孫子を学び活かした人々
兵法書「孫子」は、原著者孫武以来、約二千五百年の風雪に耐え、今日もなお、戦争指導書・軍事思想の鑑として広く世界の人々に珍重されるのであり、また政治の要訣を教え、あるいは経営、人生の指針を語る書としても、時空を超えた怪しげな生命力をたもち異彩を放っている。
三国志の英雄、魏の曹操が「吾れ、兵書・戦策を観ること多きも、孫武の著す所は深し」と評する所以である。
ここでは特に、古今東西を通ずる名将や大事業を成し遂げた代表的な人々と孫子兵法との関係について述べてみたい。
1.孫子と中国人
(1) 韓信と孫子
前三世紀末、楚・漢抗争の時代、劉邦に従い漢帝国成立に尽力した常勝将軍韓信は「背水の陣」、「半渡の計」などで孫子兵法の神髄を実証して見せた。
(2) 三国志の英雄と孫子
三国志の真の主役であり革新者であった魏の曹操は(死後、武帝と諡号される)は、孫子の兵法を研究して戦いに取り入れただけでなく、優れた注釈書(いわゆる魏武注孫子)まで残している。「孫子」十三篇は、まさに曹操を経由して現代に伝えられたのである。
また、劉備玄徳に「三顧の礼」をもって軍師として迎えられ、「天下三分の計」を立てた諸葛孔明、あるいは「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名な司馬仲達も「孫子」から大いに学び、見事な作戦を繰り広げている。
そして呉の孫権にいたっては、自軍の将・呂蒙に対して「孫子の兵法」を学び戦いに活かすよう指示したほどである。
(3) 毛沢東と孫子
毛沢東の戦争論とでも言うべき論文「中国革命戦争の戦略問題」には、「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」など「孫子」の原文が数ヶ所引用されている。 また内容的にも、現実主義的な戦略戦術、透徹した現状認識など「孫子」を想起させる個所がいたるところに散見される。
そして何よりも、毛沢東の実践した「持久戦論」は「拙速」を説く孫子兵法の裏の奥義とでも言うべきものであり、その意味でまさしく毛沢東は「孫子」の具現者であったと言える。
2.孫子と欧米人
(1) 「孫子」がヨーロッパ世界に初めて紹介されたのは、フランス革命 (1789〜1799年)直前であり、しかもフランス人宣教師の簡単な訳によるものであったという。
(2) ナポレオンは多忙な戦陣の間にも「孫子」を手放そうとせず、乗馬の鞍壷に入れ愛読していたと言う。彼が多用した局所優勢・各個撃破の戦法は、まさに「孫子」の説くところでもある。
(3) 第一次世界大戦を引き起こして敗れたドイツのヴィルヘルム二世は、亡命先のロンドンで初めて「孫子」に接し、この書を学ばずに開戦に 踏み切ったことをしきりに後悔したと言う。
(4) 英国の軍事思想家リデル・ハートは、『孫子の兵法は軍事学問題に関 する最古の論文である。その洞察の広範なることとその深さは他の追 随を許さないものがある。まさに、これは戦争指導に関する叡智の精髄の名に値する。過去のあらゆる 軍事学者のうちで、孫子に匹敵で きるものは、ひとり、クラウゼウィッツあるのみである。ところが孫子に遅れること二千年以上の彼の著作が孫子より以上に古びたものとなり、その一部はすでに用をなさなくなってしまっているのである。実に、孫子はクラウゼウィッツより以上に明確な視野と、より以上に大きな洞察力と永遠の新鮮さを有しているのである』と述べている。
(5) アメリカはベトナム戦争で目的を達成できなかった原因は、北ベトナム軍ではなく北ベトナム軍を繰っていた「孫子兵法」にあると大反省を し(戦利品にあっ 孫子を翻訳して調べたところ、そこに書かれている内容と北ベトナム軍の戦 い方の余りにリアルな酷似性に愕然としたと いう)、以後「孫子」の吸収に大童となったのである。
因みに、ベトナム民族解放闘争の伝説的指導者、ホー・チ・ミン(これは中国・延安へ赴いたときの名で、志明らかなる異邦人の意。本名はグエン・タト・タイン)の一番弟子が北ベトナム人民軍の創設者にして希代の戦略家と謳われた、ボー・グエン・ザップ将軍である。
ホー・チ・ミンは若い頃から、ベトナム独立のための活動を続けており、1941年、中国・湖南のゲリラ訓練所での活動を最後にベトナム北部の山岳高地に入り、ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成する。彼は幼い頃から中国古典を読んでいたが(因みにベトナムは漢字文化圏である)、孫子を学んだのはその頃だったと伝えられている。
ホー・チ・ミンの戦略はつまるところ、孫子兵法をバックポーンとする毛沢東戦略を発展・成長させたものであり、その戦法の秘訣は「できるだけ賢く、敏捷に、秘密に行動し、環境に応じて分散あるいは集中して戦え」にあるとされる。これがさらに、ベトナムの歴史の現実の土壌によって洗練され結実したものがホー・チ・ミンの後継者たるボー・グエン・ザップ将軍の戦略ということになる。
それはさておき、良いものは、何でもためらい無く吸収するという、アメリカのいわゆるフロンティア・スピリットがここでも発揮されたのであった。その結果、平成二年、アメリカでは「孫子」の学会・ 協会・クラブに類するものが百以上できたと言う。
そして、平成三年一月に開戦したあの湾岸戦争では、ノーマン・シュワルツコフ将軍によって「孫子兵法」の英語版が軍関係者に配られ、孫子のいう「拙速」、つまり短期決戦のマニュアルとして活用されたのであった。
(6) イラク戦争の当初、米英軍が行った大規模空爆の戦略「衝撃と恐怖」作戦は、孫子の兵法を参考にアメリカの軍事学者、ハーラン・ウルマン博士が現代版に仕立て直したものと言われている。即ち、命中精度が高い精密誘導弾で市民への被害をできるだけ避けつつ、絨毯(じゅうたん)爆撃のような印象でイラク軍の戦意を一気に喪失させ、戦わずして勝つことを狙いとするものである。
孫子の曰う「戦わずして人の兵を屈する」は、原理的には開戦後も適用されるものであるため、必ずしも非適切な応用とは言えないが、第一義的には、あくまでも開戦前のことを曰うものであること、かつ泥沼化する一方で出口の見えないその後の経緯を見るにつけても、真の意味での「戦わずして勝つ」方策が見出せなかったのか大いに疑問に感ずるところである。
3.孫子と日本人
(1) 「孫子」の日本への伝来は、奈良時代の政治家・学者として有名な吉備真備(きびのまきび、693〜775年)が唐から帰ってくるときにもたらしたと言われているが(朝命により太宰府で「孫子」九地篇を講義している)、その前に百済人の兵法家によって伝えられていたことは日本書紀(720年完成)などの記述から明らかである。
とは言え、このことは直ちに「孫子」の実戦への応用を語るものではない。やはり「孫子」に習熟しこれを実戦に用いた例としては、後に吉備真備が政敵・恵美押勝(えみのおしかつ、本名藤原仲麻呂)の乱に際して、これを鎮定し「孫子」が優れた兵法書であることを実証したことを以って嚆矢とすべきであろう。
(2) ともあれ、平安時代に入ると知識人の中国兵書研究はいっそう盛んとなり、なかでも「孫子」はその最たるものであった。
これら中国兵書は、平安時代以降、文章道を家学とした大江家が管理したが、大江家は「戦場において占いによって日時や方位などを判断して勝利を得ようとする軍配兵法」を広めるため、「孫子」を秘書(秘密にして人に見せない書籍)としたので、「孫子」は大江匡房(おおえのまさふさ、1041〜1111年)が前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎源義家に伝授したにとどまり、以後一般には見ることのできない隠れ兵書となった。
(3) この結果、「孫子」は源家だけに伝承され、知られている中で戦国時代 「孫子」を実戦に活かしたのは、武田信玄(武田家の家祖は義家の三弟、新羅三郎義光) に限られた。信玄の旗印として有名な「風林火山」は「孫子」の軍争篇からとったものである。
因みに、大江匡房を家祖とする毛利家には漢の名軍師「張良」の兵法が伝わり、毛利元就がこれを駆使したことは広く知られしている。
また時代は遡るが、建武中興の功臣・楠木正成が多聞丸と言われた年少のころ,兵法の師として教えを受けたのは、赤坂城西南八キロの葛城山麓に館を構え加賀田の隠者と尊称された大江時親(大江匡房の七代目の子孫)といわれている。
少年多聞丸の柔軟な頭脳のすみずみまで「孫子」が浸透したことは想像に難くない。
(4) 江戸時代に入ると、兵法は武士の教養教育となり、徳川家康が武田家の軍法に心酔して取り入れに努めたため、軍学流派は「孫子」系の甲州流、北条流、山鹿流、長沼流、風山流などが主流を占めた。
因みに、徳川家康は慶長11年、「孫子」を首位におく官版「武経七書」(孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・六韜・李衛公問対)を日本で初めて刊行している。
江戸期の「孫子」研究者は、林羅山、甲州流武学中興の祖小幡景憲、その門下生で北条流を創始した北条氏長、同じく山鹿流を開拓した山鹿素行、また荻生徂徠、新井白石、佐久間象山、そして江戸兵学の掉尾を飾る幕末の英傑、吉田松陰などがいる。
漢文の素読と暗誦が人間形成に多大な影響を及ぼし、いかにその思考力を深めるものであるかは、いまさら論ずるまでも無い。一説には「明治維新を支えた大きな原動力の一つは、漢文の素読で培われた」とも言われている。
(5) こうして明治を迎えるが、旧士族階級を中心とする指導者層には孫子流の用兵思想がなお色濃く残されていたのであり、日本を世界列強の地位に押し上げた日清・日露の両役は、これによって領導され戦われたものといっても過言ではない。
もとより軍部は、クラウゼウィッツの流れを汲むメッケル戦術は学んではいたが、それは軍事技術的分野にとどまるものであり、戦争指導のいわゆるソフト部分はあくまでも「孫子」を基調とするものであった。
日本海海戦では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が『ロシアのバルチック艦隊は長途遠征の極みで疲労困憊しているから、必ず最短距離の対馬海峡を通ってウラジオストック港に行く』と判断して同地でこれを待ちうけ、大勝利を博している。
これは孫子の曰う『近きを以って遠きを待ち、佚を以って労を待つ』<第七篇軍争>、あるいは、『先に戦地に処りて、敵を待つ者は佚し、後れて戦地に処りて、戦いに趨く者は労す』<第六篇 虚実>を実践したものである。東郷平八郎は、日露戦争出征に臨み、書籍は何も持たずに出発したが、ただ一冊「孫子」だけは身につけて行ったという。また旅順攻城戦で有名な陸軍大将・乃木希典は、日露戦争後、私費で「孫子諺義」を出版している。もっともその戦いぶりは必ずしも孫子兵法的思想に基づくものとは言い難いのであるが。
(6 )しかしそれにもかかわらず、せっかく江戸時代に蘇生し、幕末・明治 の動乱期を領導した「孫子」流の思考方法が、日露戦争以降、日本の軍事思想の中心となる状況はついに訪れなかった。
「天、二物を与えず」と言う。一人の人間が二つの異なった方面(ここではリーダーとしての資質とスタッフとしての資質の意)に天賦の才能を同時に持つということはありえない。ゆえに組織における幹部の育成は、この二つの才能を明確に峻別し、それぞれのコースに応じた適切な教育を施し、これを適材適所に配置することが重要である。
官僚のいわゆるキャリア制度(旧軍部においても全く同じ構造)を見るまでも無く、スタッフとしての資質しか有し無い人物がトップのリーダーとして組織に君臨することは、あらゆる意味で大いなる不幸を招くのである。況や、戦う組織においてをや、である。
「明治」が遠くなるとともに、代わって登場してきたのが総合的視野に欠けるいわゆる学校秀才達であった。彼らは一見迂遠に見える「孫子」を垣間見ようともせず、益々クラウゼウィッツ以来の西欧近代兵学(戦争を軍事力の正面衝突の側からのみ捉え、敵兵力の殲滅、敵国の完全打倒を目指すもの)にのめり込み、戦争に対する柔軟な適応を失っていったのである。
つまり、その後の日中戦争・太平洋戦争は、日清・日露の両役と異なり戦争指導のいわゆるソフト部分もクラウゼウィッツ流を基調としたのであり、その結果とも言うべき戦争の惨禍は歴史の示すとおりである。
昭和天皇は敗戦の原因の第一に、兵法の研究が不十分であったこと、即ち孫子の「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず」と言う根本原理を体得していなかったことといわれた。
因みに日本陸軍でも自ら求めて「孫子」を研究しようとした人はいる。昭和4年陸大専攻学生として一年間入校した武藤章少佐(日中戦争勃発時の参謀本部作戦課長・その開戦責任を問われ東京裁判で刑死)である。彼は「クラウゼウィッツ及び孫子の比較研究」を行なったが、結果は良くわからないとのことであった。
だが、このときこそ軍部にとって本当に必要とされたのは、現実性と中庸性を説く「孫子」だったのではないだろうか。
どんなに技術が進歩しようと、それを動かし使いこなすものは、人間の心であり、状況に対する全体的・総合的思考法である。この根本を忘れ、いたずらに技術偏重主義に陥ることや、単なる学校秀才を以って直ちに「人物」と見なしこれを組織のトップに重用することは極めて危険な行為と言える。
しかしながら、日中戦争・太平洋戦争を指導した旧軍部の構造と、半生紀後のいわゆるバブルの崩壊を引き起こした官僚キャリア制度の構造は何ら変わっていない。天下国家を忘れ、唯一身の栄達と利益を図り責任回避に汲々とするそのおぞましい姿は、リーダーとは名ばかりの単なる税金泥棒であり国賊ものである。
とはいえ、それもこれもすべての責任は「真のリーダーとは何か」の基準をもたない我々選挙民の責任でもある。ここに幕末以降、絶えて久しい「真のリーダーの書」たる「孫子」の教育を蘇らせる必要性が有るのである。
4.日本人が選ぶ歴史人物ベスト20選(NHK調べ)
(1) ベスト20〜11位
20位 高杉晋作
1839〜1867 長州藩士。いわゆる勤皇の志士。松下村塾に入って吉田松陰に師事、久坂玄瑞と並称された。1862 幕吏に随行して上海に赴き、帰国後尊攘運動に奔走、久坂らと品川御殿山の英公使館を焼き討ち。
1863 長州藩が下関に外船を砲撃した際には奇兵隊を編制し、武備の充実に努力。のち藩の要路を保守派が占めたので、一時福岡に身を避け、1865 義兵を起こして藩庁を改革。 第二回征長の役に奇兵隊を率いて幕軍と戦ったが、倒幕の機をみることなく下関で病歿。
19位 楠木正成
? 〜1336 鎌倉末建武期の武将。幼名多聞丸。鎌倉末の在地情勢に促されて、次第に実力を養う。1331 後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に加わり河内赤坂城に挙兵、一旦落城、1332 千早城に挙兵し幕府の大軍を引き受けて、全国的な反幕蜂起を促進。建武中興成就の功により河内守、摂河泉3国守護。
1335 足利尊氏離反するやこれを九州に駆逐。1336 再起した尊氏の大軍を摂津湊川に迎えて防戦敗死。知略兵法をもって最も世に著われ、儒学(宋学)等の教養もあった。
18位 榎本武揚
1836〜1908 幕臣。通称釜次郎。1855 長崎海軍伝習所に入り、1862 オランダに留学し兵制・法律を修め、1866 帰国、のち海軍奉行となる。 幕府倒壊と共に 1868 軍艦「開陽」以下6隻を率いて脱走して五稜郭で反抗。
翌年官軍に降り下獄、のち 1872 開拓使四等出仕として新政府に登用、海軍中将、ついで 1874 駐露全権公使として千島・樺太交換条約を締結し、のち外務卿・逓信大臣等を歴任。
17位 大塩平八郎
1792〜1837 江戸時代の儒者。大塩の乱の首謀者。江戸末期、大坂天満の与力大塩教高の子に生まれ、父の職を継ぐ。
江戸に出て林述斎に朱子学を学び、さらに陽明学を修む。37才にして職を子に譲り、子弟の教育・著述に日を送る。塾を洗心洞という。また大坂町奉行の補佐役にもなる。
彼の晩年天災飢饉相次いで起こり、庶民は大いに苦しんだ。特に 1836(天保7)の飢饉は大きく、惨状はなはだしく、平八郎は庶民の救済を奉行に願ったが聞き入れられなかった。
彼は蔵書を売って窮民の救済にあたったが如何ともしがたく、翌年2月同士と共に一揆を起こし、大坂の商人を襲い窮民に金・米を与う。
一揆はまもなく鎮圧され、平八郎父子は自殺したが、その報全国に伝わり、影響大。
16位 毛利元就
1497〜1571 戦国時代の武将。初め尼子晴久に属していたが、1534 晴久と絶って大内義隆に属した。
1551 義隆は家臣陶晴賢に害せられたが、1555 元就は厳島の戦いに晴賢を撃って、さらに残党を平らげ長門・安芸・周防を平定した。
1557 備後に兵を出し、1558 石見に入り、ついで出雲・因幡・伯耆を平らげ山陰・山陽に覇を称えた。
15位 白虎隊
戊辰の役(東北戦争)(1868)に会津藩士の子弟15〜17才の者を選び編成した少年軍隊の名。隊長日向内記で、フランス式訓練を受けた。士中・寄合・足軽の3隊に分かれた。このうち上士の子弟たる士中の一隊37名は戸の口原に奮闘して、多く戦死。残る16名が鶴が城の火炎をみて、飯盛山に自刃す。
14位 卑弥呼
魏志倭人伝に記された3世紀前半(因みに中国では「三国志」の英雄達の時代である)の邪馬台国女王。もと男子を王としていたこの国は2世紀後半大いに乱れたが、遂に卑弥呼を擁立した。「彼女は鬼道に事えて能く衆を惑わした」と記され、シャーマニズムのごとき呪術的宗教の巫女として、神権政治を行なう女酋であったらしい。
年長じても夫をもたず、男弟が政務を助けていた。239 第一回の遣使を魏に送り奴隷等を献じ、親魏倭王の称号を受けている。
3世紀半、狗奴国と争ったが、彼女の死により(径100余歩の墓に葬られた)男王を立てたが国中服せず戦乱が続いたので、彼女の宗女壱与王としたところ鎮まったと記されている。
13位 徳川慶喜
1837〜1913 徳川15代将軍。水戸藩主齊昭の第七子。1847 一橋家を継ぐ。将軍家定の継嗣問題には尊攘・改革派に擁立されたが実現せず、安政大獄に隠居謹慎を命ぜられる。井伊直弼の横死後許され1862 幕政改革には将軍後見役となり公武合体・幕権維持に努む。
家茂歿し15代将軍となり、鋭意幕政改革にあたり、小栗忠順を用い仏公使ロツシュの言を入れて洋式制度を採り、幕府の絶対主義政権化へ努力。1867 大政を奉還、大坂城に移り、鳥羽・伏見の役後江戸に恭順、江戸城を開城。1880 正2位に復し 1903公爵。
12位 西郷隆盛
1827〜1877 幕末・明治初期の政治家。大久保利通・木戸孝允と共に維新の三傑と称せらる。鹿児島城下薩摩藩下級武士の家に生まれた。通称吉兵衛・吉之助、号は南州。
安政年間諸藩志士と交遊し、安政の大獄にあたっては僧月照と入水、大島に潜居3年、文久年間尊攘運動に参加。1864 第一回征長の役後藩論を次第に反幕に導き、1866 薩長同盟結成に尽力す。
1867 王政復古の計画に最も力を尽くし、新政府成立と共に参与となり、江戸城攻撃にあたっては無血入城に成功す。ついで鹿児島藩に帰り藩政改革にあたり、1871 参議となり廃藩置県を計画。翌年陸軍元帥兼近衛都督。
1873 征韓論を主張したが入れられずして下野、鹿児島に私学校を設けて郷党の子弟の指導にあたる。1877 、2月擁されて挙兵、西南戦争を起こしたが、9月鹿児島城山に死す。
11位 新撰組
1863 江戸幕府は浪人の懐柔統制のため清川八郎らの議をいれて浪士組を結成、翌年上洛させたがまもなくこれが分裂し、芹沢鴨・近藤勇らが京都守護職松平容保の支配下に結成したのが新撰組である。隊長は芹沢、ついで近藤、副長土方歳三。京都にあって市中取締、尊攘派浪士の弾圧にあたる。
1868 鳥羽伏見の役に参加敗れ東帰。ついで甲陽鎮撫隊を結成、3月甲州勝沼に官軍と戦い、敗れのち解隊す。
(2) ベスト10〜4位
10位 伊達政宗
1567〜1636 近世初期の武将。陸奥守。1584 父輝宗が二本松義継に謀殺されるや家を継いで二本松氏を滅ぼし、1588 芦名氏を滅ぼして会津地方を経略したが、1590 豊臣秀吉に降り、岩手地方に移された(50万石)。
文禄の役に出陣、秀吉死後石田三成らと対立して徳川家康に属し、関が原の役後 1603 仙台城に移り(62万石)屈指の外様大名として仙台藩の基を開いた。1613 家臣支倉常長をローマに派遣。隻眼の猛将、茶道絵画等文事にも素養あり。
9位 源義経
1159〜1189 源九郎と号す。義朝の子。母は常盤。頼朝の異母弟にあたる。平治の乱後母と共に平清盛に 捕らえられたが、赦されて鞍馬寺に入り、後ひそかに出て、奥州平泉の藤原秀衡の許に赴きこれに頼った。
兄頼朝が挙兵すると聞き、兵を率いて馳せ参じた。のち院宣を奉じて木曾義仲を討ち、 また平氏一族を一谷・屋島・壇ノ浦に討って滅亡せしめた(1185)。
武勇の誉れ高く、後白河上皇の信任を得たが、他方次第に兄頼朝と不和となり、叔父行家と結んで頼朝を討たんとして成らず、諸国の間を隠れて再び平泉に赴き秀衡に庇護された。秀衡死すに及び子泰衡は頼朝の威に恐れて、義経を衣川館に攻めて遂に自害させた。
8位 上杉治憲(鷹山)
1751〜1822 米沢藩主。日向高鍋城主の次男。上杉家に養子となる。時の将軍家治の一字を与えられ治憲と改む。
藩主として財政の改革・殖産興業・新田開発・倹約の奨励・飢饉の備え等、封建的善政を行なった名君。 また文教を奨励し、藩の学校たる興譲館を開き人材登用に意を注いだ。隠居後(鷹山)ようざんと号した。
7位 豊臣秀吉
1537〜1598 尾張中村の産。幼名日吉丸。実父木下彌右衛門、継父筑阿彌と伝う。15才、武士を志して家出、今川氏の将松下嘉兵衛に仕え、まもなく去って尾張織田信長に仕えた。 初め木下藤吉郎と称したが、しばしば戦功を立て信長に重用され、羽柴と改姓。1573 近江浅井氏滅亡後その旧領内18万石を与えられまた筑前守に任。
1577 中国征伐の任を帯びて西進、1582 備中高松城に毛利氏の将清水宗治を囲んだが、同年本能寺の変起こるや毛利氏と和して軍を返し山崎に明智光秀を破る。1583 柴田勝家を滅ぼし、滝川一益を降し、1584 徳川家康・織田信雄と戦い、1585 四国征伐、1586,87 九州征伐、1590 関東(小田原北条氏)征伐、奥州平定をもって天下統一の業を完成。
この間1583 大坂城を築き、1585 関白、1586 太政大臣、豊臣の姓を賜り、1588 聚楽第に後陽成帝の行幸を仰ぐ。
1591 関白を養子秀次に譲り朝鮮出兵の軍を起す(文禄慶長の役)。1596 日明和平せんとして明使の違約により交渉決裂、1597 再度朝鮮出兵したが、戦績意のごとくならず、翌年幼嗣秀頼の前途と10万外征軍の処置に不安と懊悩を抱きつつ病死。
大政治家としての力量を極度に発揮して短日月の間に天下統一事業を成就し、理財に明るく、天下の財力を掌握したが、反面その性格はすこぶる家庭的天真爛漫、また豪放にして華美を好んだ。
6位 大石内蔵助
1659〜1703 播磨赤穂藩主浅野家の家老。通称喜内、のち内蔵助と改む。1701 藩主浅野長矩が江戸城中にて吉良義央を傷つけ、即日領地改易、切腹を命ぜられた。
このため赤穂城は開城となり、内蔵助は京都山科に隠れ再興の機を待った。再興困難の見通しから、1902,12月14日同志46人と共に吉良義央を襲い(江戸本所)複讐を遂げた。
幕命により1903 切腹、江戸高輪泉岳寺に葬られる。封建社会の忠義の範として文芸面で採り上げられ、「忠臣蔵」として今日でも親しまれている。
5位 武田信玄
1521〜1573 戦国時代の武将。甲斐の守護武田氏の嫡流信虎の長子。名晴信。出家して法性院信玄。父信虎が暴政を行なったので 1541 父を廃して嗣立。
これより信濃経略を志し、1542 諏訪氏を滅ぼし、小笠原・村上諸氏を攻め、1553 村上義清越後上杉謙信に頼り、以後信玄・謙信、信濃に対戦。1561 川中島の戦いは著名。
また北条氏・今川氏らと或いは戦い或いは結んで次第に勢力伸張、今川の衰退に乗じて駿河を略し、進んで京に上らんとして 1572 遠江三方が原で徳川家康と戦い大勝したが、陣中にて病死。
軍略では当代随一の名将。「信玄家法」(甲州法度)の制定、治水や鉱山開発等民政上の経綸を示した。
4位 坂本竜馬
1835〜1867 幕末の志士。高知城下の酒造家に生まれ郷士となる。剣は千葉周作の門下。1861 武市瑞山の尊攘派同盟に加入。 1862 脱藩して勝海舟門下となり神戸海軍操練所設立に奔走。1864 同所閉鎖後長崎亀山で社中結成。
1866 薩長同盟に尽力し、以来下関・長崎で武器軍需品売買を営み、反幕勢力を結集す。1867 後藤象二郎と協定なり社中を土藩付属とし海援隊と改む。 彼は天皇を上に列藩会議的議院制(八策)を主張、奔走中京都で中岡慎太郎と共に幕吏に襲われて殺さる。
(3) ベスト3〜1位
3位 織田信長
1534〜1582 信秀の子、幼名吉法師。1560 駿河今川義元を桶狭間に敗死せしむ。1561 家康と和約尾張統一。1567 美濃斎藤義竜を滅ぼし岐阜に移る.1568 入洛、足利義昭を将軍職に擁立。1571 比叡山焼き討ち。
1573 近江浅井・越前朝倉撃滅、義昭追放足利幕府を滅ぼす。石山本願寺攻撃。1575 武田勝頼を長篠に破る。安土築城。1580 本願寺と講和。1582 武田勝頼撃滅。
備中高松城攻撃中の秀吉援助のため京都に進出、明智光秀に本能寺で殺さる。戦国大名の一人として統一政権を志し、関所廃止・楽市楽座・検地・刀狩等を行なう。
2位 真田幸村
1567〜1615 安土桃山時代の武将。信州上田城主昌幸の次子、信之の弟。豊臣秀吉に属し小田原城攻めに功あり。1600 石田三成の挙兵に応じ父と共に徳川秀忠の西上を中仙道に阻止。
乱後高野山麓九度山に蟄居せるも大坂の陣に招かれて入城し、秀頼のために種々献策す。冬・夏の両陣に奮戦し、茶臼山付近で敗死す。
1位 徳川家康
1542〜1616 江戸幕府の創始者。三河国岡崎城主松平広忠の子。6才の時織田信秀の人質となり、のち今川義元の人質として駿府にあり。
1560 (永禄3)桶狭間で今川義元が織田信長のために敗死するや今川の支配下を離れ織田氏と結び、三河国を平定し、着々勢力を近隣に伸ばす。信長の死後、その子信雄を助け豊臣秀吉と小牧・長久手に戦ったが、まもなくこれと和し、秀吉の天下統一に協力。
1590 北条氏滅亡後は家康はその領地を関東に移され、さらに実力を増大した。文禄・慶長の役にも家康は出兵せず、実力を養い、秀吉死後 1600 関が原役で宇喜多・島津・長曽我部・石田・小西らの西軍を破り、毛利・上杉らの封を削って天下の覇権を握る。
1603 征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。1605 将軍職を子秀忠に譲り、1607 駿府に移り大御所と呼ばれた。
1614〜15 大坂冬・夏の両陣に豊臣氏を滅ぼし幕府の基礎ここに固まった。 死後駿府郊外久能山に葬られたが、翌1617 日光山に改葬、東照大権現の号を勅諡された。
(以上の各項目内容については坂本太郎監修「日本史小事典」山川出版社より抜粋させていただきました)。
上記人々のうち「孫子」を学びこれを活用したのは、楠木正成、武田信玄、真田幸村、大石内蔵助、徳川家康・高杉晋作と一応いわれているが、そうでなかった人々の仕事のやり口をみると、(上記人々と同様)孫子の考え方に酷似していることが納得される。とりわけ織田信長の場合、その戦略・戦術はまさに孫子そのものといっても過言ではない。
つまり、これらの例は、孫子流の思考法が組織体のリーダーとして仕事を成し遂げるために、最高かつ共通の智力であることの証明となるものである。 ここに我々が「孫子」を真摯に考察し、これを学ぶ所以があるのである。