孫子兵法

孫子兵法

第十七回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔2001/08/18〕

                 一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍



『歴史教科書問題と靖国神社参拝問題の中心点』


◇◇ 解説 ◇◇

 孫子の<第十一篇 九地>に『先ずその愛する所を奪わば、則ち聴かん』の言があります。この夏も論議を呼んだ「歴史教科書問題」と「靖国神社参拝問題」は、日本にとってまさにこの「愛する所」に該当します。「愛する所」とは、つまるところ、「弱み・アキレス腱・触れて欲しくない所」であり、中国・韓国の主秩vまさにここを衝くものなのです。

 連日マスコミ等を賑わした喧喧諤諤たる論議の最大の盲点は、我々日本人が「弱み」の真の意味を理解していないということにあります。一般に理解されている「弱み」は、「日中戦争・太平洋戦争は確かに日本が引き起こしたものだ、従ってそこを衝かれると弱い、しかし、既に戦後半吹u紀も過ぎたことだし、いつまでも過去のことを言い立てるのはもう好い加減にしてもらいたい」という意味での「弱み」、言わば「負い目」としての「弱み」であります。

 しかし、実は真の意味での「弱み」は、そこにあるのではなく、日本が先の戦争という大問題の本質を白日の下に曝そうとせず、ひたすら臭い物には蓋式の頬かぶりを決め込んでいるという事実にあるのです。中国・韓国が主秩vする点は初めからそこにあるのであって、過ぎ去ったことをアレコレ言っているわけではありません。

 彼らは一貫して「戦争責任は日本の人民にはなく政治家や軍人にある」と言っているのです。然るに、ことの原因が一向に解決していないから、いつまで立ってもそのことを論(あげつら)うという構図なのです。

 簡単に言えば、日本は、国家として先の戦争責任を自らは全く追及していないし、従って、外国から見れば真の反省の有無も極めて疑わしいということなのです。個人であれ、組織であれ「正しい自己反省」は不幸を降伏に変える特効薬であります。

 孫子はこのことを『迂を以て直と為し、患いを以て利と為すにあり』<第七篇 軍争>と曰っています。まさに、反省なき所に進歩はないのであり、そのことを如実に物語るものが戦後社会のツケとして現れたバブルの崩壊であり、それに続く今日の社会的退廃現象の数々であります。

 人間(国家)が人間(国際)社会で生きる上において何が本質なのか、その根本義に眼を背け、ひたすら目先の経済的利益のみを至上のものとして追いかけて来た結果とも言えるのです。

 中国・韓国が恐れているのはこの節操なき「一億玉砕火の玉」となってはばからない民族的な性癖そのものであることを謙虚に認識すべきなのです。まさに、これは中国・韓国の問題ではなく、我々日本人自身の問題に他ならないのであります。

 ここに思いを致すことができず、何事であれ大勢順応型で「長いものには巻かれろ・仕方がないさ」で済まそうとする我々ゆえに、外国から不信の目が注がれるのであり、マッカーサーをして、日本人の精神年齢は十二歳だ、などと・u諛されることになるのです。

 反省という意味は、理屈・理性・知識・言葉ではなく、行動・態度(とりわけ国家のシステム)として中国・韓国に理解されているかどうかと言うことです。

 孔子は「信なければ立たず」と曰っております。ことこの問題に関しては、日本及び日本民族の思考・行動は彼らに信用されていないということなのです。

 ところで、インドの「オオカミ少女」の例を持ち出すまでもなく、人間は環境と教育の如何によってどのようにでも変化して行くものです。ゆえに、我が日本民族も初めからこのような無責任・破廉恥な性質ではなかったはずです。
 否、むしろ勇気と恥を知る吹u界に冠たる優秀民族であったはずなのです。いつから、なにを契機としてこの国のあり様は斯くも忌まわしい体質に変化してしまったのか。

 我々は外国から指摘される前に、自らを省みてその原因を探る義務があるのです。その行き着く先は、まさにリーダーとは何かを問うものでありますが、それを踏まえてこその戦争の反省であり、そのゆえにまた、今後の日本の進むべき道を知るよすがとすることができるのです。

 これを反省するための最適の教材としては、幕末の動乱から西南戦争・日清・日露・そして日中戦争・太平洋戦争へと辿ってきた道のりを知ることであり、その歴史的事実を明らかにすることであります。

 とりわけ、日露戦争までの日本の存亡の節目節目には必ず、人の上に立つリーダーとしての責務を自覚し、命を賭してきた人々の純粋な行動があります。

 その点、日中・太平洋戦争の場合は、明らかに、軍部・軍閥の奢り、傲慢さが我が物顔に跋扈し、純で騙されやすい日本民族の体質を逆手に取り、これを塗炭の苦しみに落とし込んだのです。そこには凡そリーダーとは似て非なる異質なもの、まさに真の意味での国賊・非国民の臭いがふんぷんとしているのです。

 このような似非リーダーの跳梁跋扈を許し、それに対して異議申し立てすらできなかった日本人の民族的欠陥に対して我々は先ず反省すべきなのです。

 残念ながら、この体質は何の反省・改善も無いままに、戦後社会にそのまま引き継がれ、今日の日本に蔓延する政・官・財癒着の社会構早uを形成したのです。

 日露戦争までのリーダー達は、まだ武士道教育の残影と香りが色濃く残っていたため、おのずからそこには民族の危機に対する思考訓練と節度ある対応の仕方を心得ていたのです。

 今、我々が漠然と恐れているものは、リーダー不在にして、かつ何処に行くかも分からない船に乗り合わせている不気味さであります。そして、それは武士道教育の残影も絶え、明治が遠くなるとともに、代わって登場してきた総合的視野に欠けるいわゆる学校秀才たちによってその萌芽を見ることができるのです。

 リーダーの資質とは何の関係もない、単に学業成績優秀のゆえを以て各界のリーダーとして遇せられ始めたその功罪が、まさにそれ以前とそれ以後の日本の歴史を分けるメルクマールなのです。言い換えれば、明治以降の我が国は、真にリーダーたる資質を持つ人材の養成を怠って来たということなのです。

 その意味でも、先の戦争におけるリーダー達の責任は明確にすべきだったのです。にもかかわらず、日本人は戦後半吹u紀、現在にいたるまでなお、その最大重要課題を突き詰めることなく放置してきたのです。これはまさに組織の思考停止とでも言うべき現象です。

 尤も、同じ穴の狢、あるいは泥棒に縄をなえといっても、言うは易く行なうは難しというのが実態でもあるため、その最終的責任は我々国民一人ひとりのあるということになるのですが。

 ともあれ、国家としてのあるべき姿、進むべき理念も明確にしないまま、戦後の復興という旗印、あるいはその延長線上に血道を挙げてきたとということです。おのずからそこには、人間として、日本人として、如何に生きるべきか、国とはなにか、社会とは何か等々の根本的な魂が弊履の如く見捨てられたのです。

 その結果が、理念・モラルなきゆえに生じたバブルの崩壊であり、近年に顕著な社会的退廃現象なのです。

 確かに、人は、パンがなければ生きられないのは事実です。しかしまた、人はパンのみにて生くる者に非ず、でもあるのです。

 失われた、良い意味での日本人の魂、香り高い武士道精神をいかに蘇らせるか実に重要な問題なのです。本来であれば、先の戦争を厳しく反省し、どの点が日本人の魂を汚し、どのような考え方が、武士道精神を落とし込めたのか、それを踏まえつつ戦後の復興にとりかかるべきであったのです。

 その意味では、単なる町人国家的経済主義の金は出すが自ら血は流したくないという似非(えせ)反戦・平和の国ではなく、勇気・信義・廉恥を重んずる吹u界に冠たる武士道の国として生まれ変わることもできたのです。
 中国・韓国が恐れ入るのはまさに今現在における日本人のこの体質なのです。

 口先ばかりの反省では、猿でもするということです。日本はこれを明確にしない限り、「歴史教科書」と「靖国神社参拝問題」は、言わば中国・韓国というゲリラに人質に取られているようなものですから、毎年、内政干渉の如き状態が繰り返されるでしょう。この問題に関して彼らの根底にあるのは、日本人に関する不信感ということを認識すべきであります。

 日本人は悪くないが、それを指導した軍部・軍閥・政治家の責任を明確にする必要性を強調する所以です。少なくとも、日露戦争までまの指導者は大局において誤りは犯さなかったのです。その意味で、この両者を比較し、心底その誤りを反省することが重要なのです。中国・韓国の他人がこれを言うということはよほどのことなのです。これを他人のせいと片付けずに、我がこととして考えることが重要なのです。日本人得意の感情論・短絡的発想で考えるべきものではありません。

 ともあれ、今、歴史教育のあるべき姿は、幕末からの終戦に至るまでの歴史的事実を客観的に問い直すことであります。事実を事実として勉強することは極めて当然のことであり、差別でもなければ偏向でもなく、ましてや戦争を愛好することでもありません。あの時代において我が父祖はいかに対処したのか、背景にはいかなる吹u界情勢があったのかを知るということです。これによって、当時の吹u界の様子、中国・朝鮮の状況、我が国の対応が明らかになり、どれが正しい選択で、どこから路線を間違えたのかが照らし出されてくることになります。

 間違っても反省しない、分かっていても変えようとしないのは決して本来の日本人の伝統ではないことが明らかになり、先の戦争がいかに頑迷な精神の下に遂行されたものであるかが一目瞭然となります。それを形作ったものは何なのかを追求することです。

 そして、付け加えるならば、遅れてきた帝国主義日本だけがなぜに批判されるのか、先んじて吹u界を好き勝手に分捕った堰u米の帝国国主義は批判されないのか、あるいはまた、そもそも侵略は相手がいてこそ成り立つものである。侵略されるだけの条件を自ら作っていた朝鮮・中国に反省はないのか、さらには、中国・韓国・そしてアメリカが日本を本当に恐れている理由は何なのか、という問題も浮上してくるのです。

 これらを再確認する意味でも、日本民族固有の魂の本源を知る意味でも近吹u吹u界史の正しい歴史教育は焦眉の急というべきなのです。中国・韓国を恐れてそれすらもまともにできないようであれば、今のリーダーと称している人々は社会混乱の原因であるから、いさぎよくその職を辞すべきであります。我々の血税はそのような無為徒食の輩を養うためのものではないからです。

 

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 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。

 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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☆古伝空手・琉球古武術のすすめ

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