<ご質問>
孫子の兵法ですが、世間では孫子の「へいほう」とも孫子の「ひょうほう」とも言われております。一体、どちらが正しいのか、はたまた、どちらが一般的な読み方なのか、ご教示ください。
<回答>
兵法は「へいほう」とも「ひょうほう」とも読まれますが、読み方による意味の違いはもとよりありません。ただし、次のように言うことはできます。
1、「兵法」にはなぜ二種類の読み方があるのか。
言わずもがなのことですが、兵(ひょう)はいわゆる呉音読み、兵(へい)はいわゆる漢音読みです。漢音は、中国・唐代の長安付近の音が遣唐使・留学生らにより伝えられたもので、古来、標準的な漢字音とされ、漢籍を読むには多く漢音によります。例えば、行(こう)・京(けい)・明(めい)の類です。漢音が日本に入ってきたのは平安時代の初めのころです。
一方、呉音(中国・長江の下流、現在の江蘇省南京市の辺りとされる呉の音)は、その以前の数百年間に伝来したものと謂われておりります。
つまり呉音の方が漢音より古いわけですが、それは朝鮮・対馬経由で間接的、かつ不連続的にバラバラの形で入ってきたため、はたしてどれだけ正確に呉の地方の発音が伝わったものなのか甚(はなは)だ疑わしいという側面がありました。
そのような事情の下、平安時代の初め、多くの留学生たちが唐の都・長安で直接的にキチンと学んできた漢語こそが正しい中国の発音とされたのであり、それまでの呉音はたいてい漢音にとって代わられましたが、それでも慣用上(主として仏教・医学・軍事などの分野)排斥されずに残ったものが呉音というわけです。
当時の言わば正調中国語という意味では「兵法」は「へいほう」と読むのが正当であり、「ひょうほう」という読み方は日本独自のものということになります。
因みに、兵法は、現代中国語で『ピンファー(Ping Fa)』と発音されます。当時の呉音や漢音の発音が現代と同じか否かはもとより知る由もありませんが、ともあれ、その当時の日本人は、呉の都・南京における発音を「ひょうほう」と、唐の都・長安における発音を「へいほう」と聞いたと言うことであります。
(2)江戸初期頃まで兵法(ひょうほう)は主として「剣術」の意であった
日本の場合、「兵法」という言葉は、室町末期から江戸初期ごろまではいわゆる武芸、それも主として剣術の意と解されています。
彼の五輪書には「この道において、太刀を使いこなせる者を兵法者(ひょうほうしゃ)と世間では謂っている」と。つまり、兵法者(ひょうほうしゃ)とはいわゆる武芸者(剣術使い)のことを意味していたのです。
もとより、宮本武蔵も柳生宗矩も一対一の個人戦の技術と、いわゆる兵法(へいほう)という意味での集団戦(城攻めや用兵の法など)の技術を分けて論じてはいますが(たとえば五輪書では小の兵法・大の兵法)、そのような解釈は当時必ずしも一般的ではなかったということです。
因みに、城攻めや用兵の法など集団戦闘における戦略・戦術の理論を内容とするいわゆる兵法(へいほう)は、日本では「軍学」と呼ばれておりました。ただし、この「軍学」の文字は漢籍にはありません(漢籍では兵学・武学)。つまり「軍学」はいわゆる「和製漢語」ということになります。
(3)後に城攻めや用兵の法は、特に兵法(へいほう)と称して区別された
いわゆる武芸(個人技たる武術)に対して、集団戦たる城攻めや用兵の法などを特に兵法(へいほう)と称して区別するようになったのは、江戸初期以後のことと謂われております(例えば、甲州流兵法・北条流兵法・山鹿流兵法など)。
言い換えれば、兵法(へいほう)という言葉が、上記の「軍学」の意味で用いられるようになったと言うことです。そのゆえに、戦国時代以来の兵法(ひょうほう)と、いわゆる江戸初期以後の兵法(へいほう)とは自ずからその意味内容が異なるということになります。
一方、兵法の本家たる中国においては、(孫子兵法に代表されるがごとく)その概念は、古来、首尾一貫して変っておりません。その意味で言えば、兵法(Ping Fa)に対応する日本語の読みとして兵法(へいほう)が適当であると言えます。
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