第八回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』
〔1999/10/16〕
一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
JCOの臨界事故に見る戦略・戦術の不一致」
〜原則と非原則の関係について〜
去る9月30日午前、茨城県東海村の民間ウラン加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)」の東海事業所で発生した臨界事故は、「全く信じがたい事故」「考えられない人災」として、日本国内はもとより国際的にも大きな衝撃を与えました。
今回のメルマガは、この臨界事故を取り上げ、孫子兵法と脳力開発の立場から論評してみたいと思います。
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すでに明らかにされているように今回の事故の要素として以下の三点が挙げられます。
1、ウラン燃料製早uのためJCOが国に届けた「正規のマニュアル(手順書)」
2、JCOが上記作業の便を図るため無許可で作成した「裏マニュマアル」
3、上記「裏マニュアル」をさらに逸脱した現場作業責任者独自の「裏マニュアル」
我々日本人がお役所仕事として最も嫌うのは「前例が無い」「法規に無い」などと、木で鼻を括ったような態度と、融通がきかない四角四面の硬直しきったその思考法にあると言えましょう。
逆に、民間企業はそれらを反面教師として、なるべく融通を利かせ顧客へのサービスを第一として臨機応変に対処するところに特色があると言えます(但し、肥大化して官僚主義が横行している企業は役所よりも始末が悪い)。
もとより、両者の考え方の対立(矛盾)は、それぞれの立場での長所と短所の両側面を含むものでありますから、一概にその善し悪しを論ずべき性質のものではありません。
しかし、こと許認可事業等に代表される役所への提出書類に関しては、この両者の対立は見事に問題(矛盾)解決されていると言えます。
つまり、役所の側からすれば、「書類の形式がキチンと整ってさえいれば良し」とするのがその立場であり、一方、提出する側からすれば、「書類の内容は言わば役所の窓口を通過するための単なる形式・便法(便宜上とる手段)であるから、真面目に杓子定規に考える必要などさらさら無い」というのがその立場なのです。
このゆえに、両者の関係は矛盾無く成立し、八方まるく収まるという仕組みなのです。
言わば、対立する正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)を弁証法的に止揚(矛盾を高次の統一において解決すること)した結果の合(ジンテーゼ)ともいうべき現象が、許認可事業等の提出書類にまつわる実態なのでは無いでしょうか。
その意味で言えば、前記1、の「ウラン燃料製早uのためJCOが国に届けた正規のマニュアル(手順書)」が遵守されていないことなど押して知るべきであり、それどころか前記2、の無許可で作成した「裏マニュアル」の存在こそ、実態そのものを反映しているものであり、むしろ自然の流れであると言えます。
この点に限って言えば、日本の産業人の中でJCOのやり方を厳しく批判できる資格を持つ人など、皆無に近いと言わざるを得ません。効率優先の大義をふりかざし、大なり小なり似たような事をしているのが偽らざる実情なのであり、日本の社会がホンネとタテマエが違うと言われる所以なのです。
とりわけ日本人の場合は、その時々の力関係や利害関係の大勢に配慮しつつホンネとタテマエを使い分け、その場その場の状況に器用に小利口に適応してしまうところに特色があります。
そのゆえに往々にして日本社会では、その時々の状況でホンネとタテマエが急に一致したり、逆転したり、甚だしきは、どちらがホンネでどちらがタテマエかの区別が当人でも分からなくなるという珍現象が生ずるのであります。
さらに言えば、上記のような現象は、俗に「要領をつかう」と言われ、我が日本人の最も得意とするやり方なのです。裏を返せば、どこを切っても「金太郎飴」のような均質的民族たる日本人の、能力の高さ・優秀さが遺憾なく発揮されている場面でもあります。
さりながら、それゆえにこそ、目先のこと・小手先のことに走りがちであり、ともすれば、本質的・原則的・土台的な部分をおろそかにしがちな日本人の危うさの一面もはらんでいるのです。
今回の臨界事故は、日本人のこのような民族的特徴がその底流にあると解すべきでありましょう。言い換えれば、長所ではあるが短所でもあるこの部分こそが、日本社会に蔓延している(本質的な意味での)無責任体制を助長しているものとも言えるのです。
それゆえに、似たような現象はどこでも起こり得る可能性は高いと言わざるを得ません。JCOの場合を単に「対岸の火事」視することなく、以て他山の石とすべきである、と提言する所以なのであります。
それでは、JCOのどこが厳しく批判されるべきなのか、どこに原因と責任の追及が求められるべきなのか、を考えてみたいと思います。
脳力開発には、原則(容易にゆずらない、容易に変更しない水準のもの)と、非原則(ゆずってもいいもの・原則の範囲外)という考え方があります。
また、最も中心的な位置にくる目的、目標、そして方向づけといった根本レベルの考え方を「戦略」と呼んでいます。
言い換えれば、目的性・方向性の考えの中でしかも原則性をもつものが「戦略」であり、戦略に入らないものは「戦術」としてとらえています。
上記の考え方に立脚すれば、前記1、の「正規のマニュアル」の存在理由としての根本戦略は、臨界事故は、絶対に起こさないことにあることは明白です。
従って、前記2、の「裏マニュアル」を作成するときでも、まず、この戦略は絶対にゆずれないものとして全社員に明示・周知徹底・ゆきわたらせ、その上でゆずれる範囲内(臨機応変に対処してよいものなのでこれは戦術)での業務改善提案、つまり裏マニュアルの作成にとりかかるべきであったのです。これが戦略と戦術、原則と非原則の関係なのです。
逆に言えば、正規のマニュアル、そして裏マニュアルは「なぜ、何のために作成されたのか」という問いかけを絶えず問いつづけることなのです。
これによって、裏マニュアル作成の目的は、あくまでも正規のマニュアルでは実現できない実態に即した作業効率の便宜を図るためのものであり、臨界事故を起こすためのものではないことを明快に絶えず確認できるはずです。
このように、原点を忘れず、「なぜ」「なんのために」を絶えず・愚直にくり返す習慣づくりこそ、原則を堅持しつつ、現実に柔軟に対応して行く有効な方法なのです。
この戦略(判断基準)が組織員全員に徹底されていれば、例え、戦略に反する業務改善提案がでても、迷うことなく直ちに「YES・NO」の根本判断が明確に下されることになったでしょう。
このことは、「優秀な(小手先・目先的な意味で)」日本人から見れば、あたりまえのこと・言わずもがなのことに見えるかもしれません。
しかし、実は極めて重大なことなのです。
なんとなれば、どんなに優秀であれ(大体は本人がそう思っているに過ぎないが)、人間には必ず弱点・盲点が生じてくるものだからです。
孫子はこの厳しい現実を直視するゆえに『将の五危』<第八篇九変>を説いているのです。
ここをあいまいにしたまま、ただ目先の作業効率のみを求めるような業務行動をしていると、いつしか、原則と非原則の区別が忘れられ、やがて原則が片隅に追いやれ、例外があたかも原則のように大手を振って歩き始めるのです。
こうなると、昨今の吹u相のように「何でもありの吹u界」に踏み込んでしまうのです。
そして、JCOのように起こるべくして臨界事故が起こってしまえば、もはや『智者有りと雖も、其の後を善くする能わず』<第二篇作戦>に陥ってしまうのです。
そうなってしまった後では、たとえ有志社員が「決死隊」を編成して臨界を終息させたとしても、そのようなものは名誉でもなんでもないと言わざるを得ません。
『戦い勝ちて、天下善しと曰うは、善の善なる者に非ざるなり』<第四篇形>とは、まさにこのことを曰います。
「無事これ名馬」が真の勝ち方なのです。
つまり、それだけの気力と行動力が「隠されて」いたのなら、なぜ普段からその力を発揮しないのかと曰うことなのであります。
「そうなる前にそうならないように手を打て」が孫子の主秩vなのです。
しかしてその分かれ道は、平素からの、原則と非原則の区別・戦略の首尾一貫にあったことは言うまでもありません。
なぜそれができないのか。それは組織員が自他共に「謙虚ではなかった」の一言に尽きるのです。
人間として謙虚でない者がどうして厚顔無恥に「俺は優秀だ」と言えるのか、極めて理解に苦しむところであります。
閑話休題(それはさておき)、経営者たる者、常にこの両面を思考せよというのが孫子の主秩vなのです。
『是の故に、智者の慮(おもんぱかり)は、必ず利害を雑(まじ)う。利に雑えて、而(すなわ)ち努(つと)め信(の)ぶ可きなり。害に雑えて、而ち憂患(うれ)い解く可きなり』<第八篇九変>とはこのことを曰うのです。
前記3、のような「何でもありの吹u界」の超法規的裏マニュアルがいつ出てきても不思議でない環境を作っていること自体が、戦略と戦術、原則と非原則の区別が分かっていない何よりの証拠なのです。
もし、分かっていて正そうとしなかったのなら、将たる者の性格的な欠陥であり、前回の「将の五危」に該当すると言わざるを得ないのです。
『軍(この場合はJCO)を普uし将を殺すは、必ず五危を以てす。察せざる可からざるなり』<第八篇九変>はこのことをいうのです。
朝日新聞(10月20日付け朝刊)によると、臨界事故の原因となった「沈殿槽(臨界反応を抑制する機能がない)へのウラン溶液注入」は、被爆した三人の作業員が事故の前日ごろ発案し、作業の直前に上司の許可を得て行っていたと言うことです。
JCOでは、これまでも、前記2、裏マニュアルによって「貯塔(臨界反応を抑制する機能をもっている)」に、ステンレス製のバケツを使ってウラン溶液を入れる作業が日常化していました。さりながら、このこと自体は前記理由により、原則を逸脱しているわけではありません。
問題なのは、この裏マニュアルをさらに逸脱して、臨界を抑える機能がない「沈殿槽」に、しかも大量のウラン溶液を無理やり投入したという、その判断と行動なのです。
さらに問題なのは、正規のマニュアルの言わんとしている安全管理の本質はどこにあるのかを組織員に周知徹底させていなかった職場環境と経営体質のお粗末さにあるといえます。
つまりは、組織としての戦略が組織員の末端にゆきわたっておらず、作業は全くの現場任せであったわけです。これが日本人の長所であり、また短所でもあるという矛盾の側面なのです。
孫子は曰う
『令素(もと)より行われて、以て其の民を教うれば、則ち民服す』<第九篇行軍>と。
平素から組織の道義・在り方・・戦略を明らかにし組織の強化・組織構成員の心の結合に意を用いていれば、いざとなった現場作業(JCOの場合は臨界事故の原因となった作業の発案)においても組織員はトップの方針に従うものである、と言う意味です。
因みに、江戸前期の兵学者・山鹿素行(武士道理論の建設に努めた)が自ら「素行」と号した理由も孫子のこの真意を体したものと解せられます。
見方を変えれば、JCOの裏マニュアルの根底に流れている臨界事故を起こさないという最高戦略は、トップでない現場の従業員たちによっていとも簡単に勝手に変更決定されということになります。
このような組織体があるとすれば、それはもはや組織としてのの存在意義を失ったものと言わざるを得ません。
実に、戦略なき戦術、言い換えれば、原則を忘れた「油断・思い上がり・傲慢」ほど恐ろしきものはないと言えます。
それでは今回はこの辺で。
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古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
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