孫子兵法

孫子兵法

第十一回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』

〔2001/08/19〕

一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍

 


☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆


『常に死をならえ』
 …楠正成


 

◇ 解説 ◇

 この言は、楠正成がわが子正行に諭(さと)し教えたものと伝えられています。

 この吹u界のことは、必ずし悪因悪果でもましてや善因善果でもありません。

 とりわけ、死に関してまさにその存在は不条理そのものであります。このことは新聞紙上の社会面を賑わす記事によって、一目瞭然、冷酷に証明されています。その点、人間社会の死刑囚は、いわゆる罪を犯したがゆえに死刑になるわけでありますから一応納得はできます。

 しかし、我々が生きているこの吹u界における死は、悪因悪果も善因善果も本質には関係なく、死すべき縁が生じれば、いかなる場いかなる時であれ、問答無用、死ななければならないというわけなのです。

 このゆえに人生観とは、つまり死生観であり、死に対して如何に考えるかということは、自分の今の人生を如何に生きるかということの裏返しなのです。
 この辺が明確でないと、いわゆる酔生夢死の人生ということになりかねません。死に対する自覚、これを如何に定めるかが重要なのです。

 しかし、悲しいかな、凡夫ゆえにわれわれは、人生の一大事、この厳粛な事実を忘却しがちであるということなのです。否むしろ、意識・知識・アタマでは分かっているものの、、それは磨uだ々先のことと楽観しているか、はたまた、他人にはあり得ても我が身に起こるこことは実感していない、ということなのです。

 死を思うということは、年中、死を待ち焦がれ、ただうずくまっているということではありません。逆に、いかに積極的にこの有限の人生を生きるかということであります。ただ、その根底に常に死の覚悟を持て、そうでなければ真の意味で生を充実することはできない、ということなのです。

 彼の徳川家康は、三方ヶ原の合戦で敗れ、恐怖のあまり脱糞しながら命からがら逃げ延びたそのときの憔悴し切った姿を絵に書かせ、終生の戒めとして眺めていたということです。

 それと同じく、彼のイタリア・ポンペイ遺跡の人々は、各家々に髑髏の絵を飾っていたということです。常に「死を思う」ためだそうです。そのことを踏まえ人生大いに楽しむべし、ということなのでしょう。生を真に謳歌するためには、生はその死あってこその生であり、死はその生あってこその死ということを自覚していたのでしょう。

 どこかの国のごとく、死は汚いもの・醜いものと解されて病院に隔浴vされ、身の周りからその姿を消し、人々は死について真剣に語ることをしない。

 反対に、生こそ、あるいは若さこそ清浄なもの・美しいもの・価値あるものとする浅薄な思想が蔓延し、テレビには、あたかも、生のみ・若さのみが人生だと思考しているかに見えるスポーツ・芸能ネタの映像がこれでもかこれでもかと毎日映し出されています。

 こんな片手落ちの思考法と行動で、まともな人間が育つのか、甚だ疑問です。とりわけ近年の、若者によるホームレス襲撃事件などこの影響としか考えられません。彼らはホームレスを「ゴミ」と呼んでいるそうです。彼らは、やがてみずからが、その忌み嫌っている「ゴミ」になることを忘れているのです。単に、若さゆえの罪なのでしょうか。

 こんな短絡的な片面思考が、はたして人生をより良く生きることにつながっているのだろうか。

 「常に死をならえ」の言、あるいは、二千年前の古代ローマの都市・ポンペイの人々が家々に掲げて毎日眺めていた「髑髏の絵」は、明確にその答えを提示しているのです。現代日本社会がかかえている病根は、まさにこの人間・そして人生の本質を忘れた浅薄極まりない社会的風潮にあるようです。

 織田信長の「人間五十年」も、「葉隠れ」に曰う「武士道とは死ぬことと見つけたり」も決して死を礼賛するものではありません。今や社会通念と化している女々しい見解が(不勉強ゆえに)曲解しているだけに過ぎないのです。

 大事なことは、われわれは勇気と恥を知る日本人であり、このような香り高い武士道の系譜の上に生きる者であるという自覚ではないでしょうか。正しい考え方を正しくもつことは、決して好戦的でもなければ、自虐でもなく、ましてや差別でもないということなのです。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

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