孫子兵法

孫子兵法

第一回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔1999/07/01〕

                 一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍



 〜 孫子兵法の真訣 〜


 皆様こんにちは、孫子塾の佐野寿龍です。今回はいよいよ創刊号発刊の運びとなりました。末永いお付き合いをお願い申しあげます。

 さて、ご承知のとおり孫子の思想体系は、極めて深遠・広大でありますから今回はとりあえずビールでも、ではなくて軽い話題から入りたいと思います。
 とはいえ、これは孫子を学ぶ上において大変重要なテーマを含むものでありますから、その辺をご留意の上お読みいただければと思います。

 孫子<第二篇 作戦>に次ぎの言があります。

『夫れ、兵を鈍らし鋭を挫き、力を尽くし貨をつくせば、則ち諸侯、その弊に乗じて起こり、智者有りと雖も、その後を善くする能わず。』と。

「孫子」(金谷治訳注)に拠れば、上記の文意は次ぎのように解説されています。

「もし軍も疲弊し鋭気もくじかれて、やがて力も尽き財貨も無くなったということであれば、外国の諸侯たちはその香u窮につけこんで襲いかかり、たとい味方に智謀の人がいても、とてもそれを防いでうまくあとしまつをすることはできない」と。

 

 余談ですが、いわゆる善後策とは、上記の原文である『不能善其後矣(其の後を善くする能わず)』の「善」と「後」から生まれた熟語です。
 一般には「後のためによく計ること」の意と解されています。

 それはさて置き、孫子の解釈はこれからが本番です。

 つまり孫子は、上記のごとく原文・読み下し文を右から左へ訳しただけではその真意を掴まえることはできません。

 しからばどうするかであります。

 孫子の特色の一つは、一見、逆説に満ちているように見える所にあります。がしかし、そう見えたのは我々の常識的発想の歪みに起因するものであり、孫子の説くところは、逆説に非ずして極めて現実的・具体的なノウハウを教えているものであることに気付くのです。

 たとえば、上記の例で言えば、その訳はまさにその通りであり、「漢文・中国古典」の勉強としては申し分無いものでありますが、これを我々の現実の生活にどのように活かすのか、と問われると香u惑する向きも多いものと思われます。

 何となれば、孫子は過去の出来事たる「漢文・中国古典」の勉強ではなく、まさに現実的な「将来」のこと、即ち、『将(まさ)に来たらんとす。之を待つこと如何。』<第十一篇九地>のごとき状況をいかに解し、いかに対処するかを学ぶものであり、自ずからそこには「いかに勝つか」の思想の何たるかが体系的に語られていなければならないからであります。

 つまり、孫子は(紛れもなく漢文であり中国古典ではありますが)あくまでも「いかに勝つか」を目的とする兵法を論ずるものゆえに、その肝心の根本を除外して単に「漢文・中国古典」の勉強としてこれを理解しようとしても自ずから無理が生ずる、と言うことであります。もとより孫子理解の入り口としては必須な要素でありますが、それだけでは孫子の本質には迫れないと言うことです。一般に、(そのような方法で)孫子をいくら読んでも、その現実的活用は難しいと評される所以(ゆえん)であります。

 

 閑話休題。そこで、この段の文意をよく観察してみると、孫子の真に言いたいことは上記文意の逆説である「そうなる前に、そうならないように手を打て。それが智者(リーダー)と言うものである」と素直に理解されるはずであります。

 斯くの如く解すれば、時と空間を超えて孫子は我々の友として直ちに蘇ってくるのであります。

 例えばこんな話があります。

 ある所に孫子兵法の大家と称される経営コンサルタントがいました。腕の善い彼の事務所は評判を聞きつけたクライエントで何時も一杯でした。そんなある日、目を血走らせ、顔面蒼白の中小企業の社長が息せき切って駈け込んできました。

大家:いったいどうされたのですか。

社長:た、た、大変です。明日の手形が落ちないのです。何とかして下さい。

大家:なぜ私のところに来たのかね。

社長:何か凄いことが書いてあるらしい孫子兵法の大家と聞きましたんで、こんな時こそ善い智恵を授けていただけるのではないかと思いお邪魔しました。一つ教えてください。どうしたらよろしいのでしょうか?

…… 中略 ……

大家:お話の内容ではもう手遅れですね〜。

社長:なにか打つ手はありませんか。

大家:ことここに到ればもう無理ですね。思い切って万歳するしかないでしょう。

社長:孫子には大変な智恵が書いてあるんでしょう。もったいぶらないでコッソリ教えて下さいな。恩に着ますよ。
大家:残念ですが、孫子にはどこを探してもそのような事は書いてありません。
   (社長、大いに驚き、息巻いて聞く)

社長:では一体なにが書いてあるので ?

大家:『そうなる前に、そうならないように手を打て』と書いてあるだけです。
   (社長、とたんに額に青筋を立て激怒する)

社長:ふざけるな !!
  そんなことはいまさらお前に聞かなくても俺はとっくに分かっとる。
  分かってはいるが、現実にいま明日の手形が落ちないからどうしたら善いかその智恵を
  借りに来たんじゃ !!
  そんなくだらないお説教を聴きに来たんじゃない。
  そうだ、俺にはもう時間がないんだ。こんなヤツと浴vしているヒマはない。
  (社長、あたふたとドアを蹴飛ばし、黄昏せまる薄闇の街へと消えていった)

 この話は、いろいろな意味で孫子兵法の本質を語るものであります。

(1) 兵法とは、そうなる前にそうならないように手を打つことである。大阪城が徳川方に十重二十重に囲まれてしまってから「さあ困った、どうしよう、何か善い智恵はないか」と悪あがきするのは兵法ではないのである。

 日頃から心掛け、徹底して準備し、いざ困っても困らないのが兵法である。 とはいえ、(前記社長の例ではないが)言うは易く行なうは難いのが兵法である。であるがゆえに、彼の宮本武蔵は、実際に「使える」ように平素から徹底して鍛錬せよ、と曰うのである。

「俺はそんな事はないさ」とタカをくくっている貴方、決して他人事ではありません。 リストラによって、如何に「職安」が元サラリーマン諸氏達で溢れ返っているか、 その例だけで十分であろう。

 言葉は悪いがサラリーマンしかできないからなのである。思い込み・希望的観測・主観の問題ではなく、厳しい現実・客観の問題なのである。

 このゆえに、孫子は『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』と曰うのである。

(2) その智恵の主体者は誰か。
 あろう、他ならぬ自分自身であり、組織で言えば社長であり、リーダーなのである。

(3) その智恵は、自己の立場に立脚し、自己の特殊性と普遍性を熟慮し、無い頭を絞り(頭の良し悪しではなく、頭を使うか使わないかの問題)、普段から徹底して考え抜き研究し尽くして初めて生まれるものである。

 マニュアルか何かで、アンチョコに他人の頭を借りて済まそうなど論外である。

  況や、そんな本質的なことも分からず、土壇場になっても、「俺は分かっとる、善い智恵が出ないのは社員や部下、ブレーンが悪いからだ」などと厚顔無恥にも言えるのは、まさしく己の無知そのものに気が付いていない本物の馬鹿と言うべきであろう(素よりこのようなタイプの人は極めて少数派ではあろうが)。

 まさに、リーダー失格を自ら表現しているものと知るべきである。

(4) 真の意味での「善後策」とは、『そうなる前に、そうならないように手を打つ』こととも解される。これができない人は潔くリーダーの職を辞すべきである。

(4) 斯かる原理はすべてに普遍的に当てはまるものであり、ここに孫子兵法が二千五百年の時を超えて今に蘇っている最大の理由に他ならない。
 つまり孫子の説くところは極めて応用性が高いのである。一例を挙げよう。

 例えば、男四十歳(寿命が延びたので今は五十歳か)にして自分の顔に責任を持てとよく言われる。多分これは、それくらいの年齢になるとそれまでの人生行動が如実に顔に現れることを言うものであろう。

 何時の間にか自分もその年齢にとどいてしまったある人が、ふと周囲を見渡して自分と同年輩の男性のあまりに無責任な呆けた顔の多さに愕然とし、改めてその格言のシビアさを実感したとする。

 自分はああは成りたくないと決意した彼が、生活習慣を改め勉強に励むようになったのは、それから間も無くのことであった。

 そのとき彼の心の支えとなったのは、孫子の曰う『そうなる前に、そうならないように手を打て』であった事はもとよりのことである。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。

 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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古伝空手・琉球古武術のすすめ

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