孫子兵法

孫子兵法

第十八回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔2002/02/21〕

                 一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍



『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』
〜真のリーダーとは〜


◇◇ 解説 ◇◇

 

 孫子は全篇これリーダーの書である。兵書が、組織を率いていかに効率よく勝利をおさめるかを追求するものである以上当然のことである。

 その孫子に『故に進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ人を是れ保ちて、而(しか)も利の主に合うは、国の宝なり』<第十篇地形>とある。

 国益・国民の利益のために正しいと判断したことは、たとえ何を言われようとも断固実行し、反対に、国益に沿わない、あるいは国民の不幸になると判断したことは、たとえ罪に問われようとも断固としてこれを避けるという意味である。

 とは言え、もとよりリーダーは永久にリーダーというわけではなく、その時代、あるいは、その節目々で果たすべき役割・使命を持って登場するのがリーダーなのである。

 その意味で、妥協や隠蔽を続けてきた結果としての救い難い状況にある、今の日本に求められているリーダー像とは何か、ということである。

 

 先般、田中真紀子前外相更迭劇と大橋巨泉氏の議員辞職があった。前者は、まさに構早u改革の本質である政官癒着の腐敗体質にメスを入れるべく孤軍奮闘したにもかかわらず、つまり国家・国民のために正しいことをやったのに、悪者・厄介者扱いされ、小泉首相を筆頭とする抵抗勢力から袋叩きにされて追い出されたものであり、後者は、公約としての「小泉首相との直接対決」「徹底した情報公開」が所属する党内事情によって果たせないことを察知した結果としての、言わば自爆テロであるから、形は違っても田中真紀子氏の場合と同列に論じられる。

 

 彼らが好きか嫌いとかいう低レベルの問題ではなく、彼らが何を言いたかったのか、その真情を我々は謙虚に汲み取るべきである。

 外務省問題と鈴木宗男議員に関わる、まさに構早u改革の本質的な問題を、「言った、言わない」レベルに矮小化し、上記の外相更迭劇と巨泉氏辞職の問題を「好き、嫌い」で片付けるのは日本人の悲しい民族的な欠陥と言うべきである。

 われわれは、田中真紀子、大橋巨泉氏の真のリーダーとしての犠牲的精神と行動にこそ拍手を贈るべきである。それこそが成熟した社会というべきものである。

 孫子には『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>とある。

 本来の目的(政治改革・構早u改革の早期達成)を忘れ、敵(小泉首相からすれば厄介者と化した田中真紀子氏)をむやみやたらに殺す(外相更迭)ことは、結果的に目的実現の阻害要因となるため好ましいことではない。むしろ、これを逆用すべし、という意味である。

 小泉人気は、まさに孫子のいう『奇正の変』<第五篇 奇正>であり、実体は、田中真紀子氏の「正」に対して、小泉首相の「奇」と言うべきである。奇正はもとより一体ではあるが、あくまでも「正」あっての「奇」であり、「奇」のみの「奇」など所詮は、国民の正鵠を射た「正」なる判断の前には、単なる「奇」、つまりは小手先の誤魔化し、妥協、隠蔽、パフォーマンスとしか映らないのである。「正」をみずから切り捨てたまさに小泉首相の決断と実行力不足は、己自身の存在をも否定したものと言えるのである。

 

 また孫子には『辞の強くして進駆する者は、退くなり』<第九篇 行軍>とある。

 情勢判断において、言葉や表面的現象に惑わされるがごときは、知性がない証左と曰うのである。その代表的存在であるマスコミも一知半解のものと言わざるを得ない。

 もとより、人間社会の森羅万象を知り尽くすことなどでき得るはずもなく、また日夜、取材に狂奔している彼らに、情勢判断の基礎となる人間的素養を高めるための暇などあろうはずもないからである。にもかかわらず、あたかもすべての審判者のごとき傲慢な態度で伝えるから問題なのである。

 そもそも彼らの基本的態度は、ビジネスとしての話題のための話題づくりであり、その話題のタネが尽きることを最も恐れているものなのである。要は国益になろうとなるまいと話題づくりができればそれでいいのである。

 われわれは、そのような彼らの術中に陥ってはならないのであり、何が真実で何が真実でないか自分のアタマで主体的に判断することが、今、最も肝要なのである。

 このゆえにこそ、去る2月20日の、解説が何も入らない外務省問題に関する参考人質疑のテレビ中継は真実を語って余りあるものがあった。

 田中真紀子議員の他を圧倒するリーダーとしての実力は一目瞭然であり、それに比べれば、小泉首相・鈴木宗男・川口外相など取るに足らない政治屋的矮小な人物に過ぎない。

 一般的に言えば、現状を維持し権益を守ろうとするのが抵抗勢力であり、ことの真実を暴き出し、これを改革しようとするのが改革勢力である。前者のメンバーが得意の口先でいかに言辞を弄しようとも、その実体は普uい隠すべくもなく、真実を国民の前に曝け出してしまったということである。

 言ってみれば、お化け屋敷である官邸・外務省の「伏魔殿」に突如として朝日が差し込み、百鬼夜行の魑磨v魍魎(ちみもうりょう)の実体が露わにされ、なす術もなく右往左往している姿が如実に映し出された、ということでもある。

 

 田中真紀子議員の言うように、構早u改革の前にまずその土台となる政治改革が先ではあることは当然のとである。それを無視して構早u改革などできるはずもない。

 何となれば、政治家・官僚が平素から国民の血税を食い物にするなど国益・国民の利益を無視したデタラメナな政治を行い、構早u改革の痛みだけ国民に強要するようでは誰もついてゆかないということである。

 孫子はそのことを『令素より行なわれずして、以てその民を教うれば、即ち民服せず』<第九篇地形>と論じている。

 小泉首相を筆頭とする抵抗勢力は、口を開けば国士を気取り、予算の可決が優先などともっともらしいことを言うが、騙されてはいけない。それは真実を暴かれたくない抵抗勢力の言い訳に過ぎないのである。

 その予算を執行するのが現行の政治体制である以上、予算可決の前にやるべきことは、まず当面の政治改革、即ち、一連の外務省問題を白日の下に曝け出し、みずからの改革姿勢を国民に示すべきだからである。

 それなくして構早u改革など片腹痛い所業と言わざるを得ない。それができないというのであれば、潔く真の主権者たる国民に信を問うべきなのである。小泉首相はあたかも自身こそ構早u改革の主人公のような態度を取っているが、真の主体者は国民自身であることを忘れてならない。

 小泉首相得意の例え話で言えば、税金泥棒(抵抗勢力)が自分で自分を捕まえることなどある訳がない(道理に反する)。彼らを捕まえるのは泥棒されている国民自身であることを銘記しなければならないのである。それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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