孫子兵法

孫子兵法

第十二回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔1999/12/16〕

                 一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍



孫子と兵法「三十六計」シリーズ(その三)

借刀殺人と孫子兵法との関係



一、第一部 勝戦の計・第三計「借刀殺人」について

(1)計名の意味

 第三計の計名にいう「借刀殺人(しゃくとうさつじん)」は「刀を借りて人を殺す」読みます。この計は、軍事的には、自己の実力を保存するために、敵対関係の矛盾を巧みに利用し、他国の力を借りて敵を撃破する策略をいいます。また、謀略的には、敵国内部の人間関係の矛盾を巧みに利用して、君臣浴v間の計をめぐらし、自分が滅ぼしたい敵国の重要な将軍や策士を(敵の手によって)謀殺する策略をいいます。

(2)第三計の解題(内容の大意)

 『敵すでに明らかにして、友いまだ定まらざれば、友を引きて敵を殺さしめ、自ら力を出さず、損を以て推演す』

 「損」は、「易」の損卦・山沢損(さんたくそん・損して得とれの意)を指すものであり、ここでは、友軍が敵を攻撃することで損失を受ける可能性があることをいう。推演(すいえん)は、推衍とも書き「おしひろめる・敷衍」の意です。

 この第三計・解題の意は、「敵が我を攻撃しようとしている兆候はすでに明らかであるのに、わが友軍はまだ態度を決めかねている。こんなときは、さまざまな手段を講じて友軍に敵軍を攻撃させ、我が兵力の温存をはかることが重要なのである。これこそ『易』損卦(そんか)の応用というものである」となります。

 つまり、「借刀殺人」は易の損卦の理(損とは下を損して上を益すこと・損して得とれ)を応用したものであり、いわゆる「人の褌(ふんどし)で相撲を取る(他人の物を利用して自分の事に役立てる譬え)」ということに通じます。

 これには、既述したように、自分の手は使わずに、第三者の力を利用して敵をやっつける場合と、第三者の力を借りるのではなく、敵内部の矛盾を巧みに利用して君臣浴v間策を講じ、自分が滅ぼしたい人物を敵の手によって殺害させ、その国力を弱めてしまう場合の二つの側面があります。

 

二、戦例

(1)借刀殺人 その一(第三者の力を利用する場合)

 魏に攻められて首都・邯鄲(かんたん)を囲まれた趙は、斉に救いを求めてきました。「魏が邯鄲を攻め落として強くなれば、斉が危うくなる」との賢臣・段の進言に基づき、斉王は急いで出兵し、邯鄲の郊外まで兵を進めました。
 ただちに邯鄲包囲中の魏軍の背後を攻めようとした斉王に対して、再び賢臣・段は「趙を助けることも斉を危うくすることです」と進言しました。

 「理由のある意見」であると納得した斉王は、然らば、といって守りの手薄な南方魏国の根拠地・襄陽を攻めさせたのです。
 斉軍が襄陽を攻めている間に、邯鄲は陥落して趙の戦力は弱まり、襄陽を攻められたことによって魏もまた疲弊したのです。
 つまり、斉は一挙両得、しかもあまり戦力を使わないで、隣接両強国の脅威をともに取り除くことができた、というわけです。

(2)借刀殺人 その二(敵の内部矛盾を利用して、その国力を弱める場合)

 永禄三年(1560)年八月、石見を席巻して出雲に進出し、尼子氏と決戦しようとしていた毛利元就が最も恐れていたのは、尼子一族の最精鋭たる新宮党の戦力でした。

 新宮党とは、尼子の当主・晴久の叔父、国久の一族三千で、名将の誉れ高い国久の統率下に一門みな剛勇をもって鳴り、尼子の柱石と謳われていました。
 毛利軍がこれまで苦戦を重ねてきたのは一重にこの新宮党のためだったので、元就はなんとかして決戦前に、この戦力をなきものにしようと苦慮していたのです。

 元就は、国久が毛利に内通しているという流言・埋言(まいげん)を放ち、さらに元就から国久宛の密書(尼子の当主・晴久を殺せば、出雲、伯耆の二国を進上するというもの)を持たせた密使を尼子領内で暗殺させて(孫子でいう死間)、これが主将晴久の手に入るように仕掛けたのです(いわゆる君臣浴v間策である)。

 常識的に言えば、こんな見えすいた策に乗せられる人間などいるはずがないと思われるが、あにはからんや、現実はそうではないのです。
 人間心理はもとより一定不変のものではなく、そこにはおのずから溝ができ易いものなのであり、理屈だけで解決できないのがこの吹uの定めと言えるのです。

 つまり、疑いの目をもって見れば、背信の兆候はいくらでも湧きでてくるのであり、そこに浴v間謀略に乗りやすい悲しい人間の性(さが)があるのです。

 ともあれ、晴久はついに元就の術中に陥り、罪もない国久一族を殺して、自らの手で最大の敗因を作ってしまったのです。

 

三、孫子との関係

(1)「借刀殺人 その一」との関係

 孫子の戦略思想は、多数国家共存の中での生存求v争にいかに勝ち残るかをその本旨としており、端的に言えば、「対多敵配慮」と「自己保全」が基本になっています。 これを如実に表しているものが『則ち諸侯、其の弊に乗じて起こり、智者有りと雖も、其の後を善くする能わず』<第二篇 謀攻>なのです。

 上記のごとき事態を防止するための、逆に言えば、自国の兵力を温存するための一つの手段が、「借刀殺人その一」であると解せられます。

 とは言え、これは相手のある話であるから、常に成功するというものではありません。 結局、最終的に頼れるのは自国の力の充実と戦争への対処の本質的方法を知ることに尽きるということになります。

 そこで孫子が主秩vするのが『拙速』なのです。これは、巷間いわれているように、戦術的な意味での「準備は拙くても速くやる(速戦即決の意)」ことではありません。あくまでも国家戦略の観点から述べられているものなのです。

 つまり、戦争は用意周到・万全に準備・計画した上で(これが拙いと当然、戦争には勝てない)、短期決戦を目指すものではあるが、その勝利の度合いがたとえ不十分であったとしても、それが(戦争を手段とする)政治の目的を達成するのに十分なものであれば、それで良しとすべきだというのです(これが「拙」の意味)。

 相手を完膚なきまでに叩くことにこだわることなく(逆に言えば、戦火が拡大してゆくのが戦争の偽らざる実態であるから、それに流されることなく)、一定の勝利を得たら、むしろ戦争を早く終結させ、戦争本来の目的である政治目的を早期に達成し(これが「速」の意)、その果実を活用する方が国力保全の見地から見ても得策である、を曰うものなのです。

 言い換えれば、そのような方法により以前にも益して更に国力を充実させることを目的とするのです。
 このことを孫子は、『敵に勝ちて強を益すと謂う』のです。これが多数国家共存の中での生存求v争に勝ち残る道だと曰うのです。
 この基本認識を踏まえた上で、例えば、「借刀殺人その一」の策を採用するのが順というものであり、逆の場合は(即ち兵法はトリックなり、と誤解して策のみに走れば)、「策士、策に溺れる」の類になりかねません。

 「あくまでも王道を往く、その上での策である」 、これが孫子の主秩vするところと解されます。

(2)「借刀殺人 その二」との関係

 既述した毛利元就の新宮党謀殺作戦では、孫子の曰う『死間』が登場しましたが、この計の、中心をなすものは言うまでもなく敵国内部の詳細な情報をいかに収集するかにあります。そのためには「死間」はもとよりのこと「因間・内間・反間・生間」の五間を活用することが必要です。

 孫子はこれを次のように曰います。


 『故に間(かん・スパイの意)を用うるに五有り。因間有り、内間有り、反間有り、死間有り。生間有り。五間倶(とも)に起りて、その道を知ること莫(な)きは、是を神紀と謂う。人君の宝なり』<第十三篇 用間>


 孫子は、別名「先知の兵法」とも言われますが、これを端的に表しているものが有名な『彼を知り己を知らば百戦殆(あや)うからず』の言であります。
 この基礎を成すものが情報なのであり、その為の最も重要な要素が「用間(間諜を用いること)」にあることは言うまでもありません。

 このゆえに孫子は曰うのです。

『此れ(用間・情報)兵の要(かなめ)にして、三軍の恃(たの)みて動く所なり』<第十三篇 用間>と。

 

 逆に言えば、孫子の<第十三篇 用間>は、(言わずもがなのことではありますが)、第三計の「借刀殺人」のみに限らず、兵法三十六計を用いるに当たっては、その大前提としてすべてに係ってくるということがいえます。

 孫子が兵書中の兵書と称される所以であります。それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

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