第四回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』
〔2000/10/16〕
一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍
☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆
『令素(もと)より行われて、以てその民(兵士の意)を教うれば、則ち民服す。
令素(もと)より行われずして、以てその民を教うれば、則ち民服せず』
…孫子<第九篇 行軍>…
◇ 解説 ◇
上記は、「軍令が平素から励行されている状況下で、兵士たちを教導するのであれば、彼らは納得して心から服従する。しかし、平素から軍令が遵守されていないにも拘らず、にわかに兵士たちを教導しても、彼らは服従しない」の意です。
ところで、『令素(もと)より行わる』を原文で書くと『令素行』となります。「素行」とは、「平素から行われること」の意です。この「素行」の文字が上記を含め、三度も使われているのを見ても、孫子がいかに令の素行(平素から行われること)を重視していたかが分かります。
ちなみに、孫子研究者として夙(つと)に名高い江戸初期の兵学者山鹿素行が、自身を「素行」と号した真意も、孫子のその意のあるところを体したものと解せられます。
さて、いうまでもなく孫子の磨v力はその思考力の深さにあると言えます。そこで今回は上記の言に絡(から)めその一端に触れてみたいと思います。
孫子は<第九篇 行軍>の冒頭で、その内容を総括する言葉として、『孫子曰く、凡そ軍を処(お)き、敵を相(み)る』と曰っています。
「軍を処き」は、行軍に当たり(戦闘を予期しての)前進・機動の処置・処理の仕方、また「敵を相る」は、敵情候察(戦場の現象による敵情判断)のことを言います。
孫子は、前者については処軍四法として、また後者については相敵三十二法を挙げそれぞれ詳しく説明しております。
この『凡そ軍を処き、敵を相る』の趣旨からすれば、一見、行軍の説明はこれで尽きたように見えますが、実は、孫子が真に曰いたいことはこれから始まるわけです。
つまり孫子は、たとえ処軍四法、相敵三十二法に習熟したとしても、そもそも行軍(単なる路次行軍ではなく、軍を敵国に用いるの意)の根本は「人」にあるわけであるから、そのためにも「人を用うる法」の何たるかについて知らなければ、「行軍」の理解として方手落ちである、と曰いたいのです。
孫子は、そのための事例として『兵は多きを益とするに非ざるなり。惟(ただ)武進すること無く、以て力を併せ敵を料(はか)るに足らば、人を取らんのみ。』を挙げ、その意義を説いています。
簡単に言えば「獅子は兎を搏(う)つに全力を用う」の心構えを忘れるな、と言うことでありますが、その基本が「人を用うる法」であると曰うのです。
孫子は、そのための注意点として、統率の重要性およびその矛盾点(問題点)を説き、さらにその矛盾解決法として、仁愛の精神と軍律の徹底の二つを挙げ、これを硬軟両用自在に使い分けることがポイントであると曰うのです。
そして、その際、とりわけ注意を要するのは、平素(普段)から軍律が誠実に実行されているか否かという、背景的要素であると曰うのです。つまり、戦時と平時の軍令遵守・教導の全体的関係に言及しているのです。
そこで登場してくるのが冒頭に掲げた『令素(もと)より行われて、以て民(兵士の意)を教うれば、則ち民服す。令素(もと)より行われずして、以てその民を教うれば、則ち民服せず』というわけなのです。
さりながら、それで十分かというと、またまたさにあらず、今度は、それを敷衍して、国家的次元における軍事の根本(軍の統帥)としての国家の道義・国家の平素からのあり方を明らかにしています。言い換えれば、一朝ことある時(つまり有事の際)、いかにして挙国一致・君民将兵一体の信頼関係(孫子はこれを道と曰う)を作り出せるかと言うことです。
これを曰うものが、<第九篇 行軍>の結言である『令(ここでは平素の国民教育の意)素(もと)より行わるる者は、衆(ここでは民衆・国民の意)と相得る(上下の意志が疎通し一体となること)なり』なのです。
孫子が<第一篇 計>で曰う『道』とはこのことをいうのです。つまり、<第九篇行軍>の結言は、<第一篇 計>の『道とは、民をして上(かみ)と意(こころ)を同じゅうせ令(し)むる者なり。故に、之と死す可く、之と生く可くして、民詭(うたが)わざるなり』と相呼応しているのです。
孫子十三篇の体系は、あたかも『常山の蛇』<第十一編九地>にいう『其の首(かしら)を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首(かしら)至り、其の中身を撃てば則ち首尾倶に至る』の関係のごとく、相互に連動して変化きわまりないところにその特色があります。
三国志の英雄、魏の曹操が「吾れ、兵書・戦策を観ること多きも、孫武の著(しる)す所は深し」と評する所以なのです。
○ 活用の指針 ○
よく孫子は、国家レベルの戦争・政治のことを説いているので身近な実際生活には適用できないのでは、と言われる方がおられます。
しかし、常識的には、国家レベルでも個人レペルでもそこに流れている(戦いの本質は意志と意志との闘争であるという意味での)原理原則は共通のはずです。敢えていうならば、国家レベルの問題(その意思決定)もつまりは(個人としての)リーダーのありように帰一してきます。
孫子の説くところは、そのリーダー論であるがゆえに、当然の帰結として個々の個人レベルの生き方・在り方を問うものともなるのです。
それはさておき、その個人レペルで、人生・ビジネスを考えた場合、やはり孫子の曰う『素行』つまり「平素から行うこと」は、極めて重要な概念であり、有益な行動目標であると言わざるを得ません。
当たり前のことを当たり前にやる、ここにこそ孫子の真意があると解せられます。
しかして、いかにやるかのポイントは、山鹿素行の曰うがごとく『兵法の奥義は己に克つにあり』に求められるのです。
それでは今回はこの辺で。
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孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
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