第16回 「獅子身中の虫」たる内部から発する災いへの危機管理2011.1.21
<質問> 

 いつも思うのですが、このサイトの「孫子談義」は、様々な質問に対する回答があまりにも無料で公開され過ぎていると思います。実に奇特なことと深謝しつつ平素より拝読させて頂いております。この度も厚かましさを承知の上で質問させて頂きます。

 彼の王陽明の『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』の言の如く、(あの手この手でやってくる)いわゆる外部の敵に対しては予めそれなりの覚悟と対策を準備するので、これに適切に対処することはそれほどの難事とは思いません。しかし、味方内部からの突然の裏切り行為や敵対行動などの予期せぬ出来事は、直ちに味方の動揺や士気の阻喪を招き易く、延いては自らの虚を外部の敵に曝け出すこととなり、結果的に敗北の因ともなります。

 このような、言わば「獅子身中の虫たる内部から発する災いへの危機管理」という観点から、改めて『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>の理解を深めることは大変に重要なことと考えるのですが、先生のご見解をお伺い致します。


<回答>

              孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者 佐野寿龍

 確かに言われる通り、このサイトは余りにも「無料」で孫子兵法を公開している嫌い無きにしも非ずでありますが、私は、世の中の人の多くは路傍のダイヤモンドを単なる石ころと見、単なる石ころをダイヤモンドと信じて疑わない「群盲、象を評す」がごとき思考癖があると観じております。

 言い換えれば、そのような人々には真の理解はできませんので実質的には「無料」で公開ということにはなりません。

 私がここに「無料」で書いている理由は、その内容が真に理解できる思考レベルの高い方々に読んで頂きたいからであります。そもそも孫子兵法は将帥論でありますから自分の頭でものを考える習慣の無い人(言い換えれば生涯一兵卒の立場の人)には理解不能な書物なのです。

 逆に言えば、(たとえばご質問者様のような)理解力の高い人には当サイトの価値がすぐに分かるということであります。そのような人はたいてい黙って弊塾の孫子兵法講座(正式名称は孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法講座)を受講されておられます。

 この間も香港在住の華僑の方が受講され、流麗な日本語で毎回、実にキチンとレポートを提出されております。私の講座もついに本場中国の方に理解されるようになったのかと(手前味噌ながら)感慨しきりであります。尤も私は、近代における中国の孫子研究のレベルは余り高いものとは思っておりませんが。

 それはさておき、早速本論に入りたいのですが、ここでは要点のみに止めさせて頂きます。既に述べた如くこれだけで分かる人には分かると思うからであります。少なくとも当塾の卒業生であるご質問者様には十分お分かり頂けることと思います。


一、人間は自分で自分を騙す動物である。

 兵法の本質は詭道(勝ち易きに勝つ)にあります。而して、その詭道なるものは(得意になって外なる敵をあの手この手で欺く前に)まず内なる自己を他ならぬ自分自身が欺くものであるという認識が必要です。

 ここでもまた兵法は、(二重の意味での)『彼を知り己を知れば』<第三篇 計>ということになり、その敵と味方を明確に弁えた上で<第六篇 虚実>にいう主動権奪取の問題をどうするかということであります。

 言い換えれば、敵に欺かれないため、あるいは敵を欺くためにはまず自分自身が自分自身に騙されない人間であることが肝要です。たとえば、振り込め詐欺は自己の外部の人間が条件をつくりますが、真の原因は自分自身が他ならぬ自分を騙しているということであります。

 もし、これを認めなければ、振り込め詐欺の被害者は皆、宇宙から来た怪電波の司令により振り込んだことになります。しかし、振り込んだのは宇宙の電波によるものではなく、紛れも無く自己の意志に他なりません。

 孫子はこのことを『将の五危』<第八篇 九変>の問題として論じおります。


二、孫子の曰う『九変の術』の意味

 常に計算外の偶然の要素が作用するのは森羅万象の実相であり、かつ相互に自由意志を持つもの同志の戦いにおいては、「想定外」のことが起きるの言わずもがなのことであります。

 そこでどうするかを論じているのが『九変の術』<第八篇 九変>であり、<第六篇 虚実>で論じる主動権奪取の問題であります。

 余談ですが、あれほど「想定内」を連発していた彼のホリエモンがなぜその反対物である「想定外」のことに思いを致さなかったのか不思議です。リーダーが孫子を愛読していると謂われるソフトバンクをホリエモンが超えられなかった所以(ゆえん)であります。


三、本来、リーダーの任務は厳しいものである。

 自己内部の心の危機管理の問題ですが、これも『将の五危』<第八篇 九変>、裏を返せば<第一篇 計>で曰う「将の五徳」の問題であります。つまるところ、死生観、人生観をいかに確立するかということであります。

 これについて呉子は「それ善く将たる者は、漏船の中に座し、焼屋の下に伏するが如し」と論じています。

 つまり、善く将たる者は、いつ船が浸水して溺死するか、はたまた、いつ焼け落ちた屋根の下敷きになって焼死するかという切羽詰った状況に直面するがごときの心掛けをいつでも準備しているということであります。

 そのような絶体絶命の危機的状況において、沈着冷静に臨機応変・状況即応できるのが将の将たる所以(ゆえん)であると言うのです。逆に言えば、生半可な気持ちでは将(リーダー)などにはなるな、世の中が混乱する、と言うことであります。

 本来、組織における非リーダー層のためのセーフティーネットたるべきものが終身雇用と年功序列のはずですが、これをリーダー層にまで適用してるのが日本社会のおかしさであり、無責任さであります。そもそも、いつでも腹を切るのがリーダーの責務ゆえに、ことに臨み自己責任を全うするのが本来の姿である。その覚悟なしにリーダーなどという大それた仕事はするな、世の人が迷惑する、と言うことです。

 リーダーとはそのために地位も名誉も金も与えられているのであり、そもそも終身雇用・年功序列の概念に当て嵌まらないのです。

 そもそも腹も切れないような胆力も勇気もない人間が終身雇用・年功序列のゆえにリーダーになっていること、そのことが現代の日本社会に蔓延している閉塞感の元凶なのです。

 加えての奇々怪々は、リーダー層の終身雇用・年功序列は守られる一方で、本来、守られるべき非リーダー層の終身雇用・年功序列が有名無実化しつつあるようです。本末転倒とはまさにこのことです。

 とは言え、「地位も名誉も金も欲しい、しかし責任は取りたくない」のごとき似非(えせ)リーダーの横行を平然と見逃している日本国民の無定見と政治音痴振りに責任の全てがあることは言うまでもありせん。

 彼のジャンヌダルクやフランシーヌの場合のごとくに、あるいは今回の雇用制度をめぐる若者の反乱のように、おかしいと思ったら、デモやストで政治を変えようとする風土をもつフランス人の姿勢を日本人は真摯に見習うべきであります。


四、日本にもかつては燦然たるリーダーの歴史があった。

 尤も、日本にもかつて世界に冠たる武士道の伝統がありました。生き恥を晒し、おめおめと生き延びても人は必ず死ぬ(奢れる者のみが久しからずではなく、奢れざる者もまた久しからずなのである)。その間、楽しみが多いかと言えばむしろ生ゆえの苦しみの方が多い。であるならば、生きる屍と化した余生よりも武士の名誉を重んじ、今ここで潔く腹を切り、末代までその名を残した方が人として美しい生き方である、とするのが武士の思想であります。

 赤穂浪士の切腹を将軍綱吉に強く進言した荻生徂徠の真意はまさに日本古来の武士の生き様に基づくものなのです。そのゆえに赤穂浪士の名は今もなお、燦然と輝いております。これが日本人の美学なのです。

 つまり、たとえばそのような覚悟を常にもつことを心掛ける事、これが内部における心の危機管理に適切に対処できる道と言えます。

 いずれにせよ、危急存亡の時に当たり、窮地を脱する真の意味での智恵や臨機応変の対処、決断ができるのは決して偏差値優先教育を典型例とするいわゆるペーパー的知識ではなく、その人物が平素より鍛錬し骨肉と化している思想であり哲学であります。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。

 このコメントを読まれた方の中からは「獅子身中の虫たる内部から発する災いへの危機管理」の具体策が何も示されていない。答えになっていない、との声が上がって来そうであります。

 しかし、そのような方々には孫子の顰(ひそみ)に習い、あえて『これ兵家の勝ち、先には伝う可からざるなり。』<第一篇 計>とのみ答えておきます。
 この言の真意が分かれば、おそらく上記の疑問は愚問であることが分かるはずだからであります。


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 第15回 詭道の本質は無備を攻め、不意を衝くにある2011.1.13
<質問>

 「詭道」ということに関しまして、古事記を例にとり、質問させて頂きたいことがあります。

 日本人の古(いにしえ)の様々な事跡を抽象的に集大成した、いわゆる日本神話たる古事記を読んでおりますと、そこには数々の戦闘に関する事象がかなり抽象化された形で言語化され記述されております。それらを分析して見ると、明らかに一定の形式、つまり「謀略・詭計」などという言葉がキーワードとなっております。

 言い換えれば、「勝ち易きに勝つ」ためには、敵に油断をさせ、そこに生じる隙に乗じて征伐するという、まさに孫子兵法でいう『兵とは、詭道なり。』の原理原則に遵う形式になっていると言うことです。

 素盞鳴命の八岐大蛇退治、倭健命の熊襲・出雲健征伐、神武天皇の東征での土蜘蛛征伐など、どれをとっても敵の立場に和し、楽しい・嬉しい・快いという人間なら誰でも持っている普遍的な心の道理を踏まえつつ、酒宴、親善友好などによって敵に接近し、正面から力攻めするのではなく、かなり巧妙に「人を致す」ように、自分の戦い方に自然に巻き込み、実に効率よく敵を制圧してしまっているということです。

 見方を変えれば、敵を楽しい、嬉しい、快い状態にして、敵が勝ったと優越感に浸った瞬間が敵の滅亡であることをおさめることこそ、詭道の本質であり、究極の謀攻であると思います。このような理解で宜しいでしょうか。


<回答>

                         孫子塾塾長 佐野寿龍
           
1、詭道の本質は「無備を攻め、不意を衝く」にある。

 いわゆる論理的思考法には演繹法と帰納法があります。前者はまず定理(絶対的な法則)があってそこから導かれる個々の結果は常に正しいという論法です。後者は、広い世界からある程度限られた資料を集め、その中から共通の法則を見つけてそれを一般化するという方法です。

 人間の脳のやり方は後者(帰納法)であり、そのために必要不可欠な要素が抽象化(抽象的思考)ということになります。

 その意味で米田さまがご指摘されている『酒宴・親善友好などを縁として敵に接近し、正面から力攻めするのではなく、かなり巧妙に「人を致す」ように、自分の戦い方に自然に巻き込み、実に効率よく敵を制圧してしまっている』は、まさに抽象化・言語化であります。

 しかし、問題は古事記に敵を誑(たぶら)かす方法として「酒宴・親善友好」が多用されているからといって、そのことをもって直ちに「酒宴・親善友好」が詭道の一般化(もしくはキーワード)と速断してよいかどうかということです。

 孫子の曰う詭道とは、『其の備え無きを攻め、其の意(おも)わざるに出づ。』<第一篇 計>でありますから、もとよりその方法は多種多様・千差万別ということになります。その中の一つの偽装方法が「酒宴、親善友好」ということであります。逆に言えば、いくら「酒宴、親善友好」の方法をもってしても、相手の警戒が万全であれば付け入ることはできませんし、強行すれば「自ら墓穴を掘る」結果となります。

 つまり、そのような多種多様・千差万別の方法をさらに抽象化し、それらに共通して当てはまるキーワードは何かということでありますが、やはりそれは「無備・不意の状況」で括るのが適当と解されます。
 その意味で、言われている「酒宴、親善友好」の方法は、それによって相手を油断させ、もしくは油断する状況を演出し、その「無備・不意の状況」に乗ずるということであります。

 言い換えれば、孫子の曰う『詭道』とは、まさに「無備・不意の状況」を利用し、もしくは「無備・不意の状況」を演出して勝ち易きに勝つ方法と言うことになります。そのための手段が無数にあることはもとより言うまでもありません。

 そのゆえに孫子の曰う『詭道』とは、「勝利のための固定した原理・原則などはない。あるのは利用すべき状況だけである」と言い換えることができます。

 逆に言えば、詭道、即ち「無備・不意」の状況を仮に「酒宴、親善友好」の場合のみと限定すれば、詭道の範囲が極めて狭いものとなり、そもそも抽象化・言語化するのは応用範囲を広くするためという本来の趣旨から大きく逸脱することになります。

 孫子の曰う『詭道』とはまさにそのような意味を含めての『詭道』であると解せられます。まさに「深いかな、孫子」ということであります。


2、なぜ、一般的に孫子の活用は難しいとされるのか。

 孫子の言は、高度に抽象化された言わばキーワードであるために、孫子を活用しようとすれば、まず活用しようとするその状況の本質を的確に抽象化できる脳力が要求されます。そうしなけれは、高度に抽象化された書物たる孫子の思想を適切に引き出すことができないからです。

 しかし、ここで問題なのは、一般的に人は(自惚れや自己の良形視から)自分に限っては十二分にその状況の本質を把握していると思い込み勝ちなものであるということです。

 言い換えれば、世のいわゆる「孫子読み」には肝心の自分という観点がスッポリと抜け落ちているというのが実際のところであります。『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>の真意はまさにそこにあります。

 逆に言えば、活用の対象とする自分の状況の本質を的確に抽象化できない人間が、抽象化の最たるものである孫子を活用することなどできるわけが無いということです。つまり、抽象的な知識の「頭での理解」と「体得」とは自ずから別であるということです。

 ご質問者さまもご承知のように、世の「孫子読み」の多くは、この当たり前のことすら真摯に考えようともせず、単に表面的かつマニュアル的に、あるいは、適当な事例に孫子の金言名句を機械的に結びつけることをもって、あたかも孫子の活用のごとくに曲解し、高言する輩が多いことは実に嘆かわしいことであります。

 このような曲学阿世の輩に単純に乗せられる人が多いゆえに、例えば「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」のごとき現象が一般化するのだと愚考するものであります。

 吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。


<ご質問者さまの感想>

 先ず、帰納法・演繹法を解説し、孫子兵法に流れる理論の構成について解説し、その理論そのもの解釈する上での留意事項をきちんと指摘し、孫子兵法を学習する道標としているものには初めて接しました。

 このような学術的・科学的な態度で孫子兵法を解説するところは孫子塾を除いて他にありません。その他多数の孫子兵法に関する文献は、このようなところがきれいに抜け落ちていると思います。

 次に、先生の教示を受け、その「古事記」に流れる詭道の根本、真意とするところについての考えが改まりました。

 なぜなら、先生の教示を受けるまでは、『古事記』に流れる詭道というものを自己の頭で自己流に切り取り、自己の頭の中だけで定義付けていたということであります。この欠点というか致命的弱点をよく指摘していただいたと思います。誠に有り難うございました。

 その己の欠点・致命的弱点を再考してみますに、まさにそれは「狭義に囚われている」こと他ならず、つまりは己を知らぬこと、彼を知らぬことでもありました。

 変化流転して極まりなき状況をいかに活用するかを考えた場合、そのままでは敵に首を取られて然るべき状態にあったことに気づかせていただき、本当に背筋が寒くなりました。

 孫子兵法は、軍人なら軍人の囚われ、学者ならば学者の囚われ、ビジネスマンならビジネスマンの囚われ、というそれぞれの囚われの枠が嵌められて、それぞれ解釈され、未だにその慣習からは「解脱」されていないと思います。

 孫子塾は、本当に執着なく、囚われなく、まさしく仏教でいう「空」から孫子兵法を教示するところは全国どこを探してもない大変高度な教育機関以上の存在であると思います。


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 第14回 偽装進学校・高校野球特待生問題を斬る2009.11.24
<質問> 

 偽装進学校とは、大学への進学実績を宣伝するために、一部の成績優秀な生徒に高校から受験料を支出して、多くの大学を受験させて合格させ、その合格者数を延べ人数で集計し、外部に公表することです。

 言い換えれば、あたかも一流進学校であるかのようなことを偽装し、その数字やイメージをもって中学生・保護者に洗脳をかけることで、次年度の生徒募集に役立て、入学定員の確保、即ち、経営の安定化を企図するものです。

 つまり偽装進学校は、一流になりたいけれどもなれない二流、三流クラスであり、教育内容で勝負するよりは、まことしやかな宣伝で中学生受験者を誤魔化そうとする特徴があり生徒たちを食い物にしていることは否定できません。

 そのやり方は、まず男子校・女子校から男女共学へ、そして学年のクラス編成では特別進学コースとか、理数系進学コースとかいうような選抜クラスを設けて、実際には学年全体の一握りの生徒の中にいる、ごく少数の成績優秀な生徒に有名大学合格者を輩出させて、自らの高校を質実剛健に見せるものです。

 このような高校に通う成績優秀ではない多数の生徒、その保護者にしてみても「私は進学校に通っている」「うちの息子・娘は進学校にやらせている」と世間的な外面を取り繕うことが可能なので、全体的にはお互いに恩恵を受けているというところもあるのです。

 このようなところを実質的に補うのが学校法人という組織ではなく、営利目的の法人組織(株式会社、有限会社)である学習塾、予備校、教育企業であり、教育産業という領域を形成しています。この学習塾こそが延べ人数で合格者を発表するのです。

 偽装進学校とは、この学習塾・予備校の実績を流用しますし、学習塾・予備校は、全ての高校が進学校になれば存在価値はなくなりますので、両者は互恵的な関係にあるというわけです。

 そもそも私立学校の本義とは、国営学校が知識教育に偏重している盲点をついて、まさに人間教育を独自の観点から行わんとし、それなりの人材の育成と社会への貢献を目指したところにあり、当初はこのような私立学校が多数設立されたことであったと思います。つまり、私立学校の本質は人間形成教育なのです。

 しかし、いつの間にやら、土地と建物と人と金が集まるところから、お金儲けに目がくらみ、人間形成教育に身をおいているところを取り違え、若人の教育には本当に悪い「金儲けのためなら何をやってもいい」とか、「要は学校経営だ」とか、本来の戦略を忘却し戦術に血道をあげている姿は何ともあさましいものであると思います。

 一見すると、いわゆる偽装進学校とは、「人の行く道の裏には花の山」のごとく世間の言わば虚栄を巧みに衝いて経営しているように見えますが、実は、小手先の小ざかしい工夫を弄して中学生とその保護者をだまくらかして自分の高校に入学させること、言い換えれば、入学金を巻き上げ、定員充足から公的補助金を受け取ることにあり、実際に入学後の生活指導、進路指導の出来不出来まできちんとチェックするのかどうかは定かではないのです。

 このような視野の狭い、姑息な小手先の戦略戦術を弄することなく、巨視的に現代社会の矛盾を虚心坦懐に洞察すれば、まさに偽装進学校の悩みを抱えている私立高校こそ起死回生の策があると考えますが、いかがでしょうか。 



<回答>

                         孫子塾塾長 佐野寿龍

 私立高校が大学の受験料を補助してその合格者数を上乗せして公表するという、いわゆる「偽装進学校」問題と、いわゆる「高校野球の特待生」問題とは、教育現場における同根の病巣と解されます。

 孫子の『夫れ、戦いて勝ち攻めて得るも、その功を修めざる者は凶なり。』<第十二篇 火攻>の言を引くまでもなく、(この場合は)何のために合格者数を偽り、はたまた野球強豪校の名を欲するかということであります。

 もとより目的とするところは、共に、その宣伝効果に期待し、学校の知名度を上げ、延(ひ)いては学校経営の安定化を図るためのものと解せられます。その意味では、まさに『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>の如く、それはそれで一つの有効な手段ということができます。

 しかし、ことの「善し悪し」という意味においては、両者には似て非なる相違があります。つまり、人間社会のモラルとして許容できる範囲か、できない範囲かという問題です。


一)高校野球特待生(スポーツ推薦制)は是か否か

 スポーツ推薦制の弊害たる最大の理由は、バランスのとれた基礎学力の習得が最も必要とされる中学生時代に「勉強はしなくても良い、スポーツだけやっていれば高校へは進学できる」との歪んだ認識を周囲の大人から植えつけられ、自然に学業から遠ざかるということです。

 その結果として、(本人の意志とは言いつつもその実は)親や少年野球の指導者が待遇によって進学先を決めていたり、ブローカーなどが暗躍して金銭がらみでの中学生の売り込みが行われるのであります。

 そのようにして高校や大学に進学しスポーツ漬けの学生生活を送っても、プロとして活躍できる人はほんの一握りに過ぎず、殆どは基礎的学力の不足したまま引退し学園生活を終えることになります。言い換えれば、実社会を生きる手段を何も持たないまま実社会に放り出されるということです。

 もとより、そのような逆境をどう跳ね返すかは、それこそこれまで鍛えたスポーツ根性の精華と言いたいのでしょうが、如何せん(スポーツ推薦制に起因して)その当人に基礎的学力や向学心が欠落しているということであれば、折角の「スポーツ根性の精華」も空しく空回りし、単なる気休めの掛け声で終わり勝ちであります。つまり、それは教育の名に値しないということであり、スポーツ推薦制の弊害、ここに極まれりと言わざるを得ません。

 とは言え、そのような必要性も確かに世の中には存在しておりますので、必ずしもそれを否定するものでありませんが、せめて、中学校長推薦を義務付け、その第一に、例えば学業成績中程度以上の者に限るとの条件を付すべぎと考えます。

 一般的に言えば、スポーツは勉強より楽しい。ましてや、子供は本来、遊びたいものです。だからといって、「勉強しなくても良いからスポーツさえできれば良い」という論理にはなりません。心身の健全な発育や人間形成のためには、人間としての知性を磨く必要があるからです。

 逆説的に言えば、「スポーツに打ち込みたかったら、当然、勉強も頑張らなければいけない」ということです。その健全なバランス感覚を無視し、大人の利害、見栄や名誉のために、子供のスポーツ的才能だけがあたかも商品のごとく評価され、取引されるのは論外と言わざるを得ません。

 その意味で、夏の甲子園において、野球特待生ゼロ、普通の県立校にして進学校でもある「佐賀北」野球部が特待生の集団とでも言うべき全国の強豪校と堂々と渡り合い、初優勝したのは(高校野球いかにあるべきかの)まさにモデルケースと言えます。

 孫子は『智者の慮りは、必ず利害を雑う。』<第八篇 九変>と論じております。高校野球特待生(スポーツ推薦制)の「利」のみに目を奪われれば、必ずその反対側面たる「害」が憂いを引き起こすのであります。

 このゆえに孫子は、『尽(ことごと)く兵を用うるの害を知らざる者は、則ち尽(ことごと)く兵を用うるの利も知ること能わざるなり。』<第二篇 作戦>と曰うのです。高校野球特待生(スポーツ推薦制)制度の容認に際しては、中学校長推薦を義務付け、その第一に、例えば学業成績中程度以上の者に限るとの条件を付すべしとする所以(ゆえん)であります。


二)いわゆる「偽装進学校」の罪と罰

 これは確かにご質問者さまご指摘のように、昨今の耐震偽装問題、精肉偽装問題と軌を一にする構造を有しており、学齢期の子を持つ善良な世の親や社会を欺く詐欺まがいの所業と言わざるを得ません。

 その意味で、上記した高校野球特待生(スポーツ推薦制)のごときは、学業成績に一定の条件(例えば学業成績中程度の者以上など)さえ付ければ、社会的に許容される範囲ではありますが、この「偽装進学校」問題に関しては、いかに私立高校サバイバルの奇策とはいえ、到底、許されるべきものではありません。

 新聞報道によれば、水戸市の私立水戸葵陵(きりょう)高校では受験料だけでなく、成績優秀な一部の生徒が通信教育「Z会」を受講する費用を負担していたということです。

 記事によれば、『05年度は、同校が普通科に作った医歯薬コースの一期生が大学受験に臨んだ年に当たる。大学受験料の補助を始めたのも同コース一期生からで、昨春は5人に12校、今春は4人に11校、私立の医学部や東京理科大、早稲田大の理系学部などを受けてもらったという。(中略)ホームページやパンフレットに書かれている大学合格実績は、05年春の177人から、昨春は356人、今春が306人と増えている』とある。同校の特待生制度は四種類で、成績によっては入学金から授業料まで免除するそうである。


 この極端な例が、偽装進学校問題の発端となった私立大阪学芸高校の場合であり、「有名大学73校合格は実は一人」であったのに「関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)に多数合格」と誇大宣伝をししています。

 言い換えれば、一部の成績優秀者に有名私大を併願受験させて合格させ、その合格者数を延べ人数で発表することによって恰(あたか)も「一流進学校」の如く偽装し、それに騙されて入学してくる圧倒的多数の「普通の成績の生徒」の収める入学金・授業料、はたまた定員充足から公的補助金を受け取ることによって学校経営を行っているということです。

 つまり、そこにあるのはまさに受験の結果だけだあって、本来の教育たる入学後の生活指導や人間教育、進路指導などがキチンと行われているか否かは定かではないということです。これでは、教育産業どころか教育虚業と言わざるを得ません。

 その意味で、これら偽装進学校と教育産業たる大手予備校・学習塾が弾き出す偏差値との関係は、まさに持ちつ持たれつのシステムであり、お互いがお互いを必要とする密接不可分の関係にあると言わざるを得ません。

 かてて加えて、大学は大学で、定員充足のために新入生の七割ぐらいを推薦入試で確保しておいて、一般入試で倍率が高くなるように設定し、そこでの偏差値を宣伝してさもハイレベル大学の如くに偽装するに至っては、何をか曰わんや、であります。

 いずれにせよ、営利法人たる大手予備校・学習塾の場合はさておき、いやしくも学校法人たる私立高校や私立大学がこのような偽装を平然と行うのは、まさに「天知る、地知る」の大罪であり、必ずや天罰が下るものと言わざるを得ません。

 少子化による大学全入時代の今日、大手予備校・学習塾の錬金術システムのカラクリが一度、白日の下に晒されてしまえば、もはやその神通力は失せたものと言わざるを得ません。その意味で、私立高校は一刻も早く、そもそもの建学の精神に立ち返り、サバイバルの策を講ずるのが適当と考えます。

 とは言え、ことは構造的な問題ゆえに、あたかも参院選一人区における地域活性化のごとく即効性のある案などあるわけが無いものと心得るべきです。そのゆえにこそ、一見、迂遠のようではありますが、ここは一番、その本質に立ち返り、根本から問題を検討する姿勢が重要なのです。

 孫子の曰う五事、即ち『道・天・地・将・法』<第一篇 計>とはまさのこのような場合に解決の糸口を提示するものであります。


三)私学の建学の精神とは何か

 これは、ご質問者さまご指摘のように『そもそも私立学校の本義とは、国営学校が知識教育に偏重している虚をついて、まさに人間教育を独自の観点から行わんとし、それなりの人材の育成と社会への貢献を目指したところにある』と言えます。

 然らば、人間形成教育とは何か、ということであります。これを脳力開発的に言えば、知識教育に偏らず、精神教育、思考教育の三面を偏重させずバランスよく全体的に進めることにあります。そして、その人生において困っても困らない人間になることであります。

 然るに、今日の私学の抱えている根本的矛盾は(偽装進学校問題に見られるがごとく)国営学校と同じく、否、むしろそれ以上にいわゆる知識教育のみに偏重しているということです。これでは私学の建学の精神、すなわち官学に対するその独自性は失われたも同然であり、ここに今日の悩める私学の根本問題があると解せられます。


 とは言え、(明治維新による四民平等の世の到来以降)日本のリーダー選出のシステムが、(国家公務員第一種試験に代表されるがごとく)基本的にはペーパーテストによって決せられる以上、私立学校と雖も、偏差値アップを図るための受験指導を避けて通るわけにはいきません。

 ゆえに、それはそれで徹底的にやる必要があることはもとより言うまでもありません。ただ(夏の甲子園で初優勝した県立校にして進学校の「佐賀北」のごとく)ルールに則って公明正大にやるべしということです。

 その原点を忘れて「有名大学73校合格は実は一人」のごとき小手先の策は弄すべきではありません。とは言え、「このような偽装宣伝は、実は、教育産業たる大手予備校・学習塾が経営の主軸として行っているものであり、件(くだん)の私立高校は単に便乗しただけなのだ」との声が聞こえて来そうです。つまりは、世間がそうだから便乗せざるを得ないのだ、ということです。

 言い換えれば、公明正大な競争のためのルールが大手予備校・学習塾によって不正に操作され、それが真実のごとく偽装されているということです。

 まさにこの問題が『昨今の耐震偽装問題、精肉偽装問題と軌を一にする構造を有している』と指摘される所以(ゆえん)であります。そのゆえにこそ、この「偽装進学校」の問題の根は深く容易ならざるものがあると言わざるを得ません。

 このような悪条件の中において、それでも私立学校の為すべきことは、公明正大なルールに則り、適切な受験指導を展開し、実力で社会の信用を得るしか道はないと心得るべきであります。これが孫子のいわゆる五事に曰う『道』<第一篇 計>の意と解されます。

 上記の観点を踏まえ、然(しか)らば、私立学校はいかにして本来の建学の精神を発揮すべきかということであります。

 つまり、孫子の曰う五事の観点からすれば、今、問われている学校教育の問題点は何か、あるいは今後の教育は何を目指すべきかを徹底して考えることであります。


四)今後、私立学校教育の進むべき方向についての一提案

 五事的観点に立てば、次のように言うことができます。

(1)「考える」という行為こそ、万物の霊長たる人間の最高に楽しい知的快感であるため、広い意味でこれこそが勉強の本質であるということ。

(2)真の教育とは、実社会において様々な問題と直面した時、自分の頭を使い自分で答えを考え出す脳力の養成にあるということ、言い換えれば、人生、どんな問題が起きてもこれに適切に対処して困らない人間になるということであります。

 その意味での問題は、高校生であろうが社会人であろうが万人に均しく生起するものであり、かつその範囲も日常の小さな問題から政治・経済・外交問題など広大無辺に亘るものであります。つまり、人生とは問題解決の別名に他ならず、これに如何に対処するかの基礎的理論や技法を教えることは、ある意味で、何にも優先する最重要の教育目的であります。 


 上記を合成すれば、おのずから「問題解決の具体的方法論」を学校教育の一環として実践するという、言わば一石二鳥の起死回生策が俎上に上がって参ります。

 このような「問題解決の具体的方法論」はまさに教育の究極の本質でありながら、目先の利益優先の近視眼的な偏差値教育に汲々とする余り、これまでの学校教育では見向きもされて来なかった分野であります。

 逆に言えば、偏差値の云々の問題も、つまるところは、人生の「問題解決」のための数ある手段の一つに過ぎないのであり、本来の目的たる問題が根本的に解決されれば偏差値云々にこだわる必要はないのです。

 否、むしろ偏差値云々のいかんなど枝葉末節の問題であり、「問題解決の具体的方法論」を体得させることこそが私立学校教育の焦眉の急と心得るべきなのです。

 この教育を(受験指導とは別の体系として)他に先駆けて確立しシステム化することが、結果として、画一的な今までの学校教育では生み出し難かった、例えば、リーダーシップ、自立性、独創性、国際性を具有した人物を輩出することになり、私立学校への社会的な評価や信頼はいや増すことになります。

 激動の世界大競争時代を迎え、偏差値一辺倒の知識教育が行き詰まった今日、私立学校は徐々に上記のごとき方向に教育の目標を方向転換すべきであると考えます。

 蛇足ながら言えば、現代の日本において最も適切な問題解決の方法は、あらゆる角度から見て故城野宏先生の提唱された「脳力開発(狭義の脳力開発+情勢判断学)」であると断言できます。

 とは言え、問題解決は結局のところは、抗争・葛藤・勝敗といった概念に行き着くゆえに、いわゆる「戦いという事象」を簡潔に理論的に総括するところの兵書孫子の戦略的視点を究明する必要があります。

 つまり、孫子を理論篇とし、脳力開発はその実践論という位置づけで問題解決の体系的システムが構成されるわけであります。でき得れば、精神的・肉体的練磨という意味で、上記に日本古来の古武術(いわゆるスポーツ武道・競技武道に非ず、ましてや剣道やダンスの必修などとは似て非なるもの)の実践行を加味すればまさに鬼に金棒と言えます。

 例えば、このような教育を前提としての進学校であれば、不正な手段をもって誇大宣伝を宣伝せずとも学びたいという希望者はいや増すことでしょう。

 いずれにせよ、日々生起する様々な問題をテーマに、正規の授業の一環として、上記手法を駆使して問題解決の方法を具体的に体で覚え、それを通して思考力・精神力を磨くことはこれからの私立学校の目指すべき方向であると断言できます。


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