第十五回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』
〔2000/08/17〕
一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
河川水難事故と「自己責任」を考える
◇◇ 解説 ◇◇
去年八月十四日、神奈川県山北町の玄倉(くろくら)川で濁流にのまれて幼児と子供を含む十三人が死亡するというキャンプ増水事故が起きてから、一年が経ちました。
新聞報道によりますと、この夏も、事故現場となった河原には、青や黄色のキャンプが点在し、家族連れや若者がバーベキューや水遊びを楽しむ姿があちこちに見られたそうです。
しかし、残念ながら、あるいは予想どおりというべきか、あの事故の教訓としての「川は危ない」という意識は殆ど定着してはいなかったということです。
七月初めの大雨警報の際にも、町や警察の呼びかけでようやく河原から避難を始めたキャンパーもいたということです。
まさに、あの事故を教訓とするどころか、アウトドアを「楽しみたい」という目先の欲望に振り回される懲りない面々によって惨事はまた繰り返されることを示唆するものと言えます。
とは言え、この手の余暇活動における安全確保は「自己責任」が原則であるため、警察官が、たとえ危険が迫り来る状況であると判断しても、(その状況に対する認識が異なる)当事者にそれを強制できないというジレンマもあります。
なぜならば、そのような強制は民主主義の根本である「行為の選択の自由」に抵触するおそれが生じてくるからです。つまり、(余暇活動としての野外活動において)河川は道路や公園と同じく、他人の使用を妨げない限り、自由使用が原則であり、その安全確保も「自己責任」が原則というわけです。
言い換えれば、孫子の曰う『勝つ可からざるは己に在り』<第四篇形>(敵に敗けない態勢をつくる原因は主体者たる自分にあるの意)、あるいは脳力開発でいう「主体的姿勢、原因と条件」という問題になります。
つまり、県や町がそのような「自己責任」を側面支援するために、安全確保の情報提供・制度づくりをいくら行なっても、所詮それは条件に過ぎず、最終的に決断するという原因は、自由活動としてのアウトドアを楽しむ当事者自身にあるということなのです。
報道によれば、去年の事故後、神奈川県は川への道沿いに「雨の日の河原のキャンプは要注意」の横断幕を掲げ、また、山北町もこの七月、丹沢湖畔に安全祈願の碑を建てたということです。
しかし、無謀・無責任なキャンパーを目の当たりにしている地元関係者から見れば「碑や横断幕で事故が無くなるくらいなら、最初から注意も聞くはずだ。聞かないから問題なのだ」というのが偽らざる心情のようです。
アウトドアでは、楽しみたいがために、つい能力を超えたり、道徳心を欠いたりした行動を取りがちであるという現実を指摘する声と言えます。
人間「性悪説」ならぬ「性弱説」というべきなのかもしれませんが、ともあれ、自己責任という問題の本質はこの辺にあると言えます。
ところで、この八月六日、群馬県水上町の谷川岳・湯檜曽(ゆびそ)川で、サッカー少年団の子供ら三十一人が鉄砲水に襲われリーダーの男性が死亡するという事故が起きました。
もとより、避難の呼びかけ応じなかった玄倉(くろくら)川の事故と、鉄砲水の予測が難しかった湯檜曽(ゆびそ)川の事故は同列には論じられませんが、しかし、自己責任という点においては全く同一のものであります。
ここでは、この二つの河川水難事故を取上げて、自己責任とはそもそも何なのか、このような状況下では如何に対処すべきか、などについて孫子兵法・脳力開発の立場から考えて見たいと思います。
湯檜曽川事故のサッカー少年団は、一ノ倉沢方面へのハイキングの帰路、沢遊びと足腰のトレーニングを兼ねて湯檜曽川に降り、七十メートル位の隊列で、宿に向かって河原を下っていたということです。
地元の人はこの川での鉄砲水は決して珍しくないと言います。従って彼らが川に行くときは、常に「川の奥」を気にしながら歩くのが常識だということです。
孫子は渡河作戦の心得として『上に雨ふりて、水末至らば、渉るを止めて、その定まるを待て』<第九篇行軍>と曰っています。(上流で雨が降ったかどうかは分からないが)少なくとも水が泡立って流れてくれば、いつ急に川上から水が満ち溢れてくるか分からない兆候である、と曰うのです。兵を溺れさせたり、物資を大量に失う恐れがあるので、リーダーたる者これを心得よということです。少なくとも「川の奥」を気にし、水流が泡立ってくる意味が分かれば、この事故は磨u然に防げたと言えるのではないでしょうか。
また、このような地形の沢は、まさしく孫子の曰う『囲地』に該当します。
囲地とは、『彼寡(小兵力)にして以て吾が衆(大兵力)を撃つ可き者』<第十一篇九地>を曰います。つまり、敵にとっては小兵力で我を包囲し易い有利な地であり、我にとっては大兵力を発揮できない極めて不利な地であることを曰います。
ではどうすれば良いか。
孫子は『囲地には則ち謀れ』<第十一篇 九地>と曰います。つまり、囲地にあってはおよそ無策であってはならないというのです。この場合で言えば、包囲されないようにすることとは、つまり、鉄砲水を避けるための逃げ道を常に両岸に確保しておくことであり、あるいは、そのように心掛けながら河原を歩くということです。
曹操は、「(囲地には)奇謀を発するなり」と曰っています。そうしなければ助からない地形が囲地であると曰うのです。リーダーとしてよくよく心得よということです。
報道によれば、地元の人は、鉄砲水のことを「猫まくり」と呼ぶそうです。壁のように押し寄せる水の波頭が猫の前足のように曲がる様子からきた言葉とされています。生暖かい風が吹き、ミミズをいじったような泥くさいにおいがしたら、それが「猫まくり」の前兆だと言うのです。
孫子は、『郷導(地元の人の土地案内人)を用いざる者は、地の利を得ること能わず』<第十一篇 九地>と曰います。この場合の地の利とは、沢遊びと足腰の鍛錬に河原を利用するということです。要するに郷に入っては郷に従えで、地元の人の情報を適確に収集し、これを利用しなければ目的は達成できないと言うのです。
遭難した人は「十数年来、訪れていて何事も無かったからまさかこのようなことが」と絶句していたそうですが、その「まさか」に対処するのが自己責任の厳しさであることを知る必要があります。
河川での予知せぬ危険を避けるためには、自己責任の名において、ここまでの計算と思考が必要であるとの例を示したわけですが、ましてや、危険が予知されたにもかかわらず退避の呼びかけに応じなかった玄倉川事故の場合においては、その無責任ぶりには怒りすら覚えるものがあります。
とりわけ、玄倉川事故の場合は、リーダーシップが存在しない集団であったところに十三人もの犠牲者を出してしまった原因があるようです。
もとより、レジャーという自由な仲間のグループには、常に上下関係が存在するものではありません。
しかし、自己責任という観点からすれば、誰が最終判断をするのか、という問題は避けて通れないのです。
どんな形であれ、人間が組織的にプロジェクトを進めていく以上は、リーダーは不可欠の要素なのです。ましてや、危険な河原でキャンプするとなると、もはや、好き嫌いの感情の問題ではないのです。
今の一般的社会風潮を見れば、満たされないヒーローへの欲求をスポーツ・芸能界・マンガの吹u界に求めているようです。しかし、よく考えて見ると、たとえば、巨人が勝とうが負けようが、個人の実生活には何の関係も無いことです。
むしろ、真のヒーローの存在とは、ブラウン管やスポーツ新聞の中にあるのではなくて、日々命を賭けて生きている個々人の生活の中に求めるべきであり、更に言えばそれを支える個々人の決断の中にあるのではないでしょうか。
あの玄倉川事故で、当事者が危険を察知して退避するかどうかの判断、つまりは十三人の犠牲者を出すか出さないかの判断は、長島巨人が試合に勝つか勝たないかの判断よりも遥かに重く、価値のあるものと解すべきなのです。
その意味において我々は、真の英雄的行為とは何かという原点をすっかり忘れてしまっているようです。現実に人の命が懸かっている場で、人の命を救う、これこそが英雄的行為なのです。スポーツは娯楽であって、負けても勝っても人の命は懸かっていないのです。あくまでもストレス解消・息抜きの類と知るべきなのです。
この吹uを生きる上での自己責任とは、自分以外に誰も自分を助けてはくれない、最後の決は自分で取るしかないという覚悟であります。
言い換えれば、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第十篇地形>という「忘己利他(もうこりた・己を忘れ他を利する)」の境地ではないでしょうか。
昨今、これが分からない人が、アウトドアはもとよりのこと、政・官・財等々の場に、多数、跳梁跋扈しているのは誠に嘆かわしい限りであります。その無責任な行為の結果、誰が迷惑するのかは言わずもがなのことでしょう。
たとえば、あの玄倉川事故の捜索費用は、消防団の人件費など約4800万円に上りましたが、すべて税金で賄われたわけです。
「堰u米では、規則や警告を無視して起きた河川事故捜索費用はすべて自己負担だ。日本でもこれを採用すべし」との声も根強くあります。
そこまでしなければ自己責任の考えが定着しないとは、日本人として実に情けない話ではありますが、逆に言えば、自己責任とは、このような性質のものなのであり、難きを避け、易きに付き易い人間の本性に深く根ざした問題とも言えるのです。
ともあれ、無責任時代と言われる昨今、自己責任というテーマは、ひとり、アウトドアの事故防止に関係することのみならず、実は、我々の生活全般に深く関わってくる極めて重要な問題と言わざるを得ません。
それでは今回はこの辺で。
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とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
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