孫子兵法

孫子兵法

第九回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔1999/11/01〕

                 一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍



「治にいて乱を忘れず」


 さて今回のメルマガは、週刊誌での核武装発言がもとで物議を醸(かも)し、引責辞任した西村前防衛政務次官の「西村問題」をとりあげて見たいと思います。

 西村前防衛政務次官の「週刊プレイボーイ」誌上での主な発言は以下の通りです。
(かっこの中は対談相手の発言)


(政務次官になって、いちばんやりたいことはなんですか)

●政務次官になったからというより、政治家としてのライフワークは国軍の創設ですわ。

(今の政治家は特に防衛問題で歯切れが悪いですよね)

●「攻撃兵器は持たない」とかね。攻撃的でない兵器ってなんだ? 水鉄砲かっちゅうねん。

(「人に優しい殺し方」って難しいですよ。「専守防衛」というのも意味がよくわからない)

●あれは相手が撃つまでは撃ったらアカンっちゅうこと。ところが今、相手が持っているのはミサイルでっせ。一発で何十万人と死ぬ。それ撃たれてから反撃しようにも、命令を下す総理大臣が死んでしまっておれへんがな。

(北朝鮮の不審船に対して国がとった行動について「2隻の船を花火を上げてお見送りしたようなもの」と発言してましたけど、また来たら、次官としてどうするおつもりですか)

●今の段階では海上警備行動の発令でしょう。でも、今度はホンマにやる。

(ホンマにとは ? )

●ホンマに撃って、そんで撃沈する。

(パキスタンのクーデターでインドとパキスタンの間で核戦争の危機が叫ばれてますが、やっぱり危険な状態なんですか)

●いや、核を両方が持った以上、核戦争は起きません。核を持たないところがいちばん危険なんだ。日本がいちばん危ない。日本も核武装したほうがええかもわからんということも国会では検刀uせなアカンな。

(それは政務次官である西村さんが国会で発言するんですか)

●個人的見解としてね。核とは抑止力なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど核の抑止力があるからそうならない。周辺諸国が日本の大都市に中距浴v弾道ミサイルの照準を合わせておるのであれば、我々はいかにすべきなのかということを国会で議論する時期に日本もきているんです。

(社民党がまた「いつかきた道」って言うんじゃないですか)

●まあ、アホですわ、あんなもん。何を言うとんねんと。だからボク、社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。「お前が強姦されとっもオレは絶対に救ったらんぞ」と。


 

 もとよりこれは、品性を欠くあまりにひどい言葉づかいの物言いであり、非核三原則を堅持する政府の一員としての、しかも防衛政策の中枢を担う防衛政務次官たる者の発言としては極めて不適切であることはいうまでもない。

 このゆえに、党利党略的立場よりすれば、政府攻撃のまたとない恰好の材料となるのであり、さらには、発言の内容に対する疑問や怒り、また、女性に対する差別的な見方・セクハラである等々の批判が集まり、辞任に追い込まれたのです。

 

 そもそも「週刊プレイボーイ」誌は、若者をターゲットにした軽いタッチの読み物ですから、そこに掲載された西村氏の発言内容たるや、「薄暗い喫茶店の片隅で、若い男性同士が防衛談義に興ずる恰好のテーマ」にはいかにもふさわしいものなのです。

 西村氏にしてみれば、そのようなシチュエーションのもと、軽い問題提起のつもりで持論を披瀝したものであろうことは多分に想像できます。

 とは言え、その内容はオフレコでもなんでもなく公然の事実となるものであるから、それが問題化されれば、たとえその動機、シチュエーションがどうであれ、それを語ったこと自体が問題になるわけです。

 脳力開発的に言えば、「立場・希望と客観的事実とは異なる」ということになります。先般の「玄倉(くろくら)川キャンプ増水事故」に例をとれば、当人達がここは危険ではないといくら思い込んでも、客観的事実は異なるということなのです。

 我々が生きるすべての原点は、ここから始まるゆえに、孫子は『彼を知り己を知らば、百戦殆(あや)うからず』<第三篇謀攻>と曰うのです。

 また、彼を知るための情報の重要性については『此れ兵の要(かなめ)にして、三軍の恃(たの)みて動く所なり』<第十三篇用間>と口を極めて強調しています。


 

 閑話休題(それはさておき)、

 次の臨時国会から政府委員制度が廃止され、政務次官が答弁に立つ機会が増えることが予想されている折だけに、西村氏の防衛政務次官という公的な立場を考えれば辞任は当然の成り行きであったと言えます。

 とは言え、ことこころざしと異なって予想外の一斉反発を受け、言論すら封殺された形でクビを切られた西村氏にとっては内心極めて不満であり、釈然としない思いであろうことは想像にかたくありません。

 なんとなれば、(品性のない物言いはともかくとして)彼の言わんとしている主秩vは、(見方を変えれば)決して間違ったものではなく、また彼の個人的見解とする立場からは、あくまでも善かれと思ってした発言と解されるからです。

 このゆえに、西村氏は「正しいことを正しいとして主秩vしたことがどうしてこうなるのか」、「これが吹u間というものか」、「オレは甘かった」と臍(ほぞ)を噛み、「物言えば唇寒し秋の風」を実感していることでしょう。

 この「西村問題」は、表面的・皮相的あるいは党利党略的な現吹u利益の立場から見れば、極めてつまらないオソマツな辞任劇に過ぎませんが、全面的・両面的・本質的立場から見れば極めて重要な処吹u上の教訓を数多く学べるものがあります。

 ここでは、両者の立場の相違にボイントを絞り、この問題の是非について考えてみたいと思います。


 孫子は『兵(ここでは戦争の意)は国の大事ななり。(国民の)死生の地、(国家の)存亡の道、察せざる可からざるなり』<第一篇計>と曰っています。

 この背景には、「優勝劣敗・弱肉強食が戦いの本質であり、強いものが勝ち、弱いものが負けるのが吹uの習い・自然の掟である。そもそも弱者に戦法は無い(但し、強者の戦法の応用はある)のである。」という基本認識があります。

 また、「勝つにせよ、負けるにせよ戦争は悲惨なものであり、残酷なものであるから戦争には絶対に反対である。

 しかし残念ながら、自然災害と同様、人類史上の戦争はなくなることはない。このゆえに、絶対に反戦ではあるが、さりとて軍備は無用ではない、否むしろ、必要・不可欠なものである。もとより非武装中立など論外である。なぜならば、已(や)むを得ずして行う戦争もあるからである。

 

 問題は、その場合どうゆう戦争をすれば国民・納税者が納得するのかということである。

 それには、短期に戦争目的(政治目的)を達成し、(そのことを通して)併せて国家が以前にも益して繁栄するというやり方を模索することである」とも曰っています。

 戦争を論ずる場合、この大前提を踏まえるのか踏まえないのかは、きわめて重要な問題なのです。この前提が異なれば当然のことながら「西村問題」で明らかな如く戦争論は成り立たず無意味にして不毛の論議となります。

 言い換えれば、平時と戦時、「正・常」としての政治と「奇・変」としての戦争、あるいは正常と非常の違いを明確にすることが重要なのであり、平時の感覚で非常を論じてはならないということなのです。

 蛇足ながら、スポーツは負けても命がかかっていませんからもとより平時の範疇です。太平の吹uにあっては、スポーツを以て戦争・実戦のごとく考える風潮が散見されますが、これは大きな誤りと言えます。

 『史記』孫子伝に見える孫子の有名なエピソード「呉宮斬美人」はこのことを雄弁に物語るものです。そのメルクマール(標識)は命がかかっているかいないのかなのです。その意味においては、(多くの人は気付いてはいませんが)我々の日々の生き様こそ、まさに命を懸けた実戦そのものなのです(鎌倉時代の武士はこれを一所懸命といいました)。

 

 ここに我々が真摯に孫子を学ぶ意義があるのです。とは言え、現実はバーチャル吹u界とでもいうべきスポーツに大方の関心そして夢と希望が寄せられているようですが。

 そういう趣味・娯楽・スポーツの類にうつつを抜かすことよりも、自分自身の日々の足元にこそ、命をかけて戦うにふさわしい実戦・真の現実吹u界があるのだと、孫子は曰いたいのです。

 

 閑話休題(それはさておき)、

 ともあれ、立場の異なる両者が、尤もらしい議論をした所でかみ合うはずは無いのです。

 リストラの可能性も考えず、ひたすら会社オンリーの人生を送る人と、常に非常事態たるリストラを想定して長年勉強努力を怠らない人とがその生き方の是非を議論するようなものです。
 男と女の言い争いにおいて、理性で説得しようとする男性と、感情で挑んでくる女性との違いとも言えます。

 非常事態の現実をシビアに見る、という意味では、西村氏の発言内容は極めて正当なものであり、適切な問題提起であります。
 強姦・虐殺などはいうまでもなく、何があってもおかしくない、それが戦争の本質なのです。そのゆえにこそ孫子は『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり(よくよく真摯に考えなければならないの意)』<第一篇 計>というのです。

 

 これを平常時の観点あるいは党利党略の立場から見れば、「不見識にもほどがある」「あまりにもひどすぎる」「男性優位の思想だ」「女性への侮辱・セクハラだ」ということになります。

 どちらの立場も正しいわけでありますから(脳力開発ではこれを対立・戦いの構早uとして捉えています)、このような場合は、上記した優勝劣敗の法則(この場合で言えば多数決)によらざるを得ず、その結果が問答無用のクビ切り辞任劇となったものです。

 その意味では、これらの人々も戦いは力関係の科学、つまり、強いものが勝ち弱いものが負けるという戦いの非情の論理を自ら実証しているわけです。

 このゆえに、彼らも西村氏の言わんとする意味は十分に理解しているはずのものと考えられます。

 然るに、それらの政治家は、防衛問題はカネにも票にも結びつかないからと言ってこれを避け、選挙目当ての人気取りやパフォーマンスに走っているのが現実ではないでしょうか。このような無責任な人達に、勇気を奮い、ピエロとなり敢えて防衛問題に一石を投じた西村氏を批判する資格があるのでしょうか。

 このことはまた、過去における西村氏の発言を引用すれば次のようにも言えるのではないでしょうか。


 (西村氏は、1997年5月、船を調達して尖閣諸島に上陸し、議論を巻き起こしたことで有名ですが、その上陸後の記者会見で)

●近隣諸国の感情を害することのみを基準に、主権や領土を明確に主秩vすることを政府は避けてきた。土地所有権を盾に上陸についてうんぬんする資格は政府にない。

 (1997年2月、衆院委員会で当時の加藤・自民幹事長を批判して)

●自国民の人権を犠牲にし(北朝鮮工作員による日本人拉致事件を放置して、の意)、北朝鮮を助ける政治家を普通「売国奴」という。


 もとより、政治の要訣は「治にいて乱を忘れず」(平和な吹uの中でも戦乱のときを忘れないで、力を蓄え、武を練ることをおこたらない。平穏無事のときも、万一のことを考えて油断しない、の意)にあります。

 この万古不易の基準に照らせば、今の日本における真の政治家はただ一人西村氏のみであり、その他はすべて単に選挙民に・u(おもね)るだけの似非(えせ)政治家であるという極めて皮肉な結果にもなるのではないでしょうか。

 大事なことは、本質的・両面的にものを見ることであり、このような貴重な問題提起の声を異端児として村八分よろしく封殺することではありません。

 民主党の鳩山代表は、この問題に絡んで次のように述べています。


 核武装してもいいかどうかを国会で検刀uしたらどうかと言った瞬間にクビを切られるとなると、国会で核をもつべきかどうかなんて議論がなされなくなる。議題に乗せることすらしてはいけないという発想もいかがなものか」と。


 蓋(けだ)し、見識と言うべきでありましょう。

 ところで、西村氏引責辞任を受けて文化放送がリスナーアンケートを行ったところ、57パーセントもの人が西村氏同様「国会で核武装について議論すべき」と回答し、「議論すべきでない」の33パーセントを大きく上回ったということです。

 刀u論賛成派の中には「自分の国は自分で守るべき」、「平和ボケ日本の常識では通用しない」などの意見が多く、自国の防衛に危機意識をもつ人が増えていることが浮き彫りにされた形となったようです。

 今、問われるのは、冷戦終結後の国際情勢の変化を踏まえ、いかに日本の平和・安全を確立するかを、(孫子の曰う戦争という厳しい現実を直視して)リアルな認識で議論することではないでしょうか。

 もとより、当面、日米同盟の堅持がベターな選択であることはいうまでもありません。それを踏まえた上で、非核原則を金科玉条とする感情論に走ったり、独善的な自主防衛論に陥ることなく、国家間のバランス・オブ・バワーの厳しい現実を直視した多角度的な議論が必要なのではないでしょうか。

 ともあれ、易経・繋辞下伝に曰う「治にいて乱を忘れず」、孫子の曰う『兵は国の大事なり』は古今東西における政治の要訣なのであり、もとより、個人にとっても生き方の原理原則を示すものなのです。

 ここに、孫子は兵書でありながらその理論は即、現代に通ずる最古にして最新の書と謂われる所以があるのです。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

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