第六回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』
〔1999/09/16〕
一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
「警察組織は本当に信用できるのか」
〜その根底にある伝統的な悪習慣とは〜
かつて、筆者の知人に「桜田門(警視庁のこと)一の切れ者」と言われた男がいた。いわゆるキャリアではなく予科練くずれの叩き上げの警視正であった。なんでもいくつかの有力警察署長を歴任した後、警視庁第一方面隊とやらの長を花道として退官したそうである。
この男が、これもまた政治戟v金・政治結社をめぐって良からぬうわさの絶えない労働省所管の財団法人に用心棒兼組織管理のプロいう触れ込みで売りこみ雇われた。仮にK氏としておこう。
このKが着任早々の挨拶で述べた言葉は「交通事故はもとより警察をめぐるトラブルは何でも相談してください。コロシ以外はすべてもみ消しますから」というものであった。
なにせ、元警察署長のいう言葉であるから、迫力と信憑性は十分にあった。ある人は、法治国家日本でそんなことが許されるのかと正義感から反発し、ある人は、突如として出現した異常な警察吹u界と普通の市民感覚とのギャップに茫然とし、またある人は、これ以上心強い味方はいないと単純に喜び尻尾を振った。
筆者も縁があってこの男と長年接触する機会があったが、知れば知るほどその劣悪な人間性には反吐(へど)の出る思いがし、彼を通して拭い難い警察不信の念が広がっていった。
ともかく、元の職業柄を偲ばせる強面(こわもて)の悪党面、しかも低温動物のように喜怒・v楽の感情を表に出さない不気味な無表情(警察という職業柄、どうしてもこのような人相になるのだそうである)、人間性・知性・教養・哲学などと言ったものはひとかけらも感じられない荒(すさ)んだ心、そのうえで法の網の裏を潜る悪智恵だけは長けているという最悪の人物であった。
表面菩薩の内面夜叉、あるいは人間の皮をかぶったオオカミといった表現の方が適当であるかもしれない。
ある人が、彼を評して「Kは本当に警察官で良かった。もし道を誤って泥棒かヤクザになっていたら間違いなく大泥棒・大親分になって吹uの中に害を及ぼしていたであろう」といったことがある。
筆者に言わせれば、泥棒やヤクザの方がまだ可愛い。法と権力の上に胡座をかいて市民を睥睨(へいげい)し、傲慢不遜な態度でこれを捻じ曲げ私物化しているわけではなく、悪事が露見すれば法によって裁かれるからである。
彼の趣味としての得意技は、彼の気に入らない同僚・先輩を陥れ、蹴落とすための情報収集と怪文書を出すことであった。
四十数年間の警察官生活で身に染み付いたその性癖は、正にプロの技であり、その職場での平和な市民生活を脅かし、荒んだ職場環境に追い込むことなど赤子の手を捻るようなものであった。
しかも、その調査には後輩の現職警官を使い、相手を脅したり、嫌がらせをするときは警察官時代の顔なじみのヤクザを使い、遠隔地にも怪文書をばら撒くときは警察官OB仲間を使うと言う念の入れようであり、おまけに、自分はいつも影に隠れて身の保全を図ると言う卑劣漢ぶりである。
彼が書いたといわれる怪文書の一節に「〇〇よ、通勤途中の駅のホームでは、絶対に端っこに立つなよ。(新聞報道による)鉄道自殺と言われるもののうち半分は、(警察の調べによれば)実は他殺による転落死なんだぞ」という下りがある。
筆者が怪文書を読んだことを知らないKが、後日、雑談のなかで筆者に何気なく語った言葉が上記内容と瓜二つ、そっくり同じあったことには正直驚いた。
このようにやることなすこと、頭隠して尻隠さずの間の抜けたところが多く、しかもばれそうになると「ウソをついたのではない。調査不足や用語の不適切で誤解を招いた」「持ち出したのはメモ類ではなく、ネガフィルムだった。公表しなかったのではなく広報しそびれた」といった類の低レベルの「頓智小僧」的釈明を平然と言い放つ性癖も備えていた。
なんの事はない「警視庁一の切れ者」とは、こうゆう芸当ができることを称して言われていたのであった。
話をしていても、頭の中の空っぽさは見え見えであり、どこが警視庁一の切れ者なのかと思っていた筆者の疑問はこれで氷解した。と同時に、こんな愚劣な人間を養成する警察とは一体どんな組織なのかという怒りと、これが警視庁一の切れ者ならば警察官はバカばかりであるという妙な優越感と軽蔑の念を禁じえなかった。
筆者は(報道機関にいた関係上)それまでは少なからず警察には好意を持っていたが、このKの言動を見聞きする内にそれが幻想であることに気付き、警察組織に対するうそ寒さを覚えたものであった。
また、彼が組織管理のプロなどというのも真赤なウソである。そもそもノンキャリア組の担ぐ神輿に数年間乗っているだけの人間に組織管理などできようはずもない。
彼のその職場でしたここと言えば、好き嫌いの基準で恣意的に組織を運用してこれを私物化し、ナチスのゲシュタボ、敗戦前の特高警察を思わせる密告制度をひいて人心を疑心暗鬼に陥らせ、組織の活力を無くさせ、これを荒廃させただけである。
こんな悪党を組織の中枢にいれた経営トップも不徳の致すところであるが、いまやその彼も、自身のスキャンダル部分を骨の髄まで調べ尽くされ、庇を貸して母屋を取られそうになっていると聞く。
そもそも孫子の兵法が恐れられているのは、「先ず知る」<第十三篇 用間>という考え方と、これを徹底して実行するノウハウにある。
この情報の重要性について孫子は『相守ること数年にして、以て一日の勝ちを争う。而るに爵禄百金を愛(おし)みて、敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり。民の将に非ざるなり。勝ちの主に非るなり』<第十三篇用間>と曰っている。
『彼を知り己を知らば、百戦殆(あや)うからず』<第三篇謀攻>の「彼を知る」とは、このことを曰うのであるが、この重要な情報を一方的に握っていて、しかもこれを運用する組織が魑磨v魍魎とした伏魔殿である、というところに平和な市民社会を脅かす警察組織の怖さがある。
戦争は相手も攻めてくるものなので自ずから「彼を知る」ばかりではなく、「己を知る」必要がある。己を知るためには「謙虚にして且つ一切の思い上がりを打ち砕いた素直な心」が不可欠の要件となる。逆にいえば、この前提があってはじめて『彼を知り己を知る』ことが可能となるのである。
然るに、警察の場合はその職務の性質上、権力と組織力を使って一方的に相手の情報を収集して「彼を知る」ことで足りるのである。つまりは自己内省して「己を知る」必要など端(はな)からないのである。
このゆえに彼らの立場は「常に自分たちは正しくて、相手は悪い」のであり、従って、不都合なものは「隠す」のが当然であり、その裁量権は「自分達にある」ので「誰も自分達を裁けない」という極めて危険な思い上がりと錯覚に陥り易いのである。
通常、このような組織的欠陥を補い是正・領導していくのが幹部の責務である。現在、全国およそ24万警察官を約600人のいわゆるキャリア警察官が指揮・統率しているということであるが、彼らは果たしてその責務の重要性を自覚していると言えるのであろうか。
先般の深山健男神奈川県警本部長の記者会見を見ているかぎりではとてもそうとは思えない。むしろ、おのれ一己の立身出吹uのため警察の伝統的悪習慣を利用しこれを助長・温存しているようにしか見えない。
因みに、前記のK氏は、この深山本部長にそっくりである。顔かたち・姿かっこう・喋り方・記者を睥睨(へいげい)し恫喝するふてぶてしい態度、おまけに頓智小僧の如きふざけたウソのつき方まで瓜二つであった。筆者は思わず笑ってしまったが、警察組織は欠陥人間製早u所かと疑われても仕方のないところである。
取り分け印象に残ったのが「責任なんかこれっぽちもない」ような「悲惨なほどひどい顔」であった。風格のかけらもない、黙って座ればヤクザの親分と見紛うばかりのひどい顔である。多分、前記のKと同じく、警察社会ではこの手のタイプが「キレ者」で通っているのであろう。その知性の無さ・品性の低さは押して知る可しである。
それはさて置き、キャリア警察官は、ノンキャリア警察官と同じレベルで仕事をするためにいるのではない。彼らはあくまでも警察官24万人の上に立つ指導者なのであり、組織を良くするために智恵を絞るのが本来の任務であろう。
然るに、彼らのやっていることは結果として警察組織を崩壊させることであり、国民の日常生活に不安を与えることに他ならない。
リーダーとは責任をとるということを知っている者のことを曰う。名誉と地位・高い報酬だけが保障されていて責任をとらないリーダーなどリーダーではない。そのような人物は、リーダーである前に人間としては失格と烙印をおすべきである。
リーダーとは『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第十篇地形>なのであり、『正にして以て治なり』<第十一篇九地>(偏見のない正しい道理で、厳正公明に物事を適切に処理して秩序のあるようにすること)なのである。
また、孫子は曰う『将とは、智・信・仁・勇・厳なり』<第一篇計>と。これらを「将の五徳」ともいうが、『重沢俊郎「孫子の兵法」日中出版』によれば次のように解されている。
「智」は、創早u性ゆたかな、思考・判断能力の総称。
「信」は、他人を欺かない、他人に欺かれない道徳性。
「仁」は、自分自身と同じように、他人を大切にする道徳性
「勇」は、正義を愛し不義を憎む実践的精神力。
「厳」は、他人に対するのと同じように、自己に対して厳格である道徳性。
神奈川県警幹部の場合は、
「不祥事隠蔽に関しては智」
「警察の伝統的悪習慣を守ることに関しては信」
「不祥事を引き起こした悪徳警官に対しては仁」
「国民を恫喝し睥睨することに関しては勇」
「善良な市民に対しては厳」と言い換えた方が適当である。
自己の保身と組織の防衛しか念頭になく、キャリア本来の任務たる国家・国民全体の利益の向上などまったく考えていないことを如実に証明するものである。こんなヤツらのために誰が税金など払うものか、というのが偽らざる国民の心情であろう。
ともあれ、キャリアか何かは知らないが、将の五徳たる「智・信・仁・勇・厳」すら弁(わきま)えぬくせに指導者面をする連中が多すぎる。
「将の五徳」は、知識の問題ではなく実践の問題なのである。
我々は改めて「リーダーとは何か」を再確認する時代に直面しているようである。
昨今、各分野でキャリアと称する者の流している害毒は目を普uうものがある。我々は、彼らをのさばらしてはならないのである。
吹uの中の悪を取り締まる警察が自ら悪事を働いたのでは社会への示しがつかないのが道理である。警察とはそれほど神聖な職務なのである。
このままでは、神奈川県警はもとより、日本の警察組織全体が、現代の賎民として社会からつま弾きされる恐れ勿しとしない。況(いわん)や通信傍受法の運営など夢のまた夢、そのまた夢と知るべきであろう。
それでは今回はこの辺で。
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古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
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