第七回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』
〔2000/01/29〕
一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍
☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆
『動機よりも効果が肝腎である』
…毛沢東
◇ 解説 ◇
毛沢東というと、日本ではすぐに文化大革命や紅衛兵運動、あるいはマルクス・レーニン主義などが連想されて、一般にあまり良いイメージはもたれていないようです。
とりわけわが国の太閤秀吉と同じように独裁者の陥りやすい通弊である晩節を全うし得なかったという面も見受けられるため、「いさぎよさ」を求める日本人の好みには合わないようです。
しかし、第一次国共内戦、日中戦争、第二次国共内戦に勝ち抜き、北京で中華人民共和国の成立を宣言した頃までの毛沢東は、まぎれもなく軍事・政治上の飛び抜けた指導者であったことは事実です。
その意味において、われわれが毛沢東の考え方から学ぶところは極めて大であると言えます。
かの安岡正篤氏も次のように言っております。
「古典を学ぶ意義は、なにも先哲・先人の遺した学問を骨董品を尊重するように研究するのではなくて、それに基づいて、今日・明日の我々の人生、我々の社会・国家・民族を創早uしていく根本信念・根本識見を修めんがためであります」と。
毛沢東はもとより古典ではなく、また日本とは異なる国家体制の指導者ではありますが、
相手が誰であろうと学ぶべきところは謙虚に学び、これを活用するというのが兵法の基本的姿勢であります。
毛沢東の言葉を借りれば、「喜んで小学生になる」ということではないでしょうか。
さて、冒頭で紹介した言葉は「延安文芸座談会における講話」(1942年5月)の中の一節です。
ものの考え方として、また昨今の日本社会を考える上で大変参考となりますので、やや長くなりますが関係個所の全文を引用してみたいと思います。
ここで問題にしたいのは、効果の問題は立場の問題かどうかということである。
ある人の行為を単に動機だけから見、効果を問題にしないのは、医者が薬の処方箋を書くことだけを考え、病人がそれをどれだけ飲んで死のうとかまわないのとおなじである。
また、ある政党が宣言を発することだけを考え、実行するかどうかを問題にしないのと同じである。いったい、このような立場でも正しいといえるだろうか? このような意図でもよいといえるだろうか?
事前に事後の効果を考えておいても、もちろん、誤りはおこり得る。しかし、すでに効果がよくないことが事実によって証明されているのに、なお、いままでのやりかたでゆこうするばあいでも、その意図はよいといえるだろうか?
われわれが、ある政党、ある医者を判断するには、その実践を見、その効果を見なければならない。ある作家を判断するにも、また、そのとおりである。
ほんとうによい意図であるためには、その効果を考えること、すなわち、経験をしめくくり、方法―制作上では表現の手法とよばれる―を研究することが必要である。
ほんとうのよい意図であるためには、自己の活動の欠陥・誤謬についてほんとうに誠意ある自己批判をおこない、これらの欠陥・誤謬をあらためるよう決意することが必要である。
共産党が自己批判の方法をとるのはこうした理由からである。このような立場だけが正しい立場である。
同時にまた、このような厳粛な、責任ある実践の過程でこそ、正しい立場がどんなものであるかがしだいにわかり、正しい立場をしだいに把握していくことができるのである。
実践のなかで、この方向に進もうともせず、ただ自分で勝手に正しいと考えているだけでは、『わかった』といってみたところで、実際にはわかっていないのである。(毛沢東選集第六巻 「三一書房」より)
○ 活用の指針 ○
上に述べた方法を組織的・集団的に実践していたのが毛沢東のやり方であり、これこそ彼がどの戦いにも勝ち抜いた真の秘密であるとも言えます。
誤解を恐れずに敢えて言えば、「名刺折事件」で今話題の田中康夫長野県知事が、幹部職員の発した「しなやかな生き方とは何ですか」に対する回答、すなわち「端的に言えば、弁証法が分かっているか否かです」ということになります(この部分は2000/11/01 追加)。
また、実証に基づく思想統一という意味では、武田信玄のやり方に酷似しています。
そして、現実を直視するという意味では、「朝倉氏の壁書」にも次のような言葉あります。
○ひとりが、(例えば)百万円もする名刀を好んで持つよりは、一万円の槍百本を百人に持たせるほうが軍事的な効果があがる。
○勝つことができる合戦、落とすことができる城攻めに、吉日や方角を気にしてチャンスを逃すのは愚かなことである(思い立ったときこそが吉日である)。
○武者は戟uともいえ、畜生ともいえ、勝つことこそが根本である。
因みに、孫子の実証主義は、次の言によって簡潔に表現されています。
『先知(敵の情報収集)は、鬼神(祈祷など)に取る可からず、事(占いなど)に象る可からず、度(身勝手な計算)に験す可からず、必ず人に取りて、敵の情を知る者なり』<第十三篇用間>と。
それでは今回はこの辺で。
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古伝空手・琉球古武術は、孫子兵法もしくは脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶために最適の方法です。日本古来の武術は年齢のいかんを問わず始めることができ、しかも生涯追及できる真なる優れものです。
孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。
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