孫子兵法

孫子兵法

第四回 M・M 『孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法』

〔1999/08/16〕

孫子塾副塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍

 



〜「戦わずして勝つ」から「戦いて勝つ」までの戦略パートU〜


T、孫子の曰う戦争とは(戦争と政治との関係)

 孫子をひも解くとき、まず目にするのが次の有名な巻頭言、すなわち『孫子曰(いわ)く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』<第一篇 計>ではないでしょうか。



 この意味は「戦争は国の一大事である。なぜならば、それは国民の死生の地であり、国家存亡の道だからである。よくよく慎重に、真摯に考察しなければならない」と解されます。

 このため孫子は、一般には、戦争(ここでは武力戦の意)のことのみ論ずる書と誤解されがちではありますが、実はそうではありません。

 孫子は、(人間社会の全体的営みから見れば)戦争はあくまでもレアケース、非常事態のことであると捉え、より大事なことは、そうなる前にそうならないように手を打つことができる普遍的な平時の態勢、すなわち、政治・軍事・外交・経済・思想等の国家運営のありようを先ず第一に論ずるものなのです。

 

 つまり、孫子の曰う戦争とは、いわゆる武力戦を意味する狭義の戦争と、その戦争を手段とする上位概念としの「政治(国家戦略)」をも含めた広義の意に捉えているのです。


 クラウゼウィッツはこのことを「戦争は他の手段をもってする政治の継続にすぎない」「政治は目的をきめ、戦争はこれを達成する」と、また毛沢東は「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」といっています。


 言い換えれば、政治(国家戦略)の目的を達成する手段として、政治・外交・経済・思想・軍事があり、平時は政治・外交を主とし戦時は軍事を主とするが、平時の政治・外交を支援するものは軍事であり、戦時の軍事を誘導し収穫するものは政治・外交であると主秩vしているのです。

 さらにいえば、ある政治目的を達成するために、政治・外交を主とする手段が行き詰まったとき(それをもってしては、もはや問題解決が望めないと判断されたとき)、そこに次元の異なる別の手段(ゲバルト・実力行使)としての戦争が登場するのです。
 それによって政治目的の途上に横たわる障害が取り除かれるわけですが、その勝利の度合いがその政治目的を達成するのに十分なものであれば戦争は終わるのです(孫子は、戦争の勝利の度合いにこだわらず、速く政治目的を達成することを『拙速』<第二篇 作戦>と曰います。

 ともあれ、孫子の曰う戦争は、「戦わずして勝つ」から「戦いて勝つ」までのスパンを含むものなのです。

U、「戦わずして勝つ」と「戦いて勝つ」の関係

 「戦わずして勝つ」を曰うものが<第三篇謀攻>(前半)であり、その象徴的表現が『是の故に、百戦百勝は、善の善なる者に非るなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。』であります。

 「戦いて勝つ」を曰うものが<第三篇 謀攻>(後半)であり、その象徴的表現が『故に用兵の法は、十なれば、則ち之を囲み、五なれば、則ち之を攻め、倍すれば、則ち之を分かち、敵すれば、則ち能く之と戦い、少なければ、則ち能く之を逃れ、若かざれば、則ち能く之を避く。故に、小敵の堅は大敵の擒(とりこ)なり。』であります。

 そして、<第十二篇 火攻>(後半)に曰う『怒りは以て復(ま)た喜ぶべく、慍(いきどお)りは以て復た悦(よろこ)ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之を慎み、良将は之を警(いまし)む。』の句と相呼応する前記の巻頭言『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』は、「戦わずして勝つ」と「戦いて勝つ」の両者に係るものなのです。

V、日本民族の性格的欠陥

 日本人の一般的な思考の特性として、例えば、
  「白か黒か」「死ぬか生きるか」
  「勝つか負けるか」「YESかNOか」
  「北風か太陽か」「戦うか戦わないか」
  「テロに屈しないか人質優先の平和的解決か」

 等々どちらか一方に決め付けたがる傾向が強いといわれています。

 

 この性癖の長所は「戦闘」に向く(強い)ということです。そもそも軍の手足としての兵卒の本分は、ただ命ずるがままに、己(おの)が正面の敵をまじめに正面攻撃することにありますから(孫子はこの故に『三軍は気を奪う可く』<第七篇軍争>と曰うのです)、片面的・一面的・主観的な上記日本人の性癖はこれにぴったりフィットするというわけです。旧日本軍の兵・下士官が吹u界最強といわれる所以(ゆえん)でもあります。

 反面、この性癖の短所は「戦略・謀(はかりごと)の企画・立案」に不向き(苦手・弱い)ということです(道徳的には美徳だが、戦争では悪徳)。
 そもそも軍の頭脳としての将軍の本分は「いかにして勝つか」という深謀奇策を考えることにあり(孫子はこのゆえに『将軍は心を奪う可し』<第七篇軍争>と曰うのです)、そのための基本は「全面的・全体的・客観的なものの見方と、識見が高く柔軟な発想」にあるからです(いわばこれは、将の「脳力開発」とも言うべき極めて重要な側面ですが、孫子はこれについて<第八篇九変>で詳説しております)。

 この民族的欠陥を補うのが(真の意味での)教育です。このことは「指導者はいかに在るべきか、いかに生きるべきか」を追求した武士道教育の残照とでもいうべき日清・日露両役の戦争指導者層を見れば一目瞭然です。

 その明治も遠くなり、代わって台頭してきたのが「カミソリ東條」に象徴される、いわゆる「学校秀才」達です(戦後で言えば大蔵省のキャリアエリート組に代表されます)。
 おのれ一個の栄達と利益しか頭に無い(リーダーとしてそもそも不適格の資質)小ざかしい彼らの「無能にして無策、かつ無責任」ぶりは歴史の示す通りである。

 日露戦争からわずか35年後、同じ満州を舞台にしたノモンハン事件は、この学校秀才(参謀)たちの暴走による「戦略無き戦術(無意味の別言)」の最たるものであります。

 目を普uうばかりの敗戦責任をだれも取らず、貴重な現代戦の教訓すら学ぼうとしない硬直した頭脳の参謀達によって、この2年後、日本は太平洋戦争に突入していったのです。


 ノモンハン事件のジューコフ・ソ連軍最高指揮官は「日本陸軍の下級指揮官以下はよく訓練されているが、古参、高級将校は紋切り型の行動しかとれなった」と批判しているが、上記した日本民族の性格的欠陥、ひいてはリーダー不在の現状を見るにつけ蓋(けだ)し当然のことと思われます。
 残念ながらこの日本人特有の考え方は、国際政治・外交の舞台においても吹u界共通の思考法とはかなりのギャップがあるようです。


W、敵に因(よ)りて勝ちを制す

 すでにお分かりのように、孫子の考え方は日本人が最も苦手としている「白もあれば黒もある」「YESもあればNOもある」「北風もあれば太陽もある」という多面的・多角度的立場に立つものであり、常に情勢を判断しながらその時々のウェイトをどこに置くかというスタンスをとるものなのです(ここに我々日本人が真摯に孫子を学ぶ必要があるといえます)。

 このゆえに孫子は、まず「百戦百勝の価値」よりも「戦わずして勝つ」に重点をおき、平素よりこれを最上策としてその実現に全力を尽くすものなのです。
 そして、それが叶わぬときは躊躇することなく次の上策たる「伐謀(敵のはかりごとを伐つ)」、次善策たる「伐交(敵の同盟外交を解体するための浴v間策)」に重点を移し、武力戦(狭義の戦争)の磨u然防止と「戦わずして勝つ」を追求するのです。
 それでも政治目的が達成できなければ、その目的をつらぬくために已(や)むを得ずして戦争(武力戦)を用うるのです。
 そして一度(ひとたび)「戦わずして勝つ」から「戦いて勝つ」に際会したとき、こんどは百戦百勝を目指して、まず野戦(運動戦)、それがダメなら攻城戦に重点を移して、目的達成に向け全力を尽くすのです。

 

 孫子の兵法は「先知(先ず知ること)」の兵法と言われています。敵に因りて変化する上記の戦略を成功ならしめるものの第一が、<第十三篇用間>の活用にあることは言うまでもありません。

 「戦わずして勝つ」から「戦いて勝つ」事例として、前回は赤穂事件にみる大石内蔵助の場合を取り上げましたが、次回はペルー・リマ日本大使公邸人質事件におけるフジモリ大統領の場合について孫子兵法の立場から解説してみたいと思います。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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