第九回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』
〔2000/08/11〕
一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍
☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆
『兵は拙速を貴ぶ』
…続日本紀
◇ 解説 ◇
上記は、孫子の言句として巷間よく耳にするところであり、一般的には、「手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つ」の意に解されております。
しかし、孫子の六千余文字の原文中に『兵は拙速を貴ぶ』の言はありません。正確には『兵は拙速を聞くも、未だ巧みの久しきをみざるなり。』<第二篇作戦>です。
また、孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>の真意は、一般的に解されているいわゆる「拙速」の意味とはその趣旨を大いに異にするものであります。
則ち、孫子の曰う『拙』とは、(政治の手段たる)戦争の目的である(達成すべき)勝利の達成度合いの意であり、また『速』とは、その戦争を手段とする政治目的の達成の速やかさを意味しています。
『拙速』の背景には以下のような孫子の戦争哲学が流れています。
則ち、戦争は不祥の器であり、凶器である。たとえ止むを得ざる事情により開戦したものと雖(いえど)も、長引くことにより、国力を疲弊させ、国を滅亡させたのでは元も子もない。
ゆえに、戦争によって達成し得た勝利がたとえ不十分であったとしても、本来の政治目的が達成できるに足るものであれば(これが拙の意味)、それ以上の欲をかかず、速やかに戦争を終結させて政治目的たる果実を収穫すること(これが速の意味)が賢明である。とりわけ、戦争というものは、あたかも燎原の火の如き性質を持つものゆえに勝利に酔い痴れて調子に乗り欲望の赴くままに振る舞っていると最後はみずからをも焼き尽くしてしまうものである、と。
つまり『拙速』とは、老子の曰う「足るを知る」、あるいは「止(とど)まる知れば殆うからず」と同意と解されます。逆に言えば、老子の思想を軍事に応用し言い換えたものが『拙速』ということになります。
たとえば日露戦争の対露和平交渉で、国力・戦力の尽き果てていた日本が、賠償金・領土問題などで大いに不満ではあるが、適当なところで妥協しなければ、(ロシアは単に極東の地で敗北したに過ぎないから)戦争が長引き不利な状況に陥る可能性が大であるため、ここは我が欲望を制して速やかに戦争を終結に導くのが妥当である、のごとき場合をいうのです。
見方を変えて言えば、『拙速』とは、すでに達成された一定の成果(拙速の拙の意)を踏まえ、さらなる成果(拙速の対概念:巧久の巧の意)を得るべきか否かの判断基準たる、いわゆる追加的利害の大小を考える思考法とも解することができます。
(両者は密接に関係する事象ゆえに)後者の行動の結果いかんによっては、まさに「二兎を追う者は一兎も得ず」の事態を招来し兼ねません。譬えて言えば、故事に言う「蛇足」であり、寓話に言う「兎と亀の競争」であります。この場合、その余分な追加的行動(二兎を追ったこと、蛇の絵に足を書き加えこと、あるいは昼寝をしたこと)のゆえに、本来の目的たる「兎」を取り逃がしたり、「酒」が飲めなかったり、「競争」に負けたりするだけで済みますが、国民の命と国家の存亡が懸かっている戦争の場合は、それでは済まないというわけです。
このゆえに孫子は、こと戦争においては、理想たる「巧久」を目指すより、常に現実的な「拙速」を選択すべしと曰うのであります。
この『拙速』は孫子の中でも最も有名な言句の一つであり、古来愛用されているにも拘わらず、その理解は正しくなく、与えている影響は必ずしも適切であるとは言い難いものがあります。
則ち、巷間いわれている「拙速」とは、孫子の曰う国家政戦略レベルのことではなく、いわゆる「兵は拙速を貴ぶ」の意味として、たとえば、戦場指揮の要諦として、手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つの意に解されています。
手段の拙劣云々はともあれ、「スピードを以てすれば勝つ」の意に相当する孫子の言は、『兵の情は速やかなるを主とし』<第十一篇 九地>ということになります。「兵の情」とは、兵を用うるの理・本質、「速」は、迅速の意です。が、しかし、ここで重要なことは、この言句に「拙」の文言は無いということです。
言い換えれば、そもそも『勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。』<第四篇 形>を根本思想とする孫子が「手段は拙劣で良いとか、準備はいい加減で良い」などと発想するわけが無いということです。準備万端が整っているがゆえに(例えば赤穂浪士の討ち入りのごとく)迅速に行動できると解するのが道理であります。
ゆえに、魏の曹操・梁の孟氏(彼の儒家の孟子ではない)の曰う「拙と言えども、速を以てする有らば勝つ」は、まさに孫子の曰う『拙速』とはその趣旨を異にするものと言わざるを得ません。
もとより臨機応変・状況即応を旨とする戦場指揮においては、勝利を収めるためには確かにそのような側面があることは論を待ちません。しかし、それはあくまで戦場指揮という状況における特殊な側面であり、国家政戦略レベルでの普遍性を言うものではありません。つまり「手段は拙劣なれどもスピードを以てすれば勝つ」がごとき意のいわゆる「拙速」は、当然のことながら現場の長が臨機応変・状況即応して適時適切に判断すれば足りるものであって、わざわざ兵書に書き記すほどのものでは無いということであります。
孫子の曰う『拙速』は、ことの性質上、手段が拙劣であっても達成できるという内容のレベルではないのです。否むしろ逆に、その性質上、徹底した情報収集と準備の周到さを要求されるものなのです。
彼の日露戦争において、日本が軍事的勝利を収めるためにいわゆる「拙速」で良いなどと言う論理は、逆立ちしても出て来る性質のものではないのです。
巷間いわれている「兵は拙速を貴ぶ」が仮に真理であるとしても、それを実現するためには、孫子のいう平素からの周到綿密な準備、即ち『之を経むるに五を以てし』<第一篇 計>がその土台になければならないのは理の当然というべきなのです。
なんでもかんでも「兵は拙速を貴ぶ」では、まさに「思考の停止」状態であり、思考力の程度を疑わざるを得ません。最も、昨今の社会情勢はやたらとこの思慮浅薄な『兵は拙速を貴ぶ』現象が目立つようですが、心痛ましい限りであります。
さて、魏の曹操・梁の猛氏のこの言の影響を受けてかどうか、日本で「兵は拙速を貴ぶ」の言が見られるのは、789年、奥羽における蝦夷征討の遅滞を譴責(けんせき)された桓武天皇の詔(みことのり)においてです。
そこには、「夫兵貴拙速、未聞巧遅(それ兵は拙速を貴ぶ、いまだ巧みの遅きを聞かざるなり)」(続日本紀)とあります。因みに、孫子の言は『兵聞拙速、未睹巧久也』です。一見してその違いをお判りいただけると思います。
言わんとしている真意はともかくとして、記されている内容は、孫子の曰う国家政戦略としての『拙速』の意ではなく、曹操・孟氏の曰う、あるいは巷間いわれるところの「手段は拙といえどもスピードを以てすれば勝つ」を言うものと解せられます。が、しかしこの場合は、むしろ『兵の情は速(すみ)やかなるを主とし、人の及ばざるに乗じ、虞(はか)らざるの道に由り、其の戒めざる所を攻むるなり。』<第十一篇 九地>の言が適当と解せられます。もとより「徹底した情報収集と準備の周到さ」が大前提であることは論ずるまでもありません。
国家政戦略としての『拙速』の意は、上記の場合で言えば次のように解することができます。
則ち、頑強に抵抗する奥羽の蝦夷(えみし)を一度にまとめて征伐し、彼の地を一遍に我が手中に収めようとすることは得策ではない。もとより、できればそれに越したことはないが、ともすればそれは「巧久」の謗(そし)りを免れず、大敗の恐れ無きにしも非ずである。そのゆえに、先ず、一つの会戦において確かに勝利すること、その成果としての(次の備えを兼ねての)前進基地を築き、全奥羽の例え三分の一づつでも可(よ)しとして、確実に中央政府の統治下に入れて行くことが肝要である、と。
つまり孫子の曰う『拙』とは、一会戦の勝利で(更なる欲をかかずに)とりあえず踏み止まること、『速』とは、その成果を踏まえて、(例え三分の一でも可しとして)本来の目的たる全奥羽の経略を段階的に、確実かつ速やかに進めることの意と解されます。因みに、桓武天皇の場合、彼の坂上田村麻呂らを将軍として計三回の蝦夷征討を行い奥羽経略の目的を達成しております。
その意味で言えば、桓武天皇は、その「兵は拙速を貴ぶ」の言とは裏腹に、結果としては孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>の真意は理解されていたということになります。
いずれにせよ、『拙速』は孫子の中でも最も有名な言句の一つであり、古来、用いられているにも拘わらず、いつの頃からか「兵は拙速を貴ぶ」と曲解されてきたようです。
それはそれで一つの歴史的事実ではありましょうが、それにより与えている影響は必ずしも適切であるとは言い難いものがあります。人の言葉や表面的現象を鵜呑みにせず、何ごとも自分の頭で徹底的に考え抜くのが兵法の基本です。
逆説的に言えば、実は「兵は拙速を貴ぶ」とは、このような時代だからこそ(そもそもの)原点を見失ってはならないと、我々に示唆する言葉と解すべきかも知れません。
それでは今回はこの辺で。
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