第三回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』
〔2000/01/08〕
一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍
☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆
『人はただ、自分がしたいと思ったことをせず、嫌だと思っている事を成し遂げていくならば、それぞれの身分に応じて、身を全うすることができるものである』
…武田信玄…
◇ 解説 ◇
この言は、『甲陽軍鑑』品第四十 〜石水寺物語〜の中に見えます(品は、仏典で章・篇の意に用いる)。石水寺(せきすいじ)物語とは、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の背後にある石水寺要害山城で、信玄が部下教育のため家臣たちと交わした雑談の記録です。
この言はいろいろな意味に解釈できますが、ここでは人間の虚としての「心の驕りや傲慢さ」にポイントを絞り、その判断基準をどこに置くのか、という観点から考えてみたいと思います。
言い換えれば「自己認識の難しさ」、あるいは「汝の最大の敵は汝以外にはない」ということを教えるものでもあります。
さて、あたかも水が高い所から低いところに流れるように、ともすれば「難きを避け易きにつきがち」なのが、偽らざる人情・人の吹uの常であります。
しかし、だからといって、そんなことばかりしていたのでは「楽は苦の種、苦は楽の種」のことわざにもあるように、「明日の不幸」を招くこともまた明らかです。
つまり、一つの事物には表(楽)があれば裏(苦)があり、裏(苦)があれば必ず表(楽)があるのであって、表(楽)だけの事物など、この吹uに存在するはずがない、というのが根本構早uなのです。
このゆえに、古人は物事の両面、あるいは全体と部分との関係を慮(おもんぱか)り、目先の小さな欲望の充足のみに汲々とせず「明日の不幸」にも目を向けよ、というのです。逆に言えば、それが人生を全うする道だ、ということになるのでしょう。
「存するは存するにあらず、亡を慮(おもんぱか)るにあり。楽しむは楽しむにあらず、殃(わざわい)を慮(おもんぱか)るにあり。」<六韜・文韜>とは、このことをいいます。
ところで、人間の左脳には言語的機能がありますから、上記の如き内容は誰しもが知識として論理的に理解するところであり、まさに言わずもがのことであります。「そんなことはあんたに言われたくないよ!!」という吹u界です。
しかし、こと実際の場に立ち、自分に打ち克って現実にそれが実行できるか否かという問題になると、感覚的・総合的な働きをする右脳の吹u界ということにもなりますので、必ずしも、「知行合一」というわけにはいかないようです。
ではありますが、人にはそれぞれ「俺が、俺が」「私に限って」という自尊心・うぬぼれがありますから、おのおのは自分なりに真剣に取り組んでいると思いがちなのであり、たとえ表面では謙虚さを装っていてもやはり心の奥底ではそう信じているのが普通です。
この結果どうなるかといいますと、ものごとが「できたとか、できないとか」「やったとか、やらない」とかの判断基準、言い換えれば、その事に対する自分の「考え方・やり方」が正しかったか否かの判断基準が極めて不鮮明・曖昧になるということです。つまりは、おのおのの主観的な感じがその判断基準になるということになります。
これが個人レベルの場合ならいざ知らず、組織レベルのこととなると笑って済ませられる問題ではなくなります。
毛沢東はこの点について、「真理の基準は社会的実践にあるのみ」<実践論>といっています。つまり、何事であれ、うまくいったことは(その人の者の考え方・やり方が)正しかったからであり、うまくいかなかったことは(その人の考え方・やり方は)が誤っていたからである、というのです。
言い換えれば、「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、すべて私が悪いのよ」ということなのです。逆に言えば、そのくらい謙虚な精神的姿勢で取り組まなければ、物事を成功に導くことなどできない、というのです。
これを集団的・組織的にやっていたのが国共内戦を勝ち抜いた毛沢東のやり方というわけです。
人間というものは、そこまで厳しくやらないとなかなか自分というものが分からない、そうゆう傲慢さ・うぬぼれを持つもの、という証左でもあり、それゆえにこそ「汝の最大の敵は汝なり」ということになるのでしょう。
王陽明はこのことを、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」といっています。
武田信玄の家臣にしても、もとより外敵にたいしては「負けるものか」という気概に溢れた人達だったのでしょう。しかし、彼らと雖(いえど)も、(人の子ゆえに)自分の心中の敵に対しては、敵愾心というものがなかなか起ってこなかった、と想像されます。
家臣たちのそのような心の虚を見抜き、自分の弱さ・傲慢さと戦う一つの基準・物差しを示したのが、冒頭の信玄の言であると解されます。
『人はただ、自分がしたいと思ったことをせず、嫌だ(したくない)と思っている事を(敢えて)成し遂げていくならば、それぞれの身分に応じて、身を全うすることができるものである』と。
実に、恐るべき最大の敵は自分自身ということであります。
○ 活用の指針 ○
孫子は、「力を出さざるを得ない状況づくりをせよ」といっています。
即ち、『之を亡地に投じて、然る後に存し、之を死地に陥れて、然る後に生く』<第十一篇九地>がそれであります。
重要なことは、傲慢な・思い上がった自己認識からは上記のような行動パターンは出てこないということであります。
この心中の油断と虚を衝かれ、自壊・自滅するな、というのが孫子の主秩vといえます。
それでは今回はこの辺で。
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孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
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