孫子兵法

孫子兵法

第五回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』

〔2000/01/18〕

一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍

 

☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆


『戦いにおける最大の過失は、戦力と準備の不足を軍隊の精神力によって補おうとすることである』
   …クラウゼウィッツ…


 

◇ 解説 ◇

 上記の言は、一軍を率いて戦う者、つまり、将(リーダー)たる者は、自分の役割・任務が何であるかを常に忘れてはならないことを警告しているものです。

 第一線で戦う兵隊は、あれこれ余計なことを考えず、命令一下、忠実に何が何でも真正面の敵と闘うことを任務としますから、戦闘技術の優秀さ・勇戦敢闘のための精神力(個人的勇気)がなによりも重んぜられます。

 しかし、将(リーダー)たる者の第一の任務は、戦う前にまず、いかに勝つかの作戦を構想し、かつ勝てるだけの条件を整えることにあります。しかる後に、その兵、つまり訓練精到にして必勝の信念に燃える兵隊を投入し、これを指揮し敵に勝つことが第二の任務なのです。

 孫子はこのことを、『能く戦う者は、これを勢に責(もと)めて、人に責(もと)めず』<第五篇 勢>と曰っています。
 ここで「勢」とは、勝つための舞台づくりのこと、「人」とは、個人的勇気・戦技の優秀さの意です。

 戦いは力関件の科学であるがゆえに、もし、将(リーダー)がその点を忘れ、戦いをただ将兵の勇戦敢闘・精神力・戦技の優秀さのみに頼ろうとするならば、それは結果として将(リーダー)の不在(つまり無能)という大きな虚を生じて、敵のつけいるところとなり、敗北を招くと言うのです。

 それでも、相手が我より数段劣っていれば、例えば、日本軍が中国大陸で戦った物量貧弱・士気劣等・武器劣悪の中国軍であれば連戦連勝、我に10〜20倍の敵すら問題なく撃破するであろうが、相手が変り、物量豊富・士気旺盛・武器優秀な米英軍の本格的反攻を受けると、たちまちその虚を衝かれ、将兵の勇戦敢闘も虚しくなす術もなく敗れ去ったがごとしです。

 因(ちな)みに、旧日本陸軍が金科玉条とした作戦要務令の綱領・第二に次の言があります。

「訓練精到にして、必勝の信念堅く、軍紀至厳にして攻撃精神充溢せる軍隊は、よく物質的威力を凌駕して、戦勝を全うし得るものとす」と。

 日本民族の資質は、兵・下士官としては極めて優秀であるが、将(リーダー)としての評価は残念ながらあまり高くない、というのが吹u界的に見た「定説」のようです。

 戦う前に、(高い見識と柔軟な戦略的発想、適確な情勢判断力をもって)まず勝てるだけの条件づくりをすることこそ将(リーダー)としての真の価値なのです。

 その将(リーダー)が、兵隊と同じように主観的精神主義に懲り固まっていたがゆえに、太平洋戦争は敗れるべくして敗れたものと言わざるを得ません。否、むしろ、リーダー達が率先して「見敵必殺・撃ちてし止まん」の近視眼的精神主義を鼓舞していたのが実態ではなかったでしょうか。

 軍部のその精神主義のゆきついた極みが、「神風特攻隊」であったことは言うまでもありません。
 こんなお粗末な将(リーダー)のもとで戦わされた国民こそ「好い面の皮」、まさに戟u死であったといえます。しかも、そのリーダー達は、敗戦の責任すら負おうとしませんでした。

 彼らは、俺たちが悪かったのではない、俺たちはただ国の方針に従っただけなのだ、といいたいのです。リーダーの不在(無能)ぶりもまさにここに極まれり、と言うべきでしょう。

 冒頭に掲げたクラウゼウィッツの言は、今もなお懲りない面々としての日本人に、真のリーダーとは何かを改めて問いかけるものでもあります。

 

○ 活用の指針 ○

 兵・下士官は極めて優秀であるが、将(リーダー)はお粗末であったのは、戦前の軍部ばかりではありません。今日のご時吹u・吹u相を見ても事態は何ら変っていないようです。

 兵・下士官(国民・民間)は極めて優秀であるが、将(政治家・官僚)は、リーダーとしての資質に悖(もと)る者が目に余る、と言えるのではないしょうか。

 マキアヴェッリも、真のリーダーとは何か、その基準について次のように言っています。

「英雄(リーダー)とは、勝利のためにあらゆる手段を講じたうえで、物心両面をあげて戦いに突進する人間のことである」と。

 日本社会のあらゆる部分で制度疲労が目に立つご時吹uですが、21吹u紀に向けての新しい日本は、われわれ国民の一人一人が真のリーダーとは何か、それを改めて明確にし、似非(えせ)リーダーにはっきり「NO」と言えるところから始まるのではないでしょうか。

 それでは今回はこの辺で。

 

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 孫子を学ぶのになぜ古伝空手・琉球古武術なのか、と不思議に思われるかも知れません。だが、実は、極めて密接な関係にあります。例えば、彼のクラウゼヴィッツは、「マクロの現象たる戦争を、言わば個人の決闘的なミクロの戦いへ置き換えることのできる大局的観察能力・簡潔な思考方法こそが、用兵の核心をなすものである」と論じています。則ち、いわゆる剣術の大なるものが戦争であり、勝つための言わば道具たる剣術・戦争を用いる方法が兵法であるということです。

 とりわけ、スポーツの場合は、まずルールがあり、それをジャッジする審判がいます。つまり、スポーツの本質は、娯楽・見世物(ショー)ですから、おのずから力比べのための条件を同じくし、その上で勝負を争うという形になります。つまりは力比べが主であり、詭道はあくまでも従となります。そうしなければ娯楽・見世物にならず興行が成り立たないからです。

 これに対して、武術の場合は、ルールもなければ審判もいない、しかも二つとない自己の命を懸けての真剣勝負であり、ルールなき騙し合いというのがその本質であります。つまるところ、手段は選ばない、どんな手を使ってでも「勝つ」ことが第一義となります。おのずから相手と正面切っての力比べは禁じ手となり、必ず、まず詭道、則ち武略・計略・調略をもってすることが常道となります(まさにそのゆえに孫子が強調するがごとく情報収集が必須の課題となるのです)。

 つまり孫子を学ぶには武術を学ぶに如(し)くはなしであり、かつ古伝空手・琉球古武術は、そもそも孫子兵法に由来する中国武術を源流とするものゆえに、孫子や脳力開発をリアルかつコンパクトに学ぶには最適の方法なのです。

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