社会を生きる手段を何も持たないまま実社会に放り出されるということです。
もとより、そのような逆境をどう跳ね返すかは、それこそこれまで鍛えたスポーツ根性の精華と言いたいのでしょうが、如何せん(スポーツ推薦制に起因して)その当人に基礎的学力や向学心が欠落しているということであれば、折角の「スポーツ根性の精華」も空しく空回りし、単なる気休めの掛け声で終わり勝ちであります。つまり、それは教育の名に値しないということであり、スポーツ推薦制の弊害、ここに極まれりと言わざるを得ません。
とは言え、そのような必要性も確かに世の中には存在しておりますので、必ずしもそれを否定するものでありませんが、せめて、中学校長推薦を義務付け、その第一に、例えば学業成績中程度以上の者に限るとの条件を付すべぎと考えます。
一般的に言えば、スポーツは勉強より楽しい。ましてや、子供は本来、遊びたいものです。だからといって、「勉強しなくても良いからスポーツさえできれば良い」という論理にはなりません。心身の健全な発育や人間形成のためには、人間としての知性を磨く必要があるからです。
逆説的に言えば、「スポーツに打ち込みたかったら、当然、勉強も頑張らなければいけない」ということです。その健全なバランス感覚を無視し、大人の利害、見栄や名誉のために、子供のスポーツ的才能だけがあたかも商品のごとく評価され、取引されるのは論外と言わざるを得ません。
その意味で、夏の甲子園において、野球特待生ゼロ、普通の県立校にして進学校でもある「佐賀北」野球部が特待生の集団とでも言うべき全国の強豪校と堂々と渡り合い、初優勝したのは(高校野球いかにあるべきかの)まさにモデルケースと言えます。
孫子は『智者の慮りは、必ず利害を雑う。』<第八篇 九変>と論じております。高校野球特待生(スポーツ推薦制)の「利」のみに目を奪われれば、必ずその反対側面たる「害」が憂いを引き起こすのであります。
このゆえに孫子は、『尽(ことごと)く兵を用うるの害を知らざる者は、則ち尽(ことごと)く兵を用うるの利も知ること能わざるなり。』<第二篇 作戦>と曰うのです。高校野球特待生(スポーツ推薦制)制度の容認に際しては、中学校長推薦を義務付け、その第一に、例えば学業成績中程度以上の者に限るとの条件を付すべしとする所以(ゆえん)であります。
二)いわゆる「偽装進学校」の罪と罰
これは確かにご質問者さまご指摘のように、昨今の耐震偽装問題、精肉偽装問題と軌を一にする構造を有しており、学齢期の子を持つ善良な世の親や社会を欺く詐欺まがいの所業と言わざるを得ません。
その意味で、上記した高校野球特待生(スポーツ推薦制)のごときは、学業成績に一定の条件(例えば学業成績中程度の者以上など)さえ付ければ、社会的に許容される範囲ではありますが、この「偽装進学校」問題に関しては、いかに私立高校サバイバルの奇策とはいえ、到底、許されるべきものではありません。
新聞報道によれば、水戸市の私立水戸葵陵(きりょう)高校では受験料だけでなく、成績優秀な一部の生徒が通信教育「Z会」を受講する費用を負担していたということです。
記事によれば、『05年度は、同校が普通科に作った医歯薬コースの一期生が大学受験に臨んだ年に当たる。大学受験料の補助を始めたのも同コース一期生からで、昨春は5人に12校、今春は4人に11校、私立の医学部や東京理科大、早稲田大の理系学部などを受けてもらったという。(中略)ホームページやパンフレットに書かれている大学合格実績は、05年春の177人から、昨春は356人、今春が306人と増えている』とある。同校の特待生制度は四種類で、成績によっては入学金から授業料まで免除するそうである。
この極端な例が、偽装進学校問題の発端となった私立大阪学芸高校の場合であり、「有名大学73校合格は実は一人」であったのに「関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)に多数合格」と誇大宣伝をししています。
言い換えれば、一部の成績優秀者に有名私大を併願受験させて合格させ、その合格者数を延べ人数で発表することによって恰(あたか)も「一流進学校」の如く偽装し、それに騙されて入学してくる圧倒的多数の「普通の成績の生徒」の収める入学金・授業料、はたまた定員充足から公的補助金を受け取ることによって学校経営を行っているということです。
つまり、そこにあるのはまさに受験の結果だけだあって、本来の教育たる入学後の生活指導や人間教育、進路指導などがキチンと行われているか否かは定かではないということです。これでは、教育産業どころか教育虚業と言わざるを得ません。
その意味で、これら偽装進学校と教育産業たる大手予備校・学習塾が弾き出す偏差値との関係は、まさに持ちつ持たれつのシステムであり、お互いがお互いを必要とする密接不可分の関係にあると言わざるを得ません。
かてて加えて、大学は大学で、定員充足のために新入生の七割ぐらいを推薦入試で確保しておいて、一般入試で倍率が高くなるように設定し、そこでの偏差値を宣伝してさもハイレベル大学の如くに偽装するに至っては、何をか曰わんや、であります。
いずれにせよ、営利法人たる大手予備校・学習塾の場合はさておき、いやしくも学校法人たる私立高校や私立大学がこのような偽装を平然と行うのは、まさに「天知る、地知る」の大罪であり、必ずや天罰が下るものと言わざるを得ません。
少子化による大学全入時代の今日、大手予備校・学習塾の錬金術システムのカラクリが一度、白日の下に晒されてしまえば、もはやその神通力は失せたものと言わざるを得ません。その意味で、私立高校は一刻も早く、そもそもの建学の精神に立ち返り、サバイバルの策を講ずるのが適当と考えます。
とは言え、ことは構造的な問題ゆえに、あたかも参院選一人区における地域活性化のごとく即効性のある案などあるわけが無いものと心得るべきです。そのゆえにこそ、一見、迂遠のようではありますが、ここは一番、その本質に立ち返り、根本から問題を検討する姿勢が重要なのです。
孫子の曰う五事、即ち『道・天・地・将・法』<第一篇 計>とはまさのこのような場合に解決の糸口を提示するものであります。
三)私学の建学の精神とは何か
これは、ご質問者さまご指摘のように『そもそも私立学校の本義とは、国営学校が知識教育に偏重している虚をついて、まさに人間教育を独自の観点から行わんとし、それなりの人材の育成と社会への貢献を目指したところにある』と言えます。
然らば、人間形成教育とは何か、ということであります。これを脳力開発的に言えば、知識教育に偏らず、精神教育、思考教育の三面を偏重させずバランスよく全体的に進めることにあります。そして、その人生において困っても困らない人間になることであります。
然るに、今日の私学の抱えている根本的矛盾は(偽装進学校問題に見られるがごとく)国営学校と同じく、否、むしろそれ以上にいわゆる知識教育のみに偏重しているということです。これでは私学の建学の精神、すなわち官学に対するその独自性は失われたも同然であり、ここに今日の悩める私学の根本問題があると解せられます。
とは言え、(明治維新による四民平等の世の到来以降)日本のリーダー選出のシステムが、(国家公務員第一種試験に代表されるがごとく)基本的にはペーパーテストによって決せられる以上、私立学校と雖も、偏差値アップを図るための受験指導を避けて通るわけにはいきません。
ゆえに、それはそれで徹底的にやる必要があることはもとより言うまでもありません。ただ(夏の甲子園で初優勝した県立校にして進学校の「佐賀北」のごとく)ルールに則って公明正大にやるべしということです。
その原点を忘れて「有名大学73校合格は実は一人」のごとき小手先の策は弄すべきではありません。とは言え、「このような偽装宣伝は、実は、教育産業たる大手予備校・学習塾が経営の主軸として行っているものであり、件(くだん)の私立高校は単に便乗しただけなのだ」との声が聞こえて来そうです。つまりは、世間がそうだから便乗せざるを得ないのだ、ということです。
言い換えれば、公明正大な競争のためのルールが大手予備校・学習塾によって不正に操作され、それが真実のごとく偽装されているということです。
まさにこの問題が『昨今の耐震偽装問題、精肉偽装問題と軌を一にする構造を有している』と指摘される所以(ゆえん)であります。そのゆえにこそ、この「偽装進学校」の問題の根は深く容易ならざるものがあると言わざるを得ません。
このような悪条件の中において、それでも私立学校の為すべきことは、公明正大なルールに則り、適切な受験指導を展開し、実力で社会の信用を得るしか道はないと心得るべきであります。これが孫子のいわゆる五事に曰う『道』<第一篇 計>の意と解されます。
上記の観点を踏まえ、然(しか)らば、私立学校はいかにして本来の建学の精神を発揮すべきかということであります。
つまり、孫子の曰う五事の観点からすれば、今、問われている学校教育の問題点は何か、あるいは今後の教育は何を目指すべきかを徹底して考えることであります。
四)今後、私立学校教育の進むべき方向についての一提案
五事的観点に立てば、次のように言うことができます。
(1)「考える」という行為こそ、万物の霊長たる人間の最高に楽しい知的快感であるため、広い意味でこれこそが勉強の本質であるということ。
(2)真の教育とは、実社会において様々な問題と直面した時、自分の頭を使い自分で答えを考え出す脳力の養成にあるということ、言い換えれば、人生、どんな問題が起きてもこれに適切に対処して困らない人間になるということであります。
その意味での問題は、高校生であろうが社会人であろうが万人に均しく生起するものであり、かつその範囲も日常の小さな問題から政治・経済・外交問題など広大無辺に亘るものであります。つまり、人生とは問題解決の別名に他ならず、これに如何に対処するかの基礎的理論や技法を教えることは、ある意味で、何にも優先する最重要の教育目的であります。
上記を合成すれば、おのずから「問題解決の具体的方法論」を学校教育の一環として実践するという、言わば一石二鳥の起死回生策が俎上に上がって参ります。
このような「問題解決の具体的方法論」はまさに教育の究極の本質でありながら、目先の利益優先の近視眼的な偏差値教育に汲々とする余り、これまでの学校教育では見向きもされて来なかった分野であります。
逆に言えば、偏差値の云々の問題も、つまるところは、人生の「問題解決」のための数ある手段の一つに過ぎないのであり、本来の目的たる問題が根本的に解決されれば偏差値云々にこだわる必要はないのです。
否、むしろ偏差値云々のいかんなど枝葉末節の問題であり、「問題解決の具体的方法論」を体得させることこそが私立学校教育の焦眉の急と心得るべきなのです。
この教育を(受験指導とは別の体系として)他に先駆けて確立しシステム化することが、結果として、画一的な今までの学校教育では生み出し難かった、例えば、リーダーシップ、自立性、独創性、国際性を具有した人物を輩出することになり、私立学校への社会的な評価や信頼はいや増すことになります。
激動の世界大競争時代を迎え、偏差値一辺倒の知識教育が行き詰まった今日、私立学校は徐々に上記のごとき方向に教育の目標を方向転換すべきであると考えます。
蛇足ながら言えば、現代の日本において最も適切な問題解決の方法は、あらゆる角度から見て故城野宏先生の提唱された「脳力開発(狭義の脳力開発+情勢判断学)」であると断言できます。
とは言え、問題解決は結局のところは、抗争・葛藤・勝敗といった概念に行き着くゆえに、いわゆる「戦いという事象」を簡潔に理論的に総括するところの兵書孫子の戦略的視点を究明する必要があります。
つまり、孫子を理論篇とし、脳力開発はその実践論という位置づけで問題解決の体系的システムが構成されるわけであります。でき得れば、精神的・肉体的練磨という意味で、上記に日本古来の古武術(いわゆるスポーツ武道・競技武道に非ず、ましてや剣道やダンスの必修などとは似て非なるもの)の実践行を加味すればまさに鬼に金棒と言えます。
例えば、このような教育を前提としての進学校であれば、不正な手段をもって誇大宣伝を宣伝せずとも学びたいという希望者はいや増すことでしょう。
いずれにせよ、日々生起する様々な問題をテーマに、正規の授業の一環として、上記手法を駆使して問題解決の方法を具体的に体で覚え、それを通して思考力・精神力を磨くことはこれからの私立学校の目指すべき方向であると断言できます。
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