孫子兵法

孫子兵法

第八回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』

〔2000/02/20〕

一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍

 


☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆


『敗くるも目的を達することあり。勝つも目的を達せざることあり。
真正の勝利は目的の達不達にあり』
 …秋山真之


 

◇ 解説 ◇

 目的の達成・不達成という観点から見た場合、俗に、相撲に負けて勝負に勝つ、あるいは、相撲に勝って勝負に負けるという言葉があります。

 相撲はもとよりスポーツでありますから、これを相撲興行という側面から捉えれば、勝負の内容は、勝っても負けても真っ向勝負の手に汗握るものでなければなりません。

 一方、場所の星取表に力士生命・生活の懸かっている力士は、観客の大向うをうならせる名勝負を展開しても、負け越してしまえばそれまでです。このためなりふりかまわず勝つための手段に走るので、相撲興行としての目的から見れば興ざめの取り組みとなるのです。

 しかし、力士生命・生活の維持という目的から見れば正しい勝利ということがいえます。八百長相撲があるのかどうか定かではありませんが、あるとすれば力士生命を懸けた窮余の一策ということなのでしょう。

 ただし、引退してもその後の相撲人生が保障されているシステムが完備しているのであれば、負けても生活が保障され死ぬわけではないですから(これが、スポーツ・娯楽・賭博と実戦を区別するメルクマールです)、相撲興行としての目的に反する相撲内容は、力士の職務怠慢ということになるのでしょう。

 

 しかし、これが実戦、つまり負ければ命が無いという吹u界から観れば、様相は一変します。

 そのもっとも端的な例が、「朝倉氏の壁書」にある「武者(よろいかぶとを着けた武士)は戟uともいえ、畜生ともいえ、勝つことこそが根本である」ということなのです。

 負けても命を取られることのないスポーツ・娯楽・賭博ならいざ知らす、命のやり取りをする実戦では勝つことがすべてであって、勝ち方に正々堂々も、きれいも汚いも無いわけであり、ましてや、ハラハラどきどきの手に汗握る戦い方などはもっての外ということになります。

 

 そのような暴虎馮河(ぼうこひょうが・虎を素手で打ち大きな河を徒歩で渡る意)の指導者の下では、「一将功なりて万骨枯る」のが落ちです。

 しかも、自分ばかりでなく、当然、相手もその考え方で来ますから、実戦は単なる力比べではなく、それに加えて、人間としての知恵・つまり謀(はかりごと)を以ての戦いとなります。

 謀(はかりごと)とは、つまりは相手の裏の裏を掻く、あるいは相手の上手をいくということでありますから、勝ったように見えても、その上位目的が不達成であれば敗けたことになり、敗けたように見えてもその上位目的が達成されていれば勝ったことになる、という現象があらわれます。

 このゆえに、実戦においては、何が真の目的であるのかを、目的と手段との相対列の関係において常に明確にしておくことが重要なのであり、そこを忘れての目先の勝利は、真正の勝利につながらないというのです。

 ここをわきまえてこそ、千変万化をその本質とする実戦において、臨機応変・状況即応して真の勝利をつかむことができるというのです。

 

○ 活用の指針 ○

 孫子は、<第十二篇 火攻>と<第二篇 作戦>で目的と手段の関係を次のように総括しています。

 前者は『夫れ、戦い勝ち攻めて取るも、その功を修めざる者は凶なり。これを命(な)づけて費留(ひりゅう・骨折り損の草臥れ儲けの意)と曰う』であります。

 後者は有名な『拙速』であります。

 前者は読んで字のごとしでありますので分かり易いのですが、後者は分かりにくい部分です。しかし、『拙速』についてはすでに何度も説明しておりますのでここでは省きます。ヒントは、軍事は政治の延長であり、政治の目的に対して軍事は手段だということです。

 この両者の、目的と手段との相対列の関係にあるものが『拙速』なのです。巷間言われているように、戦術的な意味での「まずくても速くやる」の意味ではありません。

 第一、「拙速」が述べられている<第二篇 作戦>は、国家の経済的見地から見た戦略論を述べている個所であり、戦術論を述べているものではありません。

 

「まずくても速くやる」がごときの低レベルことを一々兵書に書かなくても、戦術の眼目はそもそも臨機応変・状況即応にあるわけですから、当然の措置として実行されるべきものであり(孫子はこのことを<第八篇九変>で述べています)、まさに言わずもがなことなのです。

 

 仮に、「まずくても速くやる」のがその国の国家戦略というのであれば、(戦争は情報戦であるから)相手国は、その裏を掻いて、じっくりと持久戦に持ち込み、(まずくても速くやるゆえに)おのずから生ずる相手の虚に乗じて、おもむろに反撃すればいいだけのことであり、これまた議論するするのも恥ずかしいような話となってしまいます。

 このようなことは、常識でちょっと考えて見れば誰でも判る話でありますが、それがまかり通っているのが現実なのであり、これもまた、人の話は鵜呑みにするな、の好例であるといえます。

 そもそも兵法は「人の話を鵜呑みにしない」ことを以て、鉄則としているのでありますから、孫子兵法を読む場合も当然その心得は必要なのであり、そうでなければ、論理矛盾である、といわざるを得ません。

 

 閑話休題(それはさておき)

 因みに、クラウゼヴィッツは、目的・目標論について次のように述べています。

 一、目的(何が敵であるか)を忘れてはならない。

 二、目的と目標を混同してはならない。

 三、目標とは目的に到達するための手段であり、当面の前進目当てである。

 四、目標を無視して目的をつかもうと焦れば足もとをすくわれる。

 五、目的を忘れて目標に熱中すれば無駄働きとなる。

 

◇ 編集者より一言 ◇

 

 もう話題にするのもばかばかしいぐらい警察組織は不祥事続きです。

 女性長期監禁事件に端を発した新潟県警の虚偽発表(言いわけの論法・考え方が神奈川県警と瓜二つである)を、目的と手段の関係でとらえて見ますと次ぎのことが言えます。

 警察組織(全国25万人の警察官を僅か500人のキャリアで支配している)の防衛のためにとった隠蔽という目的が、実は国民に奉仕する公務員のとるべき手段としては、言語道断であったということなのです。

 真に彼らが組織防衛を図るのならばもっとうまいやり方があったはずでありますが、あまりに国民を舐めきった(人間の知恵としての)知能の恐るべき低さゆえに、頭隠して尻隠さずを地でいく所業となり、その目的を達成できませんでした。

 

 今度、その彼らを監察するために、警察庁から特別チームが派遣されるということですが、これとて「同じ穴の狢(むじな)」であり、真に国民の喝采を浴びる国民のための開かれた警察組織の改革という目的から見れば、明らかにその手段を間違えているといわざるをえません。

 所詮は、(税金)泥棒が自分で自分を縛るための縄を編むわけはないのであり、つまりは、真の目的達成など考えてもいない単なるゼスチャーに過ぎないのです。

 警察、とくにキャリア官僚は、自分たちの職務を命のやり取りの無いスポーツ・娯楽・賭博の類と勘違いしているものとしか思えない。

 警察という神聖な職務の真の目的を理解しているのかどうか極めて怪しいと断ぜざるを得ません。

 彼らの間の抜けた、あるいは鈍足な行動ゆえに、相当数の国民が結果として現に命を奪われ、あるいは生命の危機にさらされていることは、けだし当然のことといわざるを得ません。

 彼らに鉄槌を下す唯一の武器がわれわれの一票にあることを今こそ自覚する必要があるのではないでしょうか。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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