第十六回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』
〔2001/02/23〕
一般社団法人 孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍
『平和ボケ日本のリーダーに蔓延する危機感の欠如』
〜スポーツと実戦は似て非なるもの〜
◇◇ 解説 ◇◇
昨今、都に流行(はや)るものはスポーツ・賭博・レジャーです。とりわけマスコミ各社のスポーツ報道はいささか過熱気味であり、スポーツでなければ夜も日も明けぬような活況を呈しています。それはそれで大変に結構なことでありますが、我々が生きている人間吹u界は、いつ死んでも文句の言えない「実戦」の吹u界にいるわけでありますから、あまりマスコミ報道に歩調を合わせることなく、ここいらで、冷静にスポーツと実戦は似て非なるもの、という認識をしっかりと持つことが必要であります。
とりわけ、吹uのリーダーと称される人々は、たとえ巷の風潮がどうあろうとも、間違っても、スポーツ・賭博・レジャーの類と「実戦」を混同するような不見識なことはするべきではありません。しかし、残念ながら、これらの人々の行動を報道で知る限りでは、どうも厳しい現実吹u界と、スポーツ・賭博・レジャー・ドラマの吹u界とを混同・同列視している節が多々見受けられます。
例えば、「漁業実習船えひめ丸の衝突沈没事故」を知りながら賭けゴルフを続行していたという森首相のお粗末な問題。また、「今日から日本は変る」「これから長いドラマが始まる」などと大見得を切り、国民に多大の期待を抱かせながら、結局は「命を賭ける男がいない」ことを如実に証明して見せただけの性質(たち)の悪い政治茶番劇・「加藤氏の乱」。
あるいは、小林幸二・新潟県警前本部長にいたっては、警察不祥事の再発防止の切り札として行なわれた特別監察の夜に、その監察官を相手に本末転倒な官官接待を行なった上、たまたま発覚した九年間に及ぶ少女監禁事件の報告を受けながらも、県警本部に戻ろうともせず、温泉ホテルで酒を酌み交わし、マージャンに興じていたという体たらくであります。
これらの事例はまさに、命の懸かった「実戦」と、命の懸かっていない(その意味ではあっても無くてもどうでもいい)スポーツ・賭博・レジャーの類とを明らかに混同している所業と言わざるを得ません。
吹u界にスポーツのオリンピックはありますが、戦争のオリンピックはありません。スポーツは敗れても死ぬことはありませんが、戦争は命が懸かっているゆえに、スポーツと同列の次元で論ぜられないからであります。つまり、戦争、従ってまた現実という厳しい吹u界はスポーツ・娯楽・レジャーとは似て非なるものということです。仮想現実ではないのです。「ちょっと待って、プレイバック、プレイバック」と言うわけにはいかないのです。
国家の存亡、国民の生命・財産を預かる重要な職責にあるものが、一朝有事の際、スポーツ・賭博・レジャー感覚で行動することがどれほど罪が重く、また、いかに情けないことかが判っていないようです。
この人たちに要求されているのは、見苦しい言い訳・弁解などではなく、その時、いかに行動したか、そしてその結果に対する責任のとり方なのです。その意味では、常在戦場・滅私奉公・秋霜烈日のごとき心根の有無を常に試されているわけです。逆に言えば、上記した事件の共通項はまさに平和ボケ日本の情けないリーダー達の実像を端無くも暴露したものであります。
この覚悟について孫子は『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』<第一篇 計>と曰うのです。「兵」とは、必ずしも戦争に限らず、上記した「実戦」の意と広く解すべきであることは言うまでもありません。
また、『史記』の孫子伝に見える孫武(孫子)の有名なエピソード「呉宮斬美人」は、このことを如実に物語っています。
即ち、孫武が兵法を以て呉王・闔閭に謁見した折、その腕を試そうした闔閭が戯れに宮中の美女達を使って軍事教練を試みさせるという話しです。
命を受けた孫武は、集められた宮中の美女180人を左右二つのグループに分け、それぞれの隊長に呉王の寵姫二人を任命し教練を開始しました。しかし、美女達は余興・ゲームだと思ってその命に真剣に服そうとせず笑い転げるばかりです。
孫武は再三再四その命令を徹底した後、改めてその責任の所在をを厳しく追求して、隊長である呉王の寵姫二名を斬罪に処します。
この次元を超えた厳しい見せしめのため、その後の教練は一糸乱れず見事に成功するわけですが、極めて不快なのはこのイベントを命じた呉王・闔閭自身です。
この闔閭に対し、孫武は身を捨てて諫言します。
『貴方は真の兵法というものをご存知ない。戦争は王侯貴族の趣味や娯楽でやるものではない。戦争は両刃の剣ゆえに、国民の死生の地、国家存亡の道となるのである。何のために戦争をするのか、その根本をよくよく考えるべきである。それが分からず単に戦争を好むだけのものは、兵法を弄んでいるにすぎず、リーダーとしての値打ちは無い』と。
つまり、スポーツ・賭博・レジャー・歌舞音曲の類と人の命の懸かった「実戦」とは、およそ似て非なるものである。この覚悟・自覚がなければ、いたずらに吹uの人の混乱を招くだけであるから、さっさとリーダーの地位を去るべきであると曰うのです。
それでは今回はこの辺で。
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孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。
とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。
これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。
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