孫子兵法

孫子兵法

第二回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔1999/07/16〕


一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍

 




 〜地形判断・状況判断・術との関係〜


 皆様こんにちは、孫子塾の佐野寿龍です。孫子塾ホームページの第二回講座を「孫子兵法から見た戦争論〜ここがヘンだよ、日本人の戦争と平和論〜」と題して更新しておきましたのでまだのかたは是非ご覧ください。またホームページ上では孫子に関する概論を解説しておりますので、当メルマガのサブテキストとしてご活用いただければと思います。

 

 さて孫子の特徴のひとつに「三段構えの論法」とでも言べきものがあり、文中に散見されます。この一例が<第八篇九変>に曰う「地形(地理的条件)を知ること及びその地形判断(その対処法・地の利)」と「状況判断」そしてこの両者の上位にすわる「術」との関係です。

 今回はこのことについてお話したいと思います。

 去る7月10日(土)の朝日新聞「声」欄に、群馬県高崎市に住む28歳の男性会社員(Kさんとしておきます)の方から次のような投稿が寄せられました。



『「高売上げ」「高利益」「高効率」、これらの言葉は、すべて優先される、そんな勘違いをし始めていたのかもしれません。
 近道と思ったあぜ道が行き止まりだったと気付いたときにはもう遅く、少し広い所で車を切り返そうとしましたが、駆動輪がドロに埋まって身動き出来ません。
 三十分奮闘するも、状況はひどくなるばかりで仕事の約束の時間が迫ります。

 

 取りあえず車を置いて行こうと歩き始めた時、畑仕事の女性が目に入りました。思いきって事情を話したところ、快く手助けのお返事を頂き、だんな様を呼んできて、トラクターで引っ秩vって下さいました。
 一人で苦労していた沼地から、うそのように車が引き出されます。梅雨の晴れ間の畑仕事はさぞお忙しかったはず。
 それなのに、嫌な顔もせず快く助けの手を差し伸べて頂きました。とかくあくせくと日々を送っていた私は、お二人にお会いした帰り道、自分の考えを改めることがたくさんありました。』


 この心温まるお話を例として、視点を変え上記しました「地形を知ること・その地形判断(その対処法・地の利)」と「状況判断」について考えてみたいと思います。

 この場合、地形とは物理的環境場面としての「行き止まりのあぜ道・沼地」、これに対する心理的環境場面としての地形判断(地の利)は「あそこを抜けると近道になるはずだ」、また全体的な状況判断は「効率優先からしても近道は良いことだ。そこを抜けるためにこのルートを選択する」となります。

 Kさんの場合、地形を知らなかったために空想的な「地の利」のイメージが先行し、これに起因し(見方を変えれば敵を知らないということになるので)全体的な状況判断にも狂いが生じてしまい、結局は「行き止まりのあぜ道・沼地」に向かうルートを選択してしまったのです。

 このことはつまり、地の利(ここでは近道すること)を得るためには、先ず地形を知り、次にそのことを含め全体的な状況判断が的確でなければならないことを意味します。

 <第八篇 九変>に、『故に、将、九変の地利に通ずるものは、兵を用うるを知る。』とあるのは、このことをいいます。

 逆に言えば、状況判断が的確であっても、地形を知らなければ地の利を得ることは出来ません。

 『敵の撃つ可(べ)きを知り、吾が卒の以て撃つ可きを知れども(これが状況判断)、地形の以て戦う可からざるを知らざるは、勝の半ばなり』<第十篇地形>とはこのことを言います。

 また逆に言えば、地形・地の利を知っていても状況判断が的確でなければ地の利は得られません。

 Kさんの例でいえば、たとえそのあぜ道が抜けられることを知っていたとしても、大雨・台風の後・梅雨時等の場合の状況判断に適切さを欠けば、やはり今回と同様の結果を招来します。

 <第八篇 九変>の『泛(はん)地には舍(やど)る無かれ』『塗(みち)には由らざる所あり』は、このことを言うひとつの例示と解せられます。
 ちなみに、現行孫子では「ひ(土偏に己の旁)地(崩れ壊れた土地の意)」と作りますが、ここでは竹簡孫子の「泛地」(足場の悪い湿地帯の意)に随っています。

 つまり、地形・地の利を知っていても、(その時に・その状況下で)通ってはならない道を通ると(状況判断が悪いと)地の利を得られない羽目(はめ)になることを言います。

 地形判断(地の利)と状況判断は自ずから別であり、地の利を得るためには、地形を知り状況判断が的確でなけれぱならないことを曰うものです。

 然(しか)らば、我々にとっての「地形」とは何か、「術」とは何かであります。

 まず「地形」ですが、これは我々の場を取り巻いて形成される所の「フィールド(場・活動地・舞台)・足場・環境」とでも解されるべきものです。

 テレビのワイドショーが連日報じている、いま話題の「ミッチー・サッチー騒動」に例を取りましょう。

 それによると、サッチーこと野村沙知代氏は、かって、礼法の大家として高名な塩月弥栄子氏の有能な秘書であったということです。金銭感覚が淡白で経理に疎(うと)い塩月氏は、経理面に明るく仕事をテキパキこなす野村氏に全幅の信頼を寄せていたと言うことです。

 (よくある話ですが)このような背景のもと横領事件が起きたというのです。つまりここでは、そのような人物をそのような場に置く(いわば地形)とどうなるのか(これは状況判断)の用心がなかったことを言いたいのです。

 自分の性格とその人物の性格を知り(状況判断)、その人物の仕事の場(経理)を知り(地形を知る)、かつ経理面での事務改善をこの人物に期待する(地の利)ならば、自身が経理面を最終的に厳しくチェックし、不正を防ぎつつ思うまま手足のごとくこの人物を使いこなせるわけなのですが…。

 ともあれ、この横領事件の発覚により塩月氏は、初めてサッチーの本性・本質に気が付くわけです。この場面では、事件の状況が判明し(地形を知り)、誰が悪いのか明確なので(状況判断)、当然、告訴して損害を取り戻す(地の利)ということになります。
 事実、塩月氏の周辺はそれを薦めたということでありますが、蓋(けだ)し当然のことと言えましょう。

 しかし塩月氏はその方法を採らなかったのです。それをやればそうゆう人物を見抜けなかった自らの不明を吹u間に晒(さら)すことになる、なによりもそうゆう忌まわしい人物とはこれ以上関わりたくない、そうゆう場を持ちたくない、高い授業料を払ったと思えばそれでいい、との思いが働いたものと考えられます。

 つまり、地形と地形判断(地の利)が分り、状況判断ができても必ずしもその方法を採らないのが「術」なのです(もとより異なる観点からの打開策を編み出し、敢えてその方法を採る場合もあります)。

 「術」とは「修練によって得た技能」の意であり、言い換えれば「学」(例えば、地の利が分り、状況判断が適切と分れば、その地の利を得るべくそのように行動すること)は、誰がやっても同じでなければなりませんが、「術」は個人差があります。

 すなわち、「術」は「地形・地形判断」と「状況判断」を踏まえた上で、より高い次元での問題解決策を編み出すものとも言えます(例えば、営業時間のセオリーを打破して成功した企業例にセブンイレブンがある)。

 逆に言えば、サッチーはこの塩月氏の性格・考え方を読み、横領しても事件にならないだろうと判断したとも言えます。であるとすればこれも立派な「術」であります。

 サッチーの「術」とは、一般に人が常識としてやらないこと(つまり地形判断・状況判断ができているから)に対し、(まさかと言う裏をかき)敢えてこれをやることであり、その抗議に対しては威嚇・脅し・開き直りという武器を用いて対抗し、相手の泣き寝入りに乗じて利益(地の利)を得るというパターンです。

 つまり、ことをなす上において、地形・地形判断を理解し、状況判断が適切であることは最低限度の大前提であるが(実際はこれが出来ていない人が多い)、相手のいる戦いにおいては、その判断を予測されその裏をかかれてしまう恐れが多分にあるのです(この虚々実々の駆け引きが名将同士の戦いなのです)。

 このゆえに孫子は、『兵を治めて九変の術を知らざれば、五利を知ると雖も、人の用を得る能わず』<第八篇九変>と、その裏をかかれないための「術」の重要性を強調しているのです。

 

 ともあれ「術」は、言うは易く行なうは難きものなのです。正鵠を射た理念、それにもとづく戦略、それを首尾一貫して最後までやり抜く指導力が必要とされるからであります。我々の場合は、ともすれば地形・地の利に疎(うと)く、状況判断にも甘くなり勝ちであり、術のレベルには磨uだしの感があります。

 「ミッチー・サッチー騒動」もすでに百日を超えるが、磨uだその勢い衰えるところを知らず、サッチーの非を鳴らす私怨・怨念悲喜こもごもの顔がワイドショーの画面を賑わしています。もとより様々な思惑・立場があってのことでしょうが、人生の有限に思いをいたし、もっと価値ある生き方の追求は出来ないのだろかとも思う。

 その点、このような無意味なことに巻きこまれることを恐れ、高い次元からいち早く本質的問題解決の「術」を実行した塩月弥栄子の決断は、見事であり流石(さすが)は礼法の大家と唸(うな)らしめるものがある。

 蛇足ながらサッチーは、自らの「術」を過信する余り、何時でも何処でもワンパターンでこれを多用したところに墓穴を掘る原因があったことを知るべきです。
 つまり、よりハイレベルでの「地形・地形判断」と「状況判断」そしてそこで用いるべき「術」を知らなかったといえるのであります。

 この故に孫子は『能く敵に因りて変化し、而して勝ちを取る者、之を神と謂う』<第六篇 虚実>というのです。

 とは言え、このことは「成功者」が一般に陥り易いバターンです。

 このゆえに又、孫子は<第八篇 九変>で「将の五危論」を展開し『軍を普u(くつがえ)し将を殺すは、必ず五危を以てす。察せざる可からざるなり』と曰うのです。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。

 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

 古伝空手・琉球古武術は、日本で一般的な、いわゆる力比べ的なスポーツ空手とは似て非なる琉球古伝の真正の「武術」ゆえに誰でも年齢の如何(いかん)を問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものであります。興味のある方は下記の弊サイトをご覧ください。

☆古伝空手・琉球古武術のすすめ

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